syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

富士山と風穴

2014-08-09 | 富士山麓日記
8/4今日の富士山、曇です。


風穴をみにでかけました。風穴に至る山道。
青木ヶ原樹海の豊かな緑に囲まれた富岳風穴。中に入ると夏でもひんやりと涼しく、平均気温は3度。
昭和初期までは、蚕の卵の貯蔵に使われていたという天然の冷蔵庫!国の天然記念物にも指定されています。
総延長201m、高さは8.7mにおよぶ横穴で、内部は不思議と音が反響しません。これは壁の玄武岩質が音を吸収する性質をもっているためです。
所要15分の見学コースでは、夏でも溶けない氷柱や、溶岩棚、縄状溶岩などが見られます




風穴入口、結構夏休みとあって混んでいます。


洞窟のように真っ暗な入口、ここでもう寒い、半そででは短時間ならOK。


冷蔵庫のような寒さ。


氷柱がびっちりです。 




東京へ帰ります。朝焼けの高速。





美濃路の大垣宿と石田三成本拠地

2014-08-07 | 気まま旅
大垣市は,城の復元、内外堀の一部現存し、住吉 燈台等が残り、芭蕉元禄の町・城下町。

岐阜県南西部、西美濃地方の中心都市(商工業都市)・揖斐川中流の低地で、支流の中小河川と井戸も多い「水都」と呼ばれている。
大きな柿を産するので古くは、「大柿」と書かれ、又、水害から守る為の堰堤を築いたことから大垣と書かれるようになったと云う。
古代から開け、美濃国分寺がある。江戸時代は、戸田氏10万石の城下町。
美濃路の宿場として栄え、北西部の「赤坂」は、中山道の宿場である。
俳人「松尾芭蕉」は、大垣に三回訪れ「奥の細道」の結びの地としている。
明治には、大理石・大正に繊維、化学機械などの産業が発達そいている。

水門川は、大垣城の外堀で、桑名方面への舟運に利用され、県史跡の「住吉灯台」で知られている。

 大垣東総門ー小原鉄心邸跡ー藩校敬教堂跡ー八幡神社―四季の広場ー奥の細道ー住吉燈台などが


「大垣の井戸」
上井戸'第一水槽・下井戸第二水槽に別けられ、下井戸は洗い場として使われ、ここの水は生水で飲まないように注意書きがある。

「船町公園の自噴水」
「奥の細道むすびの地」の船町周辺は、水都大垣を象徴する「井戸」の風景。
道路下にある自噴井戸、水の一部は公園内の水場や、噴水などに引かれていると云う。

               名水大手いこ井の泉(郭町)水温14度の地下水が
  

「水門川」
大垣市笠縫町付近に源を発し、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、市内の中之江川などの中小河川、排水路を合わせ、輪之内町で揖斐川の支流である
牧田川に合流する。

水門川は、1635年大垣藩主として大垣城に入城した「戸田氏鉄」により城の外堀として築かれた。
城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っている。
松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町であり、芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿へ向かい江戸に戻っていると云う。
現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、川湊であった船町港には、有名な「住吉灯台」も残っている。

     住吉燈台・船町港跡  松尾芭蕉は、1689年秋、奥の細道の旅をここ大垣で「蛤のふたみに別行秋そ」
    

「住吉灯台」
水門川の岸のある常夜灯。桑名方面舟運に利用された港で、航行安全の為1685年に建てられている。
芭蕉は、ここから伊勢へ下り、「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と詠んでいる。

                           桑名方面舟運に利用
    

水門川は、城の外堀であった。幾多の戦いで街並みも焼失したが、川の流れは変わっていない、「水門川遊歩道・四季の路」は、折々の草木が茂り、
道行く人を楽しませている。

「美濃路」は、徳川幕府を開き五街道整備を行い、美濃路は、中山道と東海道を結び、垂井から大垣の城下町を抜け、墨㑨から尾張へと入り名古屋
熱田の宮の宿で東海道に通じていた。
江戸時代の朝鮮通信使や茶壺道中等もこの街道を通る重要な道であったと云う。

                街の中央部に外堀川で架かる橋が20か所以上ある
    

「住吉神社」
住吉灯台の右隣に、住吉神社が。住吉と云えば船町港跡。住吉大社は、海の神様。ここ、川の町、海と同じように、物資や人を運ぶ、重要な川路。
その安全を祈願するのは、当然。信仰に、住吉神社は納得。

