syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

木下杢太郎と七福神-松月院

2015-01-23 | 気まま旅
県南東部、熱海市の南東沖・伊東市海岸正面ー約10kmにある島「初島」、「波島・端島」とも云う。
周囲海食崖で囲まれる。江戸初期以降、土地や水の条件で島の戸数は、42戸に制限され、漁業の協同操業や収益配分などで共同体的特色がみられた。
1980年・昭和55年から生活用水の送水が始まった。
現在、観光施設や民宿が増加し変貌が著しい。交通は、熱海港・伊東港から定期船が、「面積」-約35HA.人口は、60人前後

人気の「伊東オレンジビーチマラソン」今年は、開催日・2015年01月18日(日) 受付 08:00~09:00と云う。
コースー2kmの部 10:00 500人 20分・5kmの部 10:15 1000人 50分・10kmの部 10:20 1000人 65分 (参加資格、幼稚園児以上・視聴覚に障害がある方も伴走者がいれば参加OK)参加料、小・中学生 1000円・高校生以上 3000円・ファミリーの部 2000円 (傷害保険料、通常払込料金を含む)
  

「木下杢太郎・本名太田正雄」1885-1945 詩と医学の道をあゆんだ。
劇作家・詩人・医学者、東京大学・医学部卒、南満医学堂教授・アメリカ・フランス留学・皮膚医学の世界的権威・北原白秋と「パンの会」結成
耽美派詩人の代表者・与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇などと九州のキリシタン遺跡を巡り、詩的感激を得たと云う。

                 詩と医学の道を同時に歩む


            「行く水に おくれて淀む 花の屑」杢太郎 


「市立 杢太郎記念館」JR伊東駅から徒歩5分。
記念館は、杢太郎の生家で、市内に現存する最古の民家でもあり、当時の伊豆の生活を伝える貴重な民具類も並んでいる。入館料¥100

文学者、医学者として知られる木下杢太郎の貴重な資料が展示
  

医学者・太田正雄は、森鴎外の勧めもあり皮膚科学の道を選択、主の研究業績は、病原性真菌、ハンセン病、皮膚腫瘍などに関するもので、
「眼上顎部褐青色母斑ー太田母斑は、彼が見出した疾病である。

              フランス政府からレジオン・ドヌ―ル勲章を受けている
  

1835年に建てられた生家で当時のままの状態で保存されている。伊東市内現存最古の民家である。(市指定文化財)

                        杢太郎生家・室内
    

杢太郎・文学者としても、詩のほか、戯曲、小説、評論など各分野で業績を残し、与謝野寛・昌子、北原白秋、石川啄木らの詩人と友好を深めた。
これらの関係資料のほか、夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉らからの書簡なども展示されている。
杢太郎は伊東について「小生の生まれたところで、もし大地に乳房というものがあるとしたら、小生にとってはまさにそれです」と、故郷への愛着の言葉を残している。
     「浜の真砂に文かけば/また波が来て消しゆきぬ/あはれはるばるわが思/遠き岬に入日する」

晩年の植物画集「百花譜」には、戦時の紙不足から横ケイの医学用箋に描かれた、じつに872枚の画稿が収められているが、その中でも、死の直前(昭和20年7月27日)に病床でスケッチされた「やまゆり」には、次のような、力弱くいたいたしい筆致の添え書きがある

  

    

晩年の植物画集「百花譜」には、戦時の紙不足から横ケイの医学用箋に描かれた、じつに872枚の画稿が収められているが、その中でも、死の直前
(昭和20年に病床でスケッチされた「やまゆり」)が知られている。



「松川遊歩道桜並木通り」
伊東オレンジビーチには杢太郎が東大の学生であった23歳の時, この海岸で詠んだ詩、「海の入日」の碑が建てられている。

                   浜の真砂に文かけば
                   また波かせ来て消しゆきぬ
                   あはれはるばる我おもひ
                   遠き岬に入日する

市内を流れる松川沿いの遊歩道にも杢太郎の絵画やレリーフが等間隔に並び, 対岸に建っ旧旅館の東海館とともに目を楽しませてくれる。
    
                            桜の老木が
  

「桃源山ー松月院」桜寺とも云う。
伊東駅裏山0・7kmの高台にある。1183年真言宗「僧ー銀秀」により開創・1607年に曹洞宗に転宗。

七福神・弁財天- 七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される弁財天(弁才天 とも書く)は福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている。
大黒天と同様、弁才天の ルーツは古代インドの水の神サラスヴァーティー。
インドのサラスバ ティー川の河神で、のちに梵天の妃となったが広く信仰され,これが仏教に取入れた。

