syuの日記・気まま旅

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千葉野田にある関宿城址

2015-04-17 | 気まま旅
関宿は、関東平野のほぼ中心、中世戦国時代は、「関宿を支配することは、一国を支配するのと同じ」と云われているほど重要な地域であった。
関宿での各大名が戦いを繰り返した地域でもある。
近世に入り、江戸幕府は、関宿藩を置き、徳川家に古くから仕え信頼できる大名(譜代大名)に支配をまかせている。
藩主は、江戸で幕府の重要な仕事を任された。
関宿は、前回でも取り上げた洪水対策・新田開発・茶栽培産業等、利根川と江戸川の河岸として栄えた。
脇街道「日光東往還」の宿場町で賑わっている。

「足利 成氏」
室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。
父は「永享の乱」で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年・1447年とする説も有力。
父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の「享徳の乱」を最後まで戦い抜き、
関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った人物。
                              


「享徳の乱」1455 -1483、
室町幕府8代将軍足利義政の時に起こった室町時代の関東地方における内乱。
第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
                       久世氏の家紋


「関宿城」
1457年、古河公方足利成氏の有力家臣簗田成助が水海城(茨城県古河市)から関宿に移って築城したのが関宿城の始まりと伝えられる。
以来簗田氏の居城となった関宿城は、後北条氏が北関東へ勢力を伸ばす上で戦略的拠点で、1574年に簗田氏が関宿城を開城し、その後は、後北条氏の支城として戦略上重要な前線基地となります。

天正18年・1590年、「松平康元」(徳川家康異父弟)の入城が関宿藩の始まりで、
以後江戸幕府は代々ここに譜代大名を配し、藩主は、八家二十三代にわたり、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き幕府内で重要な地位を占めます。
川越城や佐倉城などとともに江戸城防衛の重要拠点であり、利根川水運の中継地点に位置していたことから、幕府は関宿城をとても重要視していた。

入館料¥200・敷地面積11134m2・三層四階(江戸城富士見櫓風)


城主ー初代 「松平康元」1590~1603・2代 松平忠良1603~1616・3ー「松平重勝」1617~1619・4ー「小笠原政信」1619~1640
5ー「小笠原貞信」1640~1640

6代「北条氏重」1640~1644 ・7ー「牧野信成」1644~1647・8ー「牧野親成」1647~1656・9ー「板倉重宗」1656~1656
10ー「板倉重郷」1657~1661・11ー「板倉重常」1662~1669・12ー「久世廣之」1669~1679・13ー「久世重之」1679~1683
14ー「牧野成貞」1683~1695・15ー「牧野成春」1695~1705・16ー「久世重之」1705~1720・17ー「久世暉之」1720~1748
18ー「久世廣明」1748~1785・19ー「久世廣誉」1817~1830・20ー「久世廣運」1817~1830・21ー「久世廣周」1830~1862
22ー「久世廣文」1862~1868・23代「久世廣業」明治元年(1868)~明治二年(1869) 。


関宿藩の起こりは、
天正18年・1590年に、徳川家康が関東入国の際に、異父弟の松平康元に2万国を与え関宿城主としたことに始まる。
関宿藩は、東北外様諸大名に対する備えや関宿関所(水番所)の管理等と重要視され、
幕府は小笠原氏、牧野氏、板倉氏など有力な譜代大名を配し、なかでも「久世氏」の治世が最も長く、幕末まで九代の藩主を数え、老中をはじめとする幕府の要職を歴任し、幕政に深く関わる。
                     久世広之像


「久世広之」の幕政参加
関宿藩12代藩主久世広之(1609~1679)は、四代将軍徳川家綱の保育にあたり、寛文二年・1662年に若年寄に就任。
翌年には老中に登りつめ、大老酒井忠清のもとで着実に職務を遂行。
三代将軍徳川家光までは、幕府の力を強固なものとするため、「武断政治」とよばれる強圧的な政治が行われ、家綱の代になって幕府の支配が確立。
社会も安定し、「文治政治」へと転換が図られます。
広之は老中として、法令や制度を整えて社会秩序を保つなど、文治政治の実現に努力し、仙台藩お家騒動の解決に奔走したことは、
山本周五郎著の「樅ノ木は残った」で有名。



「田沼意次」1719-88 政争に敗れた経済官僚・幕閣としては、老中まで累進、幕府経済の転換を図るが保守派によって失脚、田沼は賄賂政治家でも知られ、賄賂が横行している。嫡男は、江戸城中で斬殺され権力の座から追われる。