「左 江戸道 右 京道」の碑、
1826年の建立、この道標は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられたものと云う。
竹鼻街道は、宝暦治水工事の完成と、駒塚の渡しの開設により、美濃路の短絡道として盛んに利用され、その経路は、竹島から平の渡し、本郷の渡しを通り、竹鼻・駒塚の渡しを経て尾張の富田で美濃路に合流したと云う。

     左 江戸道 右 京                        道奥の細道むすびの地
    

1689年芭蕉46歳、深川を出て大垣「奥の細道」完成させ、5年後に出版し、芭蕉51歳。
大阪に客死し、柩は膳所義仲寺に運ばれ、14日境内に埋葬されたと云う。

「旅に病み夢は枯野をかけめぐる」 芭蕉は死ぬまで己の旅を続け、病床にあっても夢にでるのは枯野を駆け廻ることばかり。
古里の伊賀の里ではなく、また松島や姥捨の月や吉野の桜でもなく、どこにでもある枯野というのは最後まで芭蕉らしい風流な夢、詫びつくした枯野。

大垣の水門川、高橋の横、送別連句塚。             「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

           郷土館                                水門川
  

「有名人」は、梁川星巌(漢詩人)・南条文雄(仏教学者)・子安峻(読売新聞初代社長)・守屋多々志(日本画家)・後藤大秀(からくり人形師。大垣市教育功労賞・大垣市美術家協会理事・大垣市市展審査員)・水野利八 (ミズノ創業者)・矢橋賢吉(建築家)等が。

                       美濃路と水門川
    

「大垣城」は、南と東を大手門、北と西を要害堅固な城郭で、惣郭には、大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の「七口の門」があった。
第8代藩主戸田采女正氏康は、藩士の子弟を教育知るため1840年辰之口門外に学問所を創設、「致道館」。その後拡大し多くの文人・学者を生んでいる。

                水門川は大垣城の外堀、川の流れが往時を偲ばせてくれる
  

「秋菊神社」
大垣は、中世「大井荘」と呼ばれた東大寺領で「八幡神社」など、鎮守を勧請している。

                       秋菊神社
     

「八幡神社」(西外側町)
中世には、「大井荘」とよばれ「東大寺」領であった。東大寺の鎮守を勧請して建てられた神社。
「戸田左門氏鉄」が、神社を再建整備し、城下町町民が喜び、山車を曳いたのが始まりと云う「大垣祭り」は5月

                       拝殿


「飯沼 慾斎」1782年 -1865年は、江戸時代の医家で本草学者。
「リンネ」の植物分類法を最初に採用した草木図説を出版。三重県亀山市
名を長順、幼名本平。慾斎は、引退後の号。
小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、
1828年には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。
60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲を知ることが出来る。

飯沼 慾斎邸跡        次回は、石田三成の関ヶ原の戦い本拠地「大垣城」へ


次回は、大垣城。

大垣・奥の細道むすびの地

2014-08-05 | 気まま旅
明治時代、鉄道の計画を持ち上げ、東海道経由と中山道経由の2案があり、方向性が未決定であったため、まずは流動の多い
東京 - 横浜間を支線として先行開業させた。
1872年、に新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間が日本で最初の鉄道として開業。
翌年9月15日からは貨物列車の運行も開始。
関西では1874年 大阪駅 - 神戸駅間の仮開業を経て、1877年に京都駅 - 神戸駅間の営業を開始。
1880年には逢坂山経由で大津駅(現在の浜大津駅付近)まで延伸され、大津駅 - 長浜駅間には太湖汽船による琵琶湖経由の鉄道連絡船が開設された。

1883年、政府はすでに東京 - 高崎間(現在の高崎線)の建設が決まっていたことに鑑み、東京 - 大阪間幹線鉄道を中山道経由で建設することを決定。
中部地区ではこの中山道線建設のための資材輸送を目的として、現在武豊線となっている区間を含めた武豊駅 - 木曽川駅間が1886年に開業。
1884年には中山道ルートの一部として大垣駅 - 関ヶ原駅 - 長浜駅間が開業。