日本三大弁財天とは、安芸の宮島、近江の竹生島、 江の島の弁財天のこと。
    

伊東の生んだ文学者「木下杢太郎」の生家太田家の菩薩寺。
杢太郎もしばしば散策し、春は桜、秋は月見の名所として数多くの文人、歌人が集まった。

    
                     本尊ー釈迦牟尼仏


伊東12景の1つで、眺望が良く伊東市街を一望でき、庭園にはめずらしい早咲きの彼岸桜をはじめ色々な種類の桜が植え込まれ、桜寺ともいう。
  

本堂左池の上に、「弁天堂」が祀られている。この弁天様は、1685年天神畠と云う所より発掘されたと云う。

     

寺の名「松月院」と云われるほど立派な「松」が植えられていた。鐘楼と名月鑑賞で知られている寺。

「内山雨海」は、日本墨画界、書道第一人者、「筆塚」は、雨海の満50歳を記念し門下生が建てたと云う。

  

次回は、大黒天神の海上山「朝光寺」へ。

伊東の七福神巡り-東林寺

2015-01-21 | 気まま旅
静岡県伊東市の七福神巡りをしました。一週間程掲載いたします。
まずは、日本相撲協会顕彰碑が建立(双葉山~栃錦・若乃花が碑前で土俵入り奉納したー「稲荷山・東林寺(布袋尊)」から。

伊豆半島東海岸・相模灘に面する熱海温泉に次ぐ観光都市、伊豆の東の意・中世豪族「伊東氏」地名由来する「伊東」。
中世に「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏・宇佐美氏など有力御家人と、1261年「日蓮」もここ伊東に流されている。1605年には、ウイリアム・アダムス
(三浦按針)が西洋式帆船の建造された所、又東郷平八郎が別荘を構えたのも伊東である。
伊東の和田大湯・松原出来湯・猪戸湯の3湯は、汲み湯して江戸城に運ばれていた。1835年木下杢太郎生家は、伊東駅から400mにある。
3月第一日曜日は、大室山の山焼きがあり、これが終わると春の観光シーズンになる。

           伊豆急行「伊東駅」前ロータリー


相模灘ー宇佐美港・伊東海岸しおさい・オレンジビーチ・手石島・初島・伊東港・汐吹岩・川奈港・川奈崎。


               城山・大室山からご来光


「伊東祐親」伊東の豪族
生誕不詳-1182、別名ー次郎、祐近、助親、伊東入道、祐親法師 、墓所ー市大原 「東林寺」、氏族ー藤原南家、伊東氏、河津氏
父ー伊東祐家、養父:工藤祐隆(祖父)、兄弟ー裕継、祐親、子ー河津祐泰、祐清、八重姫、三浦義澄室、
工藤祐経前妻、北条時政前妻、ほか 。



「祐親」
東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家している。

1180年に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てたと云う。

    

「曽我兄弟」の仇討、場所ー富士宮・白糸の瀧、付近に「曽我兄弟隠れ岩」・兄・1172-93、弟・1174-93、
伊東祐親の子「河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族の「工藤祐経」に殺された。河津祐泰の妻は二児を連れて「曽我祐信」と結婚。
兄の「曽我祐成」は。、5歳・おとうとの曽我時致は3歳。
その17年後、源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った夜、兄弟は、宿舎に工藤祐経を遅い父の仇を討った。兄はその場で「新田忠常」に討たれ、弟は、
捕われた。源頼朝は許そうとしたと云う。工藤祐経の子が訴え出たため斬られている。
源頼朝は、兄弟の追善供養料として「曽我荘年貢」を免除している。室町時代「曽我兄弟」は、民衆に親しまれている。



「相撲碑と河津祐泰」
河津三郎祐泰は、相撲の決まり手「かわづがけ」の名を残したことで知られている。
1176年、源頼朝も参加して催された巻狩りでは、その余興で相撲が行われ、名手といわれ21連勝していた「俣野景久」の最後の相手が
「河津祐泰」祐泰は、連勝中の景久を「河津掛」で破っている。
この巻狩りの帰路、祐泰は工藤祐経によって殺害され、

1176年,伊豆国伊東荘を巡る所領争いにより、祐泰は伊豆の奥野の 狩場で同族の工藤祐経に矢を射られて落命する。享年31
祐泰の 妻(横山時重の娘)は,5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)2人を連れて曾我家へ。墓参道と子供の首塚碑


日本相撲協会による相撲碑


「七福神・布袋尊ー東林寺」市萩90伊東駅より約5km。

七福神の中で唯一人、中国に実在していたことがはっきりしている神様。
時代も比較 的最近で、後梁時代と言いますから、7世紀の唐から10世紀の宋へ変わる間の戦国 時代。
千客万来・家運隆盛・家庭円満・商売繁盛などのご利益 ある縁起の良い神様、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶のお姿を。

寺は、伊東祐親が、我が子河津三郎祐泰の菩提を弔うために創建した曹洞宗の寺院。
もとは、1145~1150年頃に、真言宗の久遠寺として開かれ、祐親の法号に因んで東林寺と改名され、1538年に曹洞宗へ改宗。
伊東祐親は、1180年に源頼朝が挙兵すると平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させたが、富士川の戦いの折に捕らえられ、預けられていた
三浦義澄邸で自刃したと伝えられている。
以後、東林寺は伊東家の菩提寺となった。東林寺の向かいの岡の上には、祐親のものと伝わる五輪塔(墓)が。(伊東祐親の五輪塔)

    

伊東祐親の子河津三郎祐泰は、1176年、工藤祐経との領地問題のもつれから殺害され,祐泰の子は、母の再婚先の曽我家で成長し、
1193年に、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に仇討ちを決行し、見事に工藤祐経を討ち取っている。
これが有名な「曽我兄弟の仇討ち」。東林寺には、河津三郎祐泰と子の曽我十郎祐成・五郎時致兄弟の墓が。

  

伊豆八十八ヶ所霊場・二十七番札所ー 東林寺
    
                         東林寺本堂


「葛見神社」
市の神社。伊豆国田方郡の式内社「久豆弥神社」に比定され、旧社格は郷社。
中世、伊東氏の尊崇と保護を受け、伊東祐隆は、神社を修造するとともに、近くに東林寺を創建して別当寺として神社を管理させた。
当地における伊東氏の勢力は祐隆の孫である祐親の死後に衰えたが、その後も付近諸所に残留する子孫が神社を信仰し、神社所蔵の棟札によると
慶長15年(1610年)には伊東正(政)世が焼失後の造営を行っており(但し、これは後述大樟の下に祀られる稲荷神(疱瘡神)の石祠の事であると云う)明治までは時々の領主により神供米が寄進され、明治6年に郷社に列した。

    

葛見神社の大クス - 拝殿の左に聳える.
目通り幹囲約15メートルの大樟。樹齢は1,000年を越えると言われ、昭和8年に国の天然記念物に指定。

高さ30メートル程の小丘北裾に鎮座し、境内の鬱蒼と茂る樹林中には国の天然記念物に指定される樟の大木が聳える
    

次回は、弁財天・松月院へ。

寄居・鉢形城と長瀞・宝登山神社

2015-01-19 | 気まま旅



埼玉県大里郡寄居町・県北西部で荒川が、秩父山地を抜けて関東平野に出る所に形成された谷口の町「寄居」城下町の人々が寄り集まった集落で「寄居」
中心部は、荒川扇状地の扇頂部に位置している。土地は東向きに傾斜。
中世の城「鉢形城」の城下町で栄えた。江戸に入っても「秩父街道」の要衝・薪・木炭・絹等の集散地であった。

1473年、「長尾景春」築城ー鉢形城ー
立地、北・荒川、東その支流深沢川、南と西は山に囲まれ自然の要害地で、面積24haに及ぶ北武蔵最大の平山城であった。
現在も土塁・空堀等の遺構が残っている。(2度目の掲載)

連雀小路・鍛冶小路・鉄砲小路・外曲輪・新小路・殿原小路・深沢川・橋・土塁・城跡・荒川と堅城の「鉢形城」


1473年,山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった「長尾景信」が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。
長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男「長尾景春」ではなく弟「長尾忠景」。
山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。
長尾景春はこれに怒り、1476年、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。
これが鉢形城の始まり。


1932年、 遺構の残存状況が良好な考古資料。関東地方の戦国時代の状況を示す文献資料も豊富に残され、(国の史跡に指定)
    

1515年、上杉 憲房は、山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。
しかし、家臣として仕えていた「長尾景春」が離反し、「扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の武田信虎」などとの長年にわたる抗争のなか、1525年に病没した。
後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いでいる。

平成16年、鉢形城公園の開園と同時に、「鉢形城歴史館・寄居町埋蔵文化財センター」が開館している。(有料¥200)
    

1546年, 北条氏3代「北条氏康」が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略する「河越夜戦」が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立
1564年、 氏康四男「北条氏邦」が鉢形城へ入城。

以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点。
その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年には、武田信玄による攻撃を受け、1574年には、上杉謙信が城下に火を放っている。

歴史館館内入口


1590年, 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は、前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) に包囲され、
北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城。

その後、徳川家康の関東討入にともない、「成瀬正一」「日下部定好」が代官となって周辺の統治を行う。

豊臣連合軍の城包囲陣地(35000の兵)
    

現在で樹齢、約150年。高さは18m、枝張りは、東西23.5m/南北21.8mで、根回りは6.5mほどの桜が。ソメイヨシノの片親である「エドヒガン」
名前のとおり関東ではソメイヨシノよりやや早めの彼岸のころ満開する。               堀と畝
    