「水野忠邦」1794-1851 天保の改革断行、浜松藩主、浜松城は出世城で、水野は「青雲の要路」老中登用を子供の時から熱望している。
天保の改革を急ぎ過ぎ反対派から失脚させられる。

利根川の護岸水工事に尽力した2人


展示室には、
江戸時代から明治中期にかけて、大量の物資を長距離輸送する主役は水運でした。オランダ人技師ムルデルの設計により、1890年の明治23年、
利根川・江戸川間に完成した利根運河は、航行の短縮にも成り、その翌年約3万7千艘もの船が通過しと云う。



「宝樹山本足院・実相寺」
724年、行基により法相寺として茨城県総和町水海の地に開山したといわれている古刹。
1409年に、日蓮宗に改宗。1475年の頃、水海より関宿の地に移る。
鈴木貫太郎夫妻の墓がある。(貫太郎は元海軍大臣、元侍従長。終戦時の内閣総理大臣)昭和23年・82歳で死去。



1409年、日英上人が、簗田氏が関宿城に入ったときに水海村(茨城県総和町)から移したと伝えられている。
境内には関宿城本丸から移築した客殿がある。本堂には久世家歴代の藩主と奥方の位牌が安置されている。

鈴木貫太郎の弟、鈴木孝雄氏(靖国神社宮司)の墓もある。


                  関宿でカレー定食¥750を。


次回は、岩槻方面へ。

元首相・鈴木貫太郎邸跡へ

2015-04-15 | 気まま旅

埼玉県栗橋・茨城県五霞・千葉県野田と利根川・江戸川の分離地点。ここは、千葉県野田市利根川と江戸川の間、「関宿」に来ている。
「野田市」千葉県の北西端・下総台地上「野田右馬介」の所領であったとも云う。
野田と云え、醤油の町で知られている。江戸川水運で江戸時代に、豪農・豪商が相次いで製造に参入し、江戸中期には、上方の下り醤油を駆遂し、
銚子をしのぐ勢いとなった。1781~1887年仲買から醤油醸造組合を結成、現在全国の3分の1を占めている。
「利根川」上流の利根郡の本流沿いをー利根入り・支流の赤谷川沿いをー利根西入り・片品川沿いを利根東入りと云っている。
我が国代表する大河として「坂東太郎」の称がある。筑後川の筑紫次郎・吉野川の四国三郎と共に兄弟の名を持っている。又、関東平野を潤す母の川
でもある。現在も、首都圏の水需要の大半を供給し、千葉県は、6割以上利根川に頼っている。
江戸時代から「関宿城・関所」は重要地とされた。

「日光に通じる道」
日本橋から宇都宮で奥州街道から分かれる本街道に対し、専ら将軍の参宮に使われた日光御成街道、中山道から直行する日光例幣使街道、本街道の小山から近回りする壬生通り、奥州街道大田原から西進する日光北街道、会津とを結ぶ会津西街道、そして水戸街道から分岐し日光街道の石橋宿・雀宮宿の中間地点に合流する日光東往還などの脇往還があった。
「日光東往還」は、山崎、中里、・関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10宿が置かれた。約80kmの街道である。

道路拡張で「庚申塚・塔」は、消えていく。


「葛飾坂東観音霊場」は、茨城県古河市・五霞町・八千代町、栃木県野木町にある観音霊場の総称。
1714年、33ヵ寺の霊場にて開創。のちに追加されて、現在は 41ヵ寺からなる。その一番寺。

「実相寺」
1 番札ー山号・宝篋山、本尊ー 千手観世音菩薩、 真言宗豊山派 。
五霞町元栗橋ー 観音堂は明治11年に古河・長谷寺から移築 されたと云う。

    

「光岳寺」-納谷首切り塚・関宿城旧藩主居住地に近い、住所は関宿新町
徳川家ゆかりの寺院、1602年将軍徳川家康公の異父弟「松平康元」・母「於大の方(伝通院)の為に創建された寺院、当初は「弘経寺」と云った。
後に、家康公の命により改名された。

    