1886年、政府は東京 - 大阪間鉄道の予定経路を、工期が半分に抑えられるとして、工事の難航が予想された中山道経由から東海道経由に変更した。
既存路線を積極的に活用して建設予算を低減する方針から、名古屋 - 草津間は江戸時代の東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートでの敷設の 
一大プロジェクトとなり、一気に建設が進んでいった。
1887年には、木曽川駅 - 加納駅(現在の岐阜駅) - 大垣駅間、横浜駅 - 国府津駅間、浜松駅 - 大府駅間が開業。
武豊駅 - 大府駅間は支線化され、1889年・明治22年に国府津駅 - 浜松駅間(御殿場線経由)、そして関ヶ原駅 - 米原駅 - 大津駅間が開業し、こうして新橋駅 - 横浜駅間開業から17年の月日を経て、新橋駅から神戸駅までが鉄路で結ばれた。

           JR東海道本線・養老鉄道線駅「大垣」、新大橋通り・水門川の外堀


「第二代鉄道庁長官・松本荘一郎」、わが国最初の工学博士で日本鉄道界のリーダー。
明治から大正にかけて、日本は近代国家建設の途上にあって、鉄道輸送の発展に大きな期待がかかっていた。
こうした時代に郷土大垣からは、数多くの有能な鉄道人を輩出し「鉄道は大垣人」とまで言われ、そのリーダーとなったのが、「松本荘一郎」。

俊才とされた荘一郎は、学資がなく志半ばで勉学をあきらめようとしたが、明治元年、才能を惜しんだ大垣藩士「上田肇」は、大垣藩士に推挙。
大垣藩校に学んだ荘一郎は藩庁から学資を支給され、大学南校(後の東京大学)に入学。
その後アメリカへ留学した荘一郎は、土木工学を専攻。優秀な成績で学業を終えると帰国後には北海道開拓にも参画し、
幌内・手宮(小樽)間91.3キロメートルに北海道初の幌内鉄道を完成させた。
明治21年、日本初の工学博士の学位を与えられた荘一郎は、同26年第二代鉄道庁長官に任命され、鉄道事業発展に尽力した。

            第二代鉄道庁長官・松本荘一郎


「大垣の恵比寿大神」  (大黒様は水を吹き、恵比寿様は火を噴く)

1679年、戸田氏西公が恵比寿神を祭るにあたって、摂津の広田神社に祭られている西宮の蛭子神に人を派遣して祈願したと言われている。
戸田家は深く恵比寿神を崇敬しており、西宮の恵比寿神社の縁起によると、元和以来、尼崎城主戸田氏鉄より毎年米三十石を寄進されている。

恵比寿大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げていたので塗り師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を噴いた、、、、。
本楽の夜、夜の行事が全て終了後、各町の山車が曳きわかれした後、その年の恵比寿山車責任町から、次の年の責任町に恵比寿神のお頭を渡す儀式が
古来と同じ手順で今も行われていると云う。
祭礼に雨が降ると、恵比寿様が鼻を垂らすという伝説も残って、この山車は船町、伝馬町、岐阜町、宮町の四町内が、年々交代で曳いている。

人形神楽としては、330年ほどの歴史を持ち、舞台の下から人が直接棒で操るのは、全国的にも大変珍しい。

                大垣城外堀                    恵比寿大神
    

「大垣四季の路」
「水門川」は、大垣と桑名を結ぶ運河です。
1561年、大垣城主氏家直元が、城池改築のさい開削したと伝えられている。
水運の要路で、明治16年には大垣、桑名間に定期汽船が開通し、大いに栄え、今では美しい住吉燈台が往時のおもかげを偲ばせている。
水門川遊歩道は大垣駅前東の錦町愛宕神社から俳聖松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」を終点に総延長2,200メートルで花と緑の遊歩道に。
            
            大垣城西総門跡付近・京口門跡「四季の広場」
    

「奥の細道・風景地」
国指定名勝ー草加松原 埼玉県草加市・ガンマンガ淵(慈雲寺境内) 栃木県日光市・八幡宮(那須神社境内) 栃木県大田原市・殺生石 栃木県那須町
黒塚の岩屋 福島県二本松市 ・武隈の松 宮城県岩沼市・金鶏山 岩手県平泉町・高館 岩手県平泉町・象潟及び汐越 秋田県にかほ市
親しらず 新潟県糸魚川市・有磯海(女岩) 富山県高岡市・那谷寺境内(奇石) 石川県小松市・大垣船町川湊 岐阜県大垣市。
なぜか、宮城県・松島は、詠んでいない。