「新編武蔵風土記稿」によれば、はじめ「源経基」によって築城。のちに熊谷「畠山重忠」が在城したといわれるが確証ない。

深沢川と馬出し・その横に「長久院」跡が・復元で石積み土塁・四脚門・三の曲輪が。


1569年、武田信玄が小田原城攻撃のため上州から侵攻してきた際に鉢形城も攻められたが、守りが堅いのを見た信玄は、そのまま南下して滝山城に。


埼玉県秩父郡長瀞、秩父盆地の北東・名勝天然記念「長瀞」にちなんでいる。荒川両岸、河岸段丘上にある。江戸時代中心集落の野上では絹織物・たばこ
大豆などの「六斎市」が開かれた。(長瀞玉淀県立自然公園の中心地。
荒川上流の「親鼻橋」から「高砂橋」の4kmの間を長瀞と呼ばれる。

「宝登山神社」
長瀞駅西やく1km、宝登山東麓に鎮座。


祭神ー神日本磐余彦尊ほか2神を合祀。日本武尊が東征の途中に、ここで猛火に包まれたとき巨犬が尊を救ったと云う伝説があり、火止山とも云う。

                           宝登山神社
    

           秩父神社・三峯神社とともに秩父三社の 一社。宝登山山頂には奥宮が鎮座する。




ロープウエイ・宝登山頂駅、標高450.9m・付近には、宝登山神社の奥宮、猿・鹿・ウサギなどの小動物がいる宝登山小動物公園などがある。
  

「旧新井家住宅」(重文)
長瀞駅と神社の中間、郷土資料館に隣接。
中野上にあった江戸時代の養蚕農家を1975年に移築復元された。切妻造で、栗材の板葺き石置き屋根、軒下に格子。

                      旧新井家住宅


住宅が建設された年は、はっきりしていない。
しかし、ここには三峰山高雲寺(三峰神社)の祈とう札が多数残されており、最も古いものには延享2年の銘があり、延享2年は西暦1745年。  
従って、旧新井家住宅が建設された年もこの頃と考えられている。
建物の構造は、かつて長瀞に多く見られた養蚕農家の姿をよく表していると云う。
特徴は、屋根が板葺、下地となる竹の上に長方形の薄い栗板を重ね、この上に漬物石くらいの大きさの石を置いて板を押さえている。
天井がないので、室内から見上げれば竹と栗板がまるみえ。

戦争中、秩父に疎開していたので懐かしい。
                         旧新井家住宅
    

秩父鉄道長瀞駅            駅から河岸までのお土産屋などの商店街                   石畳みに
    


秩父盆地を出た荒川が、深く削った渓谷で、西岸・結昌片岩が露出「巾約数十m・長さ500m」岩畳・岩石段丘がある。
表面には水流で出来た「甌穴・ポットホール」が数多くある。

「ライン下り」も楽しめる。
    



東岸岩壁は、中国揚子江名勝「赤壁」にちなんで「秩父赤壁」と呼ばれている。


「長尾景春の乱」

扇谷上杉家の家宰・太田道灌が武蔵国に勢力を拡張する好機として攻め込んでくる(道灌の母は景春の叔母にあたる)。
景春も勇戦したが、道灌の八面六臂の活躍の前に各地で敗れて景春の勢威は衰退。
このため景春は足利成氏の支援を受けることで、何とか道灌と戦い続けたが、1478年、、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。長尾景春は、後ろ盾を失い、結果として太田道灌に攻められて鉢形城は落城し、秩父の山岳地帯に逃れる。
1480年、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、景春は武蔵国を追われてしまう。

景春の最後は、1514年、に白井城にて死去、享年72(「双林寺伝記」)。
実際には駿河などの亡命先で客死したとみられている。景春が数十年にわたって反乱を続けたことは、結果として関東における上杉氏の勢力を大いに衰退させることにつながった。
北条早雲は、長尾景春を「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。

次回は、伊豆・伊東七福神巡りを掲載します。























渋沢栄一と論語の尾高惇忠

2015-01-17 | 気まま旅
「藍香尾高惇忠生家」

世界遺産になった官営ー富岡製糸場ー初代場長。渋沢栄一の義兄、尾高家の長男。
尾高藍香は天保元年の1830年、下手計村(しもてばか 現深谷市)に生まれ、通称、新五郎 惇忠と称し、藍香と号した。
「青淵 渋沢栄一」とは、従兄弟の関係にあたる。
知行合一の水戸学に精通し、渋沢栄一の人生に大きな影響を与えた。
藍香や渋沢栄一ら青年同志が時の尊皇攘夷論に共鳴し高崎城乗っ取りを謀議したのも、この尾高家の2階だったと云う。