山道沿いに金仏様「地蔵菩薩」は、

本堂             地蔵菩薩・松平康元建立        江戸川方面に関宿城址が見える
    

関宿藩の城下町として栄えた町。
1871年(明治4年)の廃藩と昭和以降の水運の衰退・消滅によって小都市としての独自性は失われた地域。
関宿城の遺構は利根川や江戸川等の合分流点付近に位置し明治以降に行われた河川改修のために保存状態が極めて悪く、元の武家屋敷等もあまり残されていない。
「城下町」としての景観はない。この神社も、下総国なりし中世の頃、その一宮香取神宮の御祭神経津主命を奉斉し爾来神統守り伝えているのであろう
1912年 稲荷雷電の神々を合祀して現在に至っていると思う。

                   光岳寺前に鎮座する「香取・稲荷神社」
    

「鈴木貫太郎」  1867-1948(昭和23年) ポツダム宣言受諾の途を開いた元首相・海軍軍人・大阪生まれ
1887年海軍兵学校・大学校卒、海軍大学校教官・ドイツ駐在武官・日露戦争第二駆逐隊司令として日本海海戦参加・海軍次官・海軍大将・連合艦隊司令長官・1929年予備役編入・待従長兼枢密顧問官で、昭和天皇の信任厚い・2.26事件で襲撃を受け重傷を負う。
小磯内閣の後を受け首相ー米内光政・東郷茂徳らと協力し「ポツダム宣言」を受諾し太平洋戦争終結に導いた。敗戦直後辞職引退。

    

明治4年、本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。明治10年、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、
明治17年、に海軍兵学校に入学(14期)。
日清戦争に従軍。明治31年、海軍大学校を卒業。鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験している。
幼い頃から何度も死にそうな目にあったと云う。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かっている。
明治21年に、会津藩士の大沼親誠の娘、「とよ」と結婚。とよの姉は出羽重遠夫人。
当時の海軍では旧薩摩藩出身者が優遇され、鈴木のような旧幕府系の者は進級が遅かったと云う。
ドイツ駐在中の1903年(明治36年)、

「鈴木貫太郎記念館」
大日本帝国海軍軍人で第42代内閣総理大臣を務めた「鈴木貫太郎」ゆかりの品を展示。(野田市立記念館)無料

  

館内には、 貫太郎氏が愛用していた海軍時代や侍従長時代の礼服、当時を偲ばせる遺品が 数多く展示。
白川一郎画伯の描いた「最後の御前会議」の油絵が、

    

「利根川流域の洪水史」より
江戸時代初期、幕府は江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川の本流を、流路の締め切りや開削を繰り返しながら銚子河口へ流す大工事、いわゆる利根川東遷事業を実施するとともに、関宿から分流させる江戸川の開削され、以後も洪水対策を主体とした改修工事が行われ、その過程で築堤や護岸水制など様々な改修技術が創案されてきた。が、数多くの洪水が人々を恐怖と苦難におとしめた。

全長約322km・我が国最大の河川「利根川」 
「蛇籠」河川の護岸工事の際、籠の中に玉石や割石を詰めて、水の流れを抑えるために用いた物、多くは応急工事、暫定工事に使われ、蛇籠の並べ方は、「立て籠」が一般的ですが、まれに「複籠」として並べることも。蛇籠に利用された素材としては、竹の他、柳、そだ、鉄線など。


〔寛保2年(1742)の洪水〕
江戸時代最大の洪水と言われ、利根川上流部の舞木・赤岩・北河原及び新川通が破堤し、関宿城も大破。
荒川でも各所で破堤したため、埼玉平野で甚大な被害が発生し、江戸市中も浸水したと云う。

〔天明6年(1786)の洪水〕
7月の浅間山大噴火によって降灰や火砕流、溶岩流が発生し、数多くの人命や家屋、馬などの家畜を失い、その後の天明の飢饉の要因にもなる。
この噴火で大量の火山灰が吾妻川から利根川へ流れ込み、利根川上流部を中心に河床が急激に上昇。
このことが3年後の洪水の被害を拡大させることとなり、江戸市中も浸水し、永代橋や両国橋が流失した。

先人たちがコツコツ築堤工事を、「土羽打唄」が各地の残っている。「浚渫工事」川底の土砂を取り除く
    

安政の大洪水〕
江戸幕府が鎖国から開国へと政策を転換させましたが、他方洪水や地震、コレラの流行など数多くの災害が発生。
安政3年(1858)の洪水では利根川や渡良瀬川の各所で破堤し、数多くの人命が。

〔明治23年の洪水〕
8月上旬から雨が続き、22日には暴風となり、利根川は「9合水」「10合水」に達し、千カ所余りで堤防が決壊破損し、関宿では約30戸の家屋が流失するなど、流域各地で大きな被害を。