                         奥の細道むすびの地(船町)
    

1689年,芭蕉は、白河の関を越え、奥州に踏み入った。阿武隈川を渡る。左に会津磐梯山が高くそびえ右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地を国境として山が連なっている。
しかしこの日は、空曇っていて物影を見ることはできなかった。
福島県・ 須賀川の宿駅に入り、須賀川本町の相楽等躬宅を訪ねて、泊りを4日5日と引きとどめられた。
真っ先に、「白河の関をどのように越えましたか、句を詠んで来ましたか?)と尋ねられたので、
長旅の苦労で、心身ともに疲れ、一方で風景に心奪われ、昔の話に腸を切られる様な感動を受けて、しっかりとした発句を作る気持ちになりません、、。

この宿の傍に大きな栗の木陰頼りとして、俗世間を嫌い住まいする僧がいる。西行法師が「橡拾う」と詠んだ、深山もこのようであったかと思われて
紙に書き付けた。
栗と言う字は西の木と書き、西方浄土にゆかりが有ると行基菩薩さまが一生杖にも柱にも栗の木をお使いになった。

                        「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」
    

「高島・稲荷神社」
亀の池 かつて大垣駅前の池に川を伝ってやってきた数多くのカメがいて「亀の池」と呼ばれていました。
稲荷神社は、弥都波能売を水神としてお奉り,昭和御大典記念に建てられた灯籠が神前にある。
「水門川」は、市を流れる河川。木曽三川の木曽川水系の支流である。1653年、に作られた「川口村水門」に由来する。
県大垣市笠縫町付近に源を発し、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、市内の中之江川などの中小河川、排水路を合わせ、安八郡輪之内町塩喰で
「揖斐川」の支流である「牧田川」に合流。

1635年、大垣藩主として大垣城に入城した戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれた。
水門川は、大垣城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持ち、松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町であり、芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿へ向かい江戸に戻っている。
現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、川湊であった船町港には住吉灯台も残っている。

                            高島・稲荷神社
    

松尾芭蕉。
「夏草や兵どもが夢の跡」
(奥州平泉にて。「平家物語」の木曽義仲フリークから義経の最後を想う)。碑が立っていた。
美濃路は、中山道・東海道を結び「大垣城下町」を抜け墨俣・尾張・熱田の宮・朝鮮通信使・お茶壺道中等の重要街道であった。

                        貴船神社
    

「美濃路大垣宿本陣跡」・歴史・文化ともに重要な宿場町
江戸時代、かつて大垣は大垣藩戸田家十万石の城下町として名を馳せていましたが、美濃路大垣宿の宿場町としても栄えた。
大垣宿の竹島町には本陣が建造された。
文化人の交流施設として遣われ、「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として大垣市の史跡に指定。

                        大垣城大手門跡
    

「大垣城大手門跡」
大垣城の正門、大手口御門(東大手)の跡。
高麗門と櫓門を配置した枡形形式の門であったが、明治 ・1871年に取り壊された。
現在、廣嶺神社が鎮座、又、東側の水路がかつての内堀である。
惣郭には、大手門の他、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の各門があり、大垣城七口之門と称された。

    

「美濃路 塩田常夜燈」
美濃路(江戸時代、東海道宮宿と中山道垂井宿を結んだ脇街道)の大垣宿に入る手前で、杭瀬川を渡り、河畔には塩田港の常夜燈がある。
高さ約4.3mの銅板葺(当初は茅葺であった)で1880年に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、伊勢両宮への献燈として
塩田港の西岸に建立。
赤坂港と桑名港の間で船の航行が盛んで、常に20~30隻の船が停泊し、船頭相手の米屋、銭湯、雑貨屋等の店が軒を連ねて大変賑やかであったと云う。
大垣宿の住吉燈台(船町)に近づくにつれ、細い路地が幾重にも重なる住宅の密集地が続きます。その一角に大垣宿を代表する酒蔵「三輪酒造」がある。