「尾高(渋沢)平九郎」剣道道場は、生家の前に(土台のみ)。渋沢栄一の養子になる。
倒幕軍と戦い飯能戦争で敗れ22歳で自刃


この2階で、惇忠・長男、尾高長七郎・渋沢栄一が高崎城乗っ取り計画を密議し、末っ子の平九郎が諌めた。


「尾高ちよ」・渋沢栄一と結婚、没42歳


「尾高ゆう」・惇忠の長女ー日本初の女工、14歳で富岡製糸場の伝習工女。

世界文化遺産富岡製糸場は、計画渋沢栄一・建設韮塚直次郎・経営尾高惇忠ー(深谷の三偉人)


「韮塚直次郎」1823-1898          ー製糸場建設資材のまとめ役ー
深谷市明戸出身、当時日本で普及していない煉瓦を、地元瓦職人達を束ね、試行錯誤して焼き上げている。
石材・瓦・セメントなど資材を調達。

尾高惇忠生家ー「尾高ちよ」は、ここから渋沢栄一と結婚
    

「尾高ゆう」  1858頃-1923
官営富岡製糸場の第1号の伝習工女として操業に携わり、日本の近代化に大きく貢献。
ゆうは、「尾高惇忠」の娘として、1858年頃に生まれ、父の惇忠は、有名な学者、教育者、渋沢栄一翁も惇忠に学ぶほど、深く尊敬されていた。
惇忠は、明治3年に、官営富岡製糸場長に。富岡製糸場の洋式技術の導入は、当時、富国強兵を図る明治政府の命運をかけた大事業
惇忠は、この総責任者として建設と運営に全力で取り組みますが、操業を支える工女の募集難にあいます。
それは、工場の外国人技術者たちが飲むワインを生き血と思い、女性たちの間で、工場では血を採られる、脂をしぼられるという噂が流れていたため。
驚いた惇忠は、それが噂であることを証明するために、また、伝習工女の手本とするために、自 らの娘「ゆう」を第1号の伝習工女にと考えます。
そのとき、14歳だったゆうは、父の意をくみとり、新しい技術を身に着け、パイオニアとなることに希望と誇りを抱いて富岡に赴いたのです。
ゆうの勇気ある決断は、近隣に伝え渡り、感銘した地元の女性たちは、連れ立って次々と伝習工女に志願し始めます。
こうして、富岡製糸場は操業を開始することができたのである。
ここで技術を得た女性たちは、製糸技術を各地に伝え、その後の日本の近代産業の発展を築いたと云う。

尾高ゆう(1858頃-1923)は、官営富岡製糸場の第1号の伝習工女。
    

地元深谷をはじめ近隣の市町や群馬などから、「ゆう」に感銘した多くの工女が応募。
製糸工場は必要な工女を集めることができ、操業にこぎつけることができ、工女の中には、技術を収得した後、郷里に帰って、各地の製糸工業の発展に尽くした者も多くいたと云う。「ゆう」の決断は、明治期の日本の産業発展に大きな貢献をした女性である。

尾高家生家室内                           煉瓦蔵
  

カイコは家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫で、野生には生息しない。
またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができない。
カイコを野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。
幼虫は腹脚の把握力が弱いため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまう。
成虫も翅はあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、羽ばたくことはできるがほぼ飛ぶことはできない。

家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫


「絹」
独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800~1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。
蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。
ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。前者は化学染料、後者はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつことに注意が必要である。
養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。

                           絹


                   明治時代の富岡製糸場の絵
  


渋沢栄一は、7歳頃から「尾高惇忠」従兄から「論語」を初めとする学問を習う、栄一は、生涯を通じ論語に親しんだと云う。

「道徳経済合一」説を唱え「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれるにいたった。
栄一が、惇忠の家まで通った道は、何時しか「論語の道」と呼ばれた、またこの地域を「論語の里」とも云う。

                   渋沢栄一記念館・八基公民館
  

「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正期の実業家のリーダー・(現、埼玉県大里郡生まれ)

養蚕・藍玉・金融を扱う豪農と云う。1867年「徳川慶喜の弟・昭武」に随行してパリ万博博覧会へ。各国の近代的産業施設・経済制度を見聞した。
これが、我が国の産業近代化を推進。
明治68年帰国・明治新政府から紙幣拝借金「50万両」余りをもとに「商法会所」を設立。日本初の株式会社である。
大蔵省を辞職し事業に専念「王子製紙」「東京瓦斯」「煉瓦製造」「銀行」、、、、500余りの会社を設立した。教育・文化面でも力を注いだ。

                        渋沢栄一氏


「渋沢栄一記念館・八基公民館」

栄一翁ゆかりの写真や遺墨等が展示。
  

ー誠之堂・清風亭、東京世田谷から深谷へ移築ー

「誠之堂」(国指定文化財)
大正5年の1916年、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築物。

「誠之堂」の名は、渋沢栄一自身により命名。
儒教の代表的な経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだもの。