関宿水閘門・水位の調節する水閘門・明治33年利根運河(野田ー流山ー柏)は、水堰橋など壊れ運河の役割は終えている。
  

これらの経験をもとに国土交通省などでは、
洪水予防の治水対策及び貴重な水資源を確保するための利水対策を現在も行い、近年では、単に川を氾濫させないという治水対策から考え方を変換し、
流域全体の町づくりとともに洪水対策を行う総合的治水対策の推進に力が入れられていると云う。
人々に潤いと安らぎを与えてくれる河川は私たちの貴重な財産であり、自然と人間が共存できることを目的とした整備が進められている。

明治43年・昭和22年(カスリーン台風)が。                     浚渫船が展示
  

次回は、関宿城址へ。

寅さんの柴又帝釈天

2015-04-13 | 気まま旅

「葛西清秀」 1161-1238 葛西氏初代当主 墓所ー四ツ木「西光寺」
父ー豊島清元・母ー秩父重弘の娘・妻ー畠山重能の娘、桓武平民の流れを汲む。源頼朝と歴戦。
頼朝が、平家打倒の兵を挙げ、千葉常胤氏軍と上総軍も加えた軍勢が隅田川まで進軍、そこに清元軍ともに葛西軍が参じている。隅田川から静岡富士川へと進軍する。葛西氏は、頼朝・頼家・実朝と仕えている。

江戸時代以前の渡良瀬川の流域全体をカバーする「葛西領・郡」は広く、渡良瀬川はその後の利根川東遷事業によって、江戸川(古くは、太日川・太日河))となったので、現時点では江戸川(及びその後に成立した中川)の流域を占める郡といってよいと云う。
したがって、その範囲は南北に細長いものとなっている。 現在の行政区域では、北は渡良瀬川と利根川の合流地点である茨城県古河市、江戸川の西の流域である埼玉県幸手市・吉川市・三郷市、東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区、千葉県浦安市、江戸川の東の流域である千葉県野田市・流山市・柏市・松戸市・市川市・船橋市にまたがる広大地域。(葛飾郡総社は、船橋市西船五丁目にある葛飾神社)
1878年(明治11年)の郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、
翌1879年に残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅した。

郡内に下河邊荘、下河邊野方荘、八幡荘、松戸荘、風早荘、夏見御厨、葛西御厨、葛西猿俣荘、大結牧といった荘園が成立した。
この地域が広大であった事から中心線の太日川を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称する慣習が現れた。
近世、利根川東遷事業により、太日川が利根川下流になったこともあり、江戸時代初期の1683年に、太日川より西の地域を下総国から武蔵国へ編入した(この地域を「葛西」と呼ぶ場合もある)。しかし、同じ寛永年間に関宿(現野田市)・金杉(現松伏町)間の東側に新たな流路が開削され、
これが江戸川の本流となったために、この区間については、後も下総国葛飾郡が江戸川の両岸にまたがることになったと云う。
江戸時代、江戸幕府の支配の下で、当郡内のうち江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれ、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された(古河藩、関宿藩)。
初期には山崎(現野田市)や栗原(現船橋市)、藤心(ふじごころ。または相馬郡舟戸。ともに現柏市)に規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた。

近世までは、後の南葛飾郡域を指して葛西と呼んでいる。

京成電鉄「柴又駅」
    

「葛飾区」都北東部、武蔵野の東方の原野ー葛が茂っているー所からきていると云う。平安中期から葛西氏の領地で青戸に「葛西城」があった。
江戸期は幕府領・関東郡代士はいけに置かれていた。金町が中心で宿場町で「柴又」が帝釈天門前町として発展した。
産業は、水田・レンコン・堀切の花菖蒲・金町のネギが知られている。他に正月用注連飾りの製造が盛ん。
今は、玩具工場の中小企業が増えている。
江戸時代、利根川の大工事で隅田川までを下総であったが葛西郡は武蔵国に編入している。

映画「男はつらいよ」で有名に


駅前は「桜祭り」で地元小学生のバンド行進。        駅前広場に寅さんの像がある
    
                    柴又天釈天参道
    

「柴又帝釈天」駅から東にやく200m
日蓮宗・経栄山ー題経寺  1631年日忠上人の開創
    

本尊ー日蓮上人自刻の帝釈天板
    

60日毎の「庚申大祭」は、大賑わい


庚申信仰縁起の竹製「はじき猿」は、郷土玩具として人気


「男はつらいよ」の舞台でお馴染みの山門


本堂裏手 お祭りで大賑わい


境内に舞台でいろいろ出し物が              若いお母さん達で
    

「山本亭」
大正末期から昭和初期に作られたとされている。
浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得し、改修したものである。
山本家が4代に渡って住んでいたが、1988年3月14日に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開された。