         町道標(錦町)石工の常夜燈が(1822年頃)・古井戸・港跡・大垣城の門跡が外堀川に沿っている城下町
    

次回は、水門川遊歩道を。

岐阜善光寺・伊奈波神社

2014-08-03 | 気まま旅

「金鳳山・正法寺」   京都万福寺の末寺
大仏、江戸時代の寛政の頃、金鳳山正法寺の第11代惟中和尚は、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、これらの災害で亡くなった人々の菩提のために、
大釈迦如来像の建立をはかる。
1791年頃から、大仏に使用する経本を集めだすが、思うように集められず、各地を托鉢し、1800年には堂が完成。
その時には大仏の頭部のみが完成していた。1815年、惟中は志の半ばで亡くなる。
中断したが、第12代肯宗和尚はその後を継ぎ、引き継いで13年後の1832年、遂に大釈迦如来像は完成。
建立に38年かかったことになる。胎内仏として、薬師如来像が安置、薬師如来像は、室町時代、美濃国厚見郡革手(現在の岐阜市正法寺町)の革手城の城下にあった、土岐氏氏寺の霊正山正法寺(現在は廃寺)の本尊である。平安時代の円仁(慈覚大師)作との伝承がある。
(開眼供養の際には、織田信長居住以来の盛儀だったと伝えられている)

像高13.63m、顔の長さ3.63m、目の長さ0.66m、耳の長さ2.12m、口幅0.70m、鼻の高さ0.36m。
(像高13.63mは、古仏で、東大寺(毘盧遮那仏)の14.86mに次ぐ像高。鎌倉高徳院(阿弥陀如来)の鎌倉大仏は11.387m)

岐阜大仏は、市の黄檗宗金鳳山正法寺にある仏像「釈迦如来像」県指定重要文化財
                     
                          金鳳山・正法寺は、京都万福寺の末寺
    

「伊奈波神社」
美濃国三宮で、旧社格は国幣小社。式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社。

                              伊奈波神社
    

祭神ー垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命を主祭神。
妃の淳熨斗媛命・母の日葉酢媛命・外祖父の彦多都彦命・臣下の物部十千根命を配祀する。伊奈波大神と総称する。

社伝ー五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。
                                楼門


1539年、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在地に遷座。
その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。
以降も、岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けた。明治6年に県社に列格し、昭和14年に国幣小社に昇格。

「延喜式神名帳」
美濃国厚見郡の神社として「伊奈波神社」の社名は記されていない、小社として「物部神社」の社名がある。
「美濃国神名帳」には「正一位 伊奈波大神」・「従五位下 物部明神」と記載。

         境内                             拝殿
  

「市寸島比売命 別名ー狭依毘売命・瀛津嶋姫命・市杵島姫命・市岐嶋毘賣命・中津島姫命、、、」で、筑前地方の海人豪族である
宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱で、全国に祀られている厳島神社、宗像神社、松尾神社の祭神。海の神であるため
神社境内の池の中に祀られることが多い。

    

「林稲荷神社」  主祭神ー 宇迦御魂神・摂末社祭神ー 稲荷神社
市大仏町にある。創祀不詳。
元稲荷神社と称して稲葉郡那加町桐野字山屋敷に鎮座、
維持上の都合に依り崇敬者多き現在の地に移転し、且社名を林稲荷神社と改称したとある。
大正11年、許可、移転している。
                          林稲荷神社
  

「妙照寺」ー梶川町、
創建は、1534年で、本堂は、1662年に建てられた。
1600年、当時の岐阜城主の「織田秀信」から、「竹中半兵衛」(豊臣秀吉の家臣)の屋敷跡を寄進され、現在の位置に移されたとある。
この寺の庫裡は岐阜県内に現存している神社・仏閣の中で最古のもので、本堂も庫裡も(岐阜市指定重要文化財)

                          妙照寺
    

妙照寺は、日蓮宗寺院。身延山久遠寺を総本山、1534年に、厚見郡今泉村に開創。
1600年、当時の岐阜城主 織田秀信公より当地の寄進を賜り、1662年、本堂建立に伴い移転し現在に至る。
岐阜城下 富茂登  松尾芭蕉、竹中半兵衛 臼井岩入 矢島周一 のゆかりの寺。
(松尾芭蕉が貞享五年(1688)六月来訪し約一ヶ月滞在、実際使用された 庫裏奥の十二畳座敷「芭蕉の間」現存)

           本堂
    

「端華山・本誓寺」 総本山知恩院直轄寺院、  古文書類や信長の鐘も
開山は、1446年頃、円誉上人によって現在の岐阜県羽島郡岐南町に開かれた。
その後、1528〜32年に現在の地に移転、釈誉上人によって、1581年に本誓寺となる。
釈誉上人の母親は、徳川家康の、加納城主奥平信昌公の乳母、その母親や信昌の手厚い保護を受け、本誓寺の繁栄ぶりは目を見張るものだったという。