煉瓦造平屋建、建築面積112㎡。外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を。
  

「清風亭」は、大正15年の1926年、に、当時第一銀行頭取であった「佐々木勇之助」の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられ、
建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるもの。

清風亭は、当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と呼ばれていましたが、後に「清風亭」と呼ばれ、 設計時点の資料に、「清和園記念館」のほか「清風亭」という名称がすでに見られると云う。

建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。 外壁は、人造石掻落し仕上げの白壁で、対称的に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦が。
    

「人見山・昌福寺」
深谷、上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基。
本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。

猫の伝説など遠ざける寺が多いが、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。
ここは、「寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説が・寺の衰退を一匹の虎猫が救う話」

人見山・昌福寺ー「上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基」
    

「猫壇中」伝説

猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになったと云う。

「道元禅師」
1246年、 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。1248-49年、「執権北条時頼・波多野義重」らの招請により教化のため鎌倉に下向。
鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
1253年、 病により永平寺の貫首を、弟子孤雲懐奘(「正法眼蔵随聞記」を編す)に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す、享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。

人見山・昌福寺


「深谷・山内上杉家」
上杉憲英・憲光・憲信・「4代・房憲」・憲清・憲賢・「7代・憲盛」・氏憲・憲俊。

1518年頃、7代・憲賢が「深谷城」を築く。

4代・房憲の時代は、1441年ー結城合戦が終結・1445年ー憲光没。1450年ー浅間山噴火・憲長没。1455年ー古河公方氏と官領上杉氏、関東大乱。1456年ー房憲が深谷へ。1482年ー武蔵国洪水。1487年ー太田道灌殺害。1495年ー北条早雲小田原城襲う。

人見山・昌福寺



深谷城は1456年・、深谷上杉氏の上杉房憲が古河公方のに備えて築いたといわれる城。(南北600メートル、面積20ヘクタールの大規模な城郭には土塁と深い空堀がめぐらされていた)
関東管領上杉氏の庶流で上杉房憲から5代が居城としたことから「深谷上杉氏」と呼ばれている。

人見山・昌福寺
  

次回は、寄居・長瀞方面へ。




















深谷 龍宮神社 供養塔のある清心寺

2015-01-15 | 気まま旅
深谷市は、県北部、南部は、荒川の洪積扇状地(櫛挽台地)・北部は利根川の沖積低地、町は台地と低地の境界付近で発達した。
中世は、「深谷城」があった。江戸時代に廃城している。
中山道の宿場町と生糸を中心に「市場町」として栄える。明治に入り我が国最初の「洋式煉瓦工場」と「製糸工場」と「製粉工場」が設けられた。
レンガと瓦・生糸と小麦粉で知られている。もう一つある「深谷ネギ」ネギは全国有数の産地である。
血洗島にある実業家「渋沢栄一」の生家は、国際学園で日本語教育の場に。

深谷ねぎは品種名ではなく、深谷地方で栽培されたネギの総称。
根深ネギ・千住群に属する。品種は多数存在する。深谷市外で栽培されたネギも「深谷ねぎ」の名称で販売されている。
そのため、深谷市では「少し贅沢深谷ねぎ」というロゴマークと文字の商標登録し、深谷ねぎのブランド力向上の取り組みを行っている。
「少し贅沢深谷ねぎ」のロゴが入った深谷ねぎは、太さ、形などが特に優れたものだけが厳選され、一部の高級スーパーに出荷されている。

東京駅の丸の内側駅舎を彷彿とさせる外観で、外壁にはパネルが使用され,東京駅の駅舎をモチーフに。
東京駅が日本煉瓦製造株式会社のレンガを使用したことにちなんでいる。
現在の駅舎は1996年に完成。1999年、関東の駅100選の1つに選ばれている。

JR高崎線,煉瓦造りの「深谷駅」前、朝の通学、高校生で混んでいた。


「瀧宮神社」
JR深谷駅南口、近くにある神社。
その昔この地に現れた湧き水が様々な幸を授け、神様からの地と崇められ、唐沢川の谷に流れ落ちる様子を瀧に因んで「瀧の宮」と称して神社を祀った。桜の名所としても知られている。

瀧宮神社                 鳥居                              狛犬
    

御祭神ー天照大神、豊受大神、彦火火出見命、をお祀りしている。
御神徳としては、五穀豊穣・家内安全・家運繁栄・起業成就・縁結び・合格・学業成就などの幸福を招く御神徳に、方災除け(八方除)
厄除け・交通安全など災いを除ける御神徳にと広大無辺に。

瀧宮神社・拝殿                   神木                     洗水楼
    

深谷城が康正二年・1456年、「上杉房顕」により築かれると、その方角から裏鬼門の守護神として伝えられた。
深谷一番の桜の名所・「唐沢川の桜堤」をメイン会場に行われている「深谷桜まつり」。
約3kmも続く両岸の桜並木は、見事である。咲き乱れるソメイヨシノと川と神社がよく似合う。
神社近くにある朱色の唐沢川に架かる「太鼓橋と桜」が、、、、。3月下旬~4月上旬。
                    