都選定歴史的建物「山本亭」
  

「柴又公園」
日本庭園のある「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、区の桜見物、観光名所の一つ になっている。
江戸川河川敷の広場は、レクリエーション・スポーツの場として開放。

公園頂上は、哲学の川・江戸川が一望できる
  

「寅さん記念館」
「男はつらいよ」でおなじみの寅さんの記念館。
実際に撮影で使われたセットでおなじみの名場面が再現され、寅さんのトランクなどの愛用品も展示、
「寅さんの生い立ち」コーナーを設け、第1作目以前の寅さんが6つのドラマとなって可動式のジオラマで見ることができる。

  

哲学の川(江戸川)に、来年の桜と野草と矢切りの渡しと私の人生を見つめ返すために、又来ます「哲学の川」へ。
高齢者の皆さん哲学の川・江戸川で遊びましょう我々だけで。  

次回は、埼玉の続きに戻ります。

国府台城跡と矢切りの渡し

2015-04-11 | 気まま旅
「安藤(歌川)広重」1797-1858-江戸八代洲河岸生まれ。

歌川豊国は、歌川豊春の門下生・役者絵が得意の門を叩いたが満員ー歌川豊広の門人、印象派西洋芸術に影響を受けている。
代表作ー東海道53次・60余州名所図会・江戸名所百景。

歌川広重画「名所江戸百景・鴻の台利根川風景」、今の国府台付近。


「古河公方・足利成氏」
1447年に足利持氏の子、「成氏」が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。
後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。
この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続した。
(ただし、最末期は北条氏が関東管領の権限を事実上掌握)させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けていたと云う。

鎌倉公方ー足利義詮ー基氏ー氏満ーー氏兼ー持氏・ー古河公方「成氏」、室町時代の幕府は、鎌倉府「関東官僚」設置、上杉氏は、その、執事であったが、いずれ、執事であった上杉氏が取って代わり「関東官僚」に。

「里見公園」は、市立公園。春の花見の名所 、面積8.2haと広い。江戸川の流れを見下ろす高台、15世紀、太田道灌が仮陣を建設


「里見義弘」 1530-78  庶民の落首を重視した善政の南総の武将。
安房国の戦国大名・佐貫城主・上総国制圧後、下総国へ進出すべく、上杉扇谷定正の執事太田道灌が仮城を国府台に築城。後里見氏が城を築城する。
小田原北条二代目(早雲の子)北条氏綱が、(鎌倉時代の執権北条氏の名で改姓した)扇谷上杉朝興を破り武蔵国制圧し、1538年北条氏綱と激突、
足利古河公方・里見軍は大敗する。
上杉謙信、武田信玄と同盟を結びながら、一貫として北条氏を敵対したと云う。
1564年、北条三代目氏綱の長男(武蔵国日本三大夜戦で河越城を破る)とも戦っている。
最後は、里見氏は、講和している。(館山に北条海岸の名が残っている)

「里見義弘」は、領民を大事にした大名で、落書に自由に申し出て良いと云う法律・公認している。他に例が無い。
また、実際に、代官の福原信濃守を批判する狂歌を取り上げ解任させている。
義弘ほど領内を巡視した大名は珍しいと云う。人々の意見を取り入れ善政に生かした大名の姿勢を知ることができる。
また、大酒飲みで臓腑が破れ没したとある。

公園入口の桜並木 満開時は桜のトンネル                     桜祭り
    

「北条軍の反撃」足利・里見軍は、一時勝利に気をよくし、里見義弘は、出陣が正月早々であった事を配慮して兵士たちに酒を振舞う。
だが、遠山・富永の早い段階での潰走によって主力を結果的に温存する事になった北条軍は、撤退したと見せかけて、翌8日未明に再度江戸川を渡って
里見軍に夜襲をかけたのである。
酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が義弘を裏切って戦場を離反、筆頭重臣正木信茂は戦死し、義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返ったために戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されてやっとのことで戦場を脱出したと云う。(第二次国府台の合戦から)