寺は総本山知恩院の直轄寺院として美濃国を代表する寺院、知恩院や寺社奉行(幕府の職名)から出される伝達事項は、初めに一国一地方の知恩院直轄の寺に伝えられ、その後、その国やその地方の各寺院に伝えられる、という組織があった。
その直轄寺院を本誓寺が担っていたと云う。
活動を裏付ける古文書類や資料がおよそ600点あまり現存、福島正則安堵(所有・領有権などを確認、認証)状や本田正信書状などがあり、
関が原の合戦当時、交通の要所にあたる寺院としても注目されていた。
寺には、織田信長ゆかりの梵鐘もある。信長の命によって、尾張の甚目寺にあった鐘を岐阜城に納めさせ、その後の落城の折、本誓寺が引き取ったという“信長公報時の鐘”が玄関脇においてある。すでに割れており、音色を聞くことはできないが、当時を偲ぶことはでると云う。
幼稚園を兼ねている。

                本誓寺                 岐阜市役所前長良橋通り
    

                    本誓寺 本尊 阿弥陀如来
    

                閉ざされた入口の日蓮宗・正興寺。
    

浄土真宗本願寺派、木造町「蓮生寺」。
1882年、板垣退助、演説会で遭難・1891年濃尾大地震・1896年美濃地方大洪水・1945年昭和20年岐阜・大垣空襲・1959年伊勢湾台風で大被害
1983年、県人口200万を超える。電機・自動車・工作機械などが増加し発展している。

                           蓮生寺
  

「美濃を制すは、天下を制す」天下取りの夢が駆け巡る戦国時代の歴史の町でした。

次回は、大垣方面へ。

稲葉山城  岐阜城 「金華山頂」

2014-08-01 | 気まま旅

「岐阜城」
長良川畔の金華山・山頂に天守閣を持つ城、鎌倉初期に小規模な城が創建され、戦国時代に美濃国守護の家臣斉藤氏が居城としたが、「斉藤道三」
が取得して山頂に天守閣のある大規模な城郭を建設。
1567年「織田信長」は、道三の子孫を滅ぼし、1576年、安土の移るまで「岐阜城」を本拠とし、ここで、楽市・楽座の制など城下町の建設を行っている。
「関ヶ原の戦い」だは、岐阜城主「織田信秀ー信長の孫」が西軍に属し敗北したため、撤去され、建築材は、「加納城」に使われている。
「織田信長」の居館は、金華山山麓の千畳敷(岐阜公園)礎石など復元している。

                 駅前に建つ「織田信長公像」  信長・道三公ゆかりの城へ


「織田信長」 1534-82 天下布武、目前で倒れた。織田政権の樹立者。織田信秀の子。
今川義元を「桶狭間の戦い」で討ち、将軍足利義昭を奉じて「室町幕府」を再興する。

「室町幕府」
成立時期は、建武式目によって新政権の施政方針が示された建武3年の 1336年と、尊氏が北朝の光明天皇によって征夷大将軍に補任された1338年
のいずれかに置かれるが、今日では実質面を重視して前者が有力。

1573年、織田信長が15代将軍義昭を京都から追放し、一般的にはこの時幕府が滅亡したと見なされている(学校教科書で書かれていることが多い)。
義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を有していた。
信長以前には、1553年に三好長慶が13代将軍義輝を京都から逐ってこれに代わる将軍を擁することなく政権を担った例もあり、1573年の義昭追放をもって幕府滅亡とするのは、その後義昭が政権に返り咲かなかった結果から遡った評価であるともいう。

              地の名「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地に


「斉藤道三」 ~1556 油売りから美濃の梟雄、土岐氏の家臣長井新佐衛門尉の子(異説あり)。
重臣長井長弘殺害し、守護代斉藤氏の名跡を継いで国の実権をは掌握した。又織田氏と抗争し、美濃国守護「土岐盛頼」を討ち、弟の斉藤頼芸を守護職
に据えたが、後に追放し奪う、、、。