                       瀧宮神社・拝殿


「浄土宗寺院の清心寺」
石流山八幡院と号し、「萬誉玄仙」(慶長10年1605年寂)が開山、
上杉氏の老臣岡谷加賀守清英(1584年寂)が開基。1549年、に創建。
当寺には、源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという供養塚がある。

                 源平合戦、岡部氏と平忠度のゆかり寺
    

「曲田城・ 谷之城ともいう」
深谷家譜によると、深谷上杉の家臣皿沼城主岡谷加賀守香丹は、皿沼城を子の「清英」に譲って、この曲田城に隠居。
城内に僧自明和尚を招いて皎心寺を開いたとある。
寺は曹洞宗で岡谷山と号し、香丹は、1571年に自明和尚は、1535年に亡くなっている。
天正18年の1590年ー小田原落城の時、老臣小内外記之助この曲田城及び皎心寺を守っていたと云う。

京知恩院・満誉上人は、浄光院を開基している。
  

「平忠度」 1144-84        武将・歌人  「読人知らず」として一首
 
                   ーさざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かなー(千載和歌集)

平忠盛の子・平清盛の異母弟。「藤原俊成」和歌師事。
富士川の戦い・墨俣川の戦いでは、副将・倶利伽藍峠の戦いで敗れた後「一の谷の戦い」で討死した。

木曽義仲の軍勢が京都へ迫ったので、平家は続々と都を落ちて行った。平忠度は、主従七騎で引き返し、「藤原俊成」屋敷を訪れて、これまでの教えを
謝し、百余首の和歌を収めた巻物を渡して、永い暇を告げたと云う。俊成は、涙をこらえたとも云う。

                          供養塔
    

「深谷上杉氏四天王」
深谷上杉氏の上杉憲盛の家臣の4人の総称ー1) 岡谷加賀守清英(岡谷清英)・2) 秋元越中守景朝(秋元景朝)・3) 井草左衛門尉 4) 上原出羽守
(岡谷、秋元、井草の3人を「深谷の三宿老」といい、岡谷、秋元、井草に八井伊勢守を加えて「深谷の四宿老」といった)

    

「深谷宿」ー中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場。
中山道で最大規模の宿場であったと云う。
本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあった。
江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた。 五の日、十の日に市が。「岐阻街道 深谷之駅」飯盛女が描かれている。

1843年の「中山道宿村大概帳」によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、宿内人口は1,928人とある。

常夜燈(東口)・天保11年の1840年建立。宿場の東口にあったと云う。
    

埼玉県の日本酒の蔵元は、平成5~6年で59家・94銘柄があった。深谷市は、滝沢商店「菊泉」・田中藤左衛門「七ツ梅」・斉藤藤三郎「東白菊」
丸山酒造「深谷鶴」の4場であったが。

              深谷市内の造り酒屋「滝沢商店・蔵」                              
  

「深谷城址公園」(以前にも紹介している)
1456年に深谷上杉氏の「上杉房顕」が台地の北端部付近に築いたもの。
天正18年・1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で開城するまで、深谷上杉氏の居城であったが、徳川家康の関東入部に伴い、「長沢松平家の松平康直」
が1万石で入城した。
                              深谷城址公園


その後、家康の七男松千代、兄の六男忠輝が継いだ。しかし、忠輝は、1602年に下総佐倉へ転封となり、1610年に桜井松平氏の松平忠重が入封したが、
1622年、上総国佐貫へ移封され、その後、「酒井忠勝」が1万石を領有して入封、1627年に武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩となる。
寛永11年の1634年、に廃城。
                         深谷城址公園内(支庁なども)
  

「上杉憲顕」1306-68 武将ー足利氏姻戚の「上杉憲房」の養嗣子・ 山内上杉氏の祖。足利尊氏に属す、初代関東官領。
「上杉 憲賢」~1560年は、戦国時代の武蔵国の大名。上杉憲清の子で、深谷上杉氏の当主。次郎、義竹軒、雲岑、静賢。室は高泰姫。子に憲盛。

1518年、 上杉憲賢が深谷城主となる。1535年、 深谷上杉憲賢、曲田城(深谷市)を築く。1537年、北条氏綱、河越城を奪う 。1540年、 大風雨、不作、飢饉。1541年、 金山(太田市)城主横瀬泰繁が北条方に従おうとしたので、管領憲政は深谷上杉憲賢や、忍城主・厩橋城主・佐野城主等にに命じて攻撃
1546 年、河越夜戦、管領上杉憲政は平井城へ退く。その10月、管領上杉憲政軍、笛吹峠(碓氷峠)で武田軍と戦い敗れる、関東諸将は管領上杉憲政を見限って続々と北条氏に帰参したが、深谷上杉憲賢は管領上杉憲政の幕下にとどまった。