国府台城址の碑


「近年の再検証」で、合戦の経過記録は永禄6年1月の戦いと翌永禄7年1月の戦いが混同されて出来上がったものであるとの考えが有力視されている。
6年にも本格的な戦闘があったとする史料の存在が明らかになり、従来は7年のものの誤記と考えられてきた記録も、単純に誤記と信じるわけには行かなくなり、 1月8日未明の奇襲については永禄6年とする記録があることに加えて、現存する北条氏による発給文書において永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を2月18日としているものが存在すると云う。
戦後、永禄7年の戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させている。
だが、苦境に立った里見軍は却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制し、三船山の合戦での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着するとある。
小田原北条氏と里見氏の確執の場、数次に渡る激しい戦いは激しく、 国府台は江戸という肥沃で広大な平野を一望に見渡せる重要な戦略拠点。
この台地をめぐって何度も血腥い争いが繰り広げられた。
中でも有名な戦いが、天文7年(1538年)の第一次国府台の合戦、永禄7年(1564年)の第二次国府台の合戦である。

第二次国府台の戦いは、里見義弘(義尭の子)・太田資正の連合軍と、北条氏康(早雲の孫)の間で繰り広げられた。


公園内は、花見客で混雑


「北原白秋」 (旧宅の紫苑草舎が)1885-1942 与謝野鉄幹に不満で「明星」を退き、「パンの会」結成、「邪宗門」「思い出」
        「桐の花」抒情詩人と云われ民衆に親しまれて。「赤い鳥」で詩と音楽に著作200冊に上る。福岡出身。

白秋の旧家が展示


僅かに残る土塁・堀跡 郭跡
    

この2回の戦いで多くの将兵が討死にした。
今でも土を掘り返すと茶碗のかけらや、武具の切れ端が見つかることがある。
里見公園内には戦死した将兵の霊を鎮める江戸時代の石碑が建っている。
江戸川を見渡す崖のあたりは樹木がうっそうと繁り、今にも箙に矢を立てた血まみれの鎧武者が現れそうだ。
夜中になると泣き声が聞こえるという言い伝えの石もある。

「羅漢の井戸」 国府台城の飲み水場 里見軍は、5000人以上の戦死者が 夜泣きの石
    
太田道灌が築城工事中、出土したと伝わる「明戸古墳跡と石棺」

里見公園から見る江戸川と東京葛飾方面


里見広次・正木内膳らを始め5千の戦死者を出し、里見義弘 は安房に敗走。以後、この地域は北条氏の支配を受け、1590年に 徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城

    

「松戸、江戸川と佐藤左千夫」 1864-1913 歌人・小説家
15歳の政夫と二つ年上の民子との悲恋を描いた「野菊の墓」は、初めての小説,明治39年、夏目漱石も感激して左千夫宛に絶賛の手紙を送ったという。
田園風景とゆったりと水をたたえた江戸川、私は勝手に「江戸川を哲学の川」呼んでいる。

江戸川には、今も残る一艘の渡し船「矢切の渡し船」がある。川に橋を架けることを堅く禁じられていた江戸時代、地元民の人々のみ「渡し」を使い、生活の足としていたと云う。
松戸市域にはほかに2つの渡しがあり明治期まで続いていたが、常磐線の開通や葛飾橋(木製)の開設などによって利用者が激減、今は矢切の渡しを残すだけとなっている。

    

左千夫は,茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、自宅に一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立したと云う。(現在では生家に移築)

「北総線」の陸橋、葛飾京成高砂駅と千葉県印西市の印旛日本医大駅を結ぶ、北総鉄道。


「江戸川」は、東北地方や北関東からの物資を涸沼・霞ヶ浦・銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ流通幹線。
房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かった。江戸川周辺からも、野田の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ばれ、
重要な川。歴史もあり、古くは、太日川・太日河と呼ばれ、渡良瀬川の下流部で、利根川とは別に江戸湾へと流れている。
更級日記、吾妻鏡、義経記などにも「太日川」を渡ると云う述が見られる。



「矢切りの渡し」ー船村徹作曲ー

      ついて逃げてよ、、、 ついておいでよ、、、夕暮れの雨が降る 矢切りの渡し
      
                      親の心に そむいてまでも 恋に生きたい ふたりですー

舟で渡れば東京葛飾


「矢切りの渡し」付近は、「国府台合戦」の戦場となった場所,この付近から国府台付近にかけて、伝説や史跡が多く伝わっている。
    

矢切りの渡し船で、    静かな江戸川を        葛飾柴又へ