初めて娘婿の信長と対面した時のこと、信長は、猿使いのような奇装でやってきたが、会見場には、見事な正装で現れ、滞りなく挨拶を済ませた。
道三は、帰り道「残念ながらわしの息子ども、あの信長に臣従する事に成ろう」と嘆いたと云う。
息子「斉藤義竜」対立し実権を奪われ、義竜は討死。

        油売りの行商から国盗り成功した「斉藤道三公」


「信長居館(千畳敷)は、岐阜城の山麓に築かれた屋敷跡。
1567年 織田信長は、稲葉山城主・斎藤龍興を追放し、「井口」から「岐阜」に名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。
金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な2から3段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した。

発掘調査では、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとし、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見。
岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、1600年 関ヶ原合戦の前哨戦で落城するまで続くが、これら遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられ、発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。
石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊または埋めて作られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。
数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われたことを示唆している。
中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡。

               織田信長居館(千畳敷)は、岐阜城の山麓に築かれた屋敷跡。


「金華山ロープウェー」
岐阜公園と金華山の山頂駅を約3分で結ぶロープウェー。眼下には自然林に覆われた金華山と長良川の自然美、岐阜市の街並みが一望
山頂駅付近には、リス村や売店、展望レストランも併設され、毎年夏季は夜間も運転され、夜景を楽しむ多くの人に利用されている。
(有料)

                     金華山ロープウェーで山頂へ(329m)
    

この場所は,伝一ノ門跡で、現在は倒れた巨石や石垣が一部残っている。

               鎌倉時代1200年頃「二階堂行政」軍事目的で築城と伝わる。


「二の丸の跡地、閻魔堂」

金華山のえんま大王は、福えんまさんと呼ばれて人気。
651年前 「土岐頼康」4代目守護職として美濃にきたときに、「厄払い・悪病退散」を念じ、美濃が豊かでひとびとが安心して暮らせるように祈願して、えんま堂を安置したと云う。

「戦国時代の軍用井戸」
山城では貴重な井戸である。

土岐 頼康は,南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・ 尾張・伊勢守護。
土岐氏の一族土岐頼清の長男で土岐頼貞の孫。頼雄、康貞、直氏、 頼忠の兄。
子に娘「二条良基室」、養子に康行。

              道三の父「斉藤妙椿」(歌人としても知られている)応仁の乱へ出陣
    

           1550年「道三」修復して入城
  

1540年頃、斉藤道三、稲葉山城修築して入城(諸説)ー義龍34歳で病死ー龍興 竹中半兵衛・織田信長に攻められ開城。
稲葉山城を岐阜城に改める。



「織田信忠」 1557-82 信長の嫡男、清洲城で誕生、信長と転戦、尾張国・美濃国譲渡、武田勝頼を追い詰め天目山で自害させた。
武田征伐先鋒大将で、天下の堅城「高遠城」で自ら城塀によじ登ったと云う。
明智光秀謀反の時、京都妙覚寺で自害している。信長の後継者であった。

            1567年「織田信長」尾張小牧から岐阜城入りする
    

「織田秀信」 1580-1605 信忠の嫡男・信長の孫、幼名 三法師。関ケ原の戦いで西軍に加担。池田輝政・福島正則軍に攻められ落城。
秀信は、家臣らに「労いの感状」を与えている。(主従の縁を切り士卒の命を助けようと思ってのことであると云う)
若将であったが信長の嫡孫であった。高野山へ落ちたと云う。

           1576年「織田信忠」父信長の後を継ぐ、岐阜繫栄
  

天守からの眺望は素晴らしい。
鵜飼で有名な長良川が岐阜市を貫通し、東には恵那山・木曽御嶽山が、北は乗鞍・日本アルプスの山脈が連なり、南に、濃尾の大平原と木曽川が
伊勢湾に、、、、。
岐阜城は夜景が楽しめると云う。

           1592年「織田秀信」安土城から移り徳川軍に攻められ開城する
    

現在の城は、鉄筋造り、三層4階構造、延べ461.77m2、1階武具の間・2階城主の間・3階信長公の間・最上階が「望楼の間」。

             江戸時代に入り、城郭なし


「山城」
高地は軍事的防御に有利、山に城郭を築く行為は場所と時代を問わず普遍的に行われ、
城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便、守るべき対象である人の居住地から離れている。
したがって、山城は防御専用として造られる。城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方が一般。