1552年、管領上杉憲政は平井城を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼る。その年、3月、北条氏康は余勢を駆って北武蔵に侵入、深谷上杉憲賢は寡兵で北条氏に抗する不利をさとって降伏。
これ以降、深谷上杉氏は一在地領主として戦国の荒波をくぐり抜けた、小田原の北条氏と越後の上杉謙信との狭間で、わずか21年間に北条→上杉→北条と5回所属を替えた と云う。

「酒井 忠勝」  1587ー1662 別名ー与七郎(幼名)→忠勝・幕府ー江戸幕府老中、大老 ・藩ー武蔵深谷藩主→川越藩主→若狭小浜藩主
        氏族ー雅楽頭酒井家 ・父母ー父・酒井忠利、母・宝鏡院(鈴木重直の娘)。

                  深谷城址公園内、一部石垣と堀・土塁が
    

「岡部 忠澄」源平の戦いで活躍した武将、御家人。
武蔵七党の猪俣党の庶流・岡部氏 の当主。平家物語における、平忠度を討ち取ったエピソードで認知度を得ている。
保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。
源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、1180年に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなる。
木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、1184年の「一ノ谷の戦い」では平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形成が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。
その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。
この話は、平家物語を典拠とする話。平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き従った。1197年没。

                     岡部忠澄の墓石と畑
  

平忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立。
その後、五輪の塔は、1649年に、清心寺(掲載済み)移築された。

五輪の塔から出土した遺物及び五輪の塔の形状から、これらは忠度や忠澄の生きた平安末期から100年ほど経過した後に建築されたものではないかと。

                       岡部忠澄石塔
  

「備前渠川・ 備前渠用水路」
県道45号 ・ 本庄妻沼線 妻沼→本庄 車載ー 用水路。
川は、 埼玉県本庄市からここ深谷を経て熊谷に流れる農業用水。(鉄橋と深谷上敷免間鉄道廃線 跡)

備前渠用水 (小山川から日本煉瓦製造) 


小山川への合流直後(下流から) 岡部町岡~深谷市矢島・本庄市山王堂から深谷市矢島までの3.9Kmの区間、
備前渠用水は、一級河川 備前渠川となる。名称は備前渠川だが、江戸時代に掘られた用水路。合流直後の小山川には、橋南堰(コンクリートの固定堰)が設けられている。
橋南堰から下流の矢島堰までの約1Kmの区間では備前渠用水は、小山川の河道を送水路として利用している。歴史の古い農業用水路によく見られる自然河川との併用。

新井用水へ。1895年に建設された備前渠鉄橋。現在は歩行者専用橋だが、かつては鉄道橋であり、「日本煉瓦製造工場」からJR高崎線の深谷駅まで、
煉瓦を積んだ列車が運行していた。
備前渠鉄橋は日本でも最古の部類のポーナル型のプレートガーダー橋で、国の重要文化財。

                             新井用水・新井橋
    

「国重文・日本煉瓦製造」-かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社。本社を東京に置き、埼玉深谷で煉瓦製造工場を操業していたー
明治政府は臨時建築局を設置し、ドイツ人建築家のヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデをお雇い外国人として日本に招いた。
都市整備のために良質な煉瓦、ならびにそれを製造する工場が必要であることを明治政府に進言。
これにより「渋沢栄一」らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。
後に太平洋セメントの子会社となり、2006年、日本煉瓦製造は株主総会において自主廃業を決定、精算された。
会社清算に伴い、埼玉県深谷市にあった工場の諸施設は、すでに重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」などを含めて
所有権が深谷市に移転、同市によって保存・整備されることとなった。

「ホフマン輸窯・6号窯」
ホフマン考案ー煉瓦の連続焼成が可能な輸窯。明治4年の建造で、長さ56.5m・巾20m・高さ3.3mの煉瓦造り。
内部18部屋に分け、窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの工程で順次行いながらの移動式ー約半月で一周ーこれで生産能力UPしー月産65万個。
昭和43年まで約60年間煉瓦を焼き続けたと云う。見学は、申込み。

備前渠鉄橋(明治28年敷設)も今は、遊歩道に。
  

日本煉瓦製造で製造された煉瓦は、利根川を利用して運んでいたが、輸送力向上を目的としてに日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれた。
本路線は廃線、その後線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」になっている。近くにあるブリッジパークには、この路線で使用されていた福川鉄橋が保存されている。

           平成18年、約120年の歴史に幕を下ろした(現・深谷市ゴミ処理場)
    

次回は、深谷市下手計の渋沢栄一記念館方面へ。