3種類
古代山城ー 飛鳥時代から奈良時代の近畿から九州北部にかけて築かれた。
中世山城ー 中世・戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。
近世山城ー 安土桃山時代後期から江戸初期までに築かれた。

中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。山上の城は主に防御施設であって、日常生活は麓の館で行っていたようである。山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで、長期間居住するための建物は建てられていなかったと云う。

                平成23年国の史跡に指定金華山一帯公園
    

「岐阜公園」岐阜市管理
岐阜城を頂に構える金華山、鵜飼で知られる長良川に囲まれた公園。
四季折々の風景が楽しめる「信長の庭」や中国をイメージした「友好庭園」などがある。
「信長公の鼓動が聞こえる歴史公園」として整備、平成21年に武家屋敷を模した正門総合案内所が完成している。

                天守閣からは、長良川・伊吹山、、で期間限定で夜景も楽しめる
                                  

「山内一豊」 1546-1605 内助の功で一国の主に。初代土佐藩主。信長・秀吉に仕えて功名を建てる。
近江国長浜・若狭国・遠州掛川と加増、関ケ原の戦いで家康から土佐国を。朝倉戦で顔面に矢を受けたが奮戦し首級を挙げている。
関ケ原戦で、一豊は、家康の許に馳せ参じ居城の提供を申し出している。
一豊・千代婚礼の地の碑が

「板垣退助像」
岐阜事件、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件。
板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件として知られる。

公園内には、板垣退助像・信長居館跡・芭蕉句碑・白秋歌碑・川端康成文学碑・歴史館・鵜飼観覧船乗り場・古い街並み等が
    

「常在寺」 斎藤家の菩提寺。
斎藤道三とその父・長井新左衛門尉が二代にわたり美濃国を制する拠点とした寺。
長井新左衛門尉は、京都から美濃へやって来た商人出身と言われている。
 
                             本殿


「鷲林山常在寺」 日蓮宗、京都妙覚寺の末寺。
室町時代の 1450年土岐家守護代として権力を持ち、当時事実上美濃を支配していた斎藤妙椿が建立。
後に道三が菩提寺とし、道三以後三代の菩提寺となっている。

毎年4月の第一土曜日には道三まつりにあわせて「斎藤道三公追悼式」が営まれ、まつりの2日間は無料開放されると云う。

絹本著色斎藤道三像(国指定重要文化財)・絹本著色斎藤義龍像(国指定重要文化財)。
斎藤道三公供養碑、斎藤家五輪塔。

    

「岐阜市内・八幡神社」

祭神ー応神天皇
仲哀天皇第四子。母は神功皇后。諱は誉田別尊。仲姫を皇后とし、仁徳天皇等が子どもである。応神天皇は、仲哀天皇九年二月に筑紫で生まれたが、
仲哀天皇の死後、神功皇后が事実上政治を行い、応神天皇は皇太子となり、神功皇后の死後即位した。応神天皇の時代には、日本国内で皇権が拡大。

「伊奈波通り」市伊奈波神社参道の車道,枝垂れ桜の街路樹が、
                            八幡神社
    

「伊奈波善光寺」。美濃四国第1番札所。
岐阜市にある真言宗醍醐派の寺院。山号は愛護山。本尊は善光寺如来。善光寺安乗院ともいう。

                           伊奈波通りへ
    

善光寺の本尊は、甲州征伐後、織田信長の手で 1582年に、岐阜城下の「伊奈波神社」の近くに移されが、同年、本能寺の変により織田信長が亡くなると、織田信雄により尾張国甚目寺(現・愛知県あま市)へ移された。
善光寺如来は後に徳川家康の手に渡り遠江国の鴨長寺へ、さらに 1597年、豊臣秀吉の手に渡り、方広寺の本尊にされる。
1598年、信濃国に戻る。

信長の孫・織田秀信が、かつて善光寺如来が祀られていた地に伊奈波善光寺堂を建立し、善光寺如来の分身を祀ったのが始まりという。
建立時期は不明だが、織田秀信が岐阜城主であった 1592年から1600年頃と推測される。
江戸時代初期、善光寺安乗院に改称する。

善光寺如来の分身は、安乗院と満願寺(伊奈波神社の境内の寺院)で交代で守られていたが、1868年に廃仏毀釈、神仏分離のため満願寺は廃寺となる。
本尊は安乗院単独で所有。

                              善光寺
  

次回は、市内伊奈波神社から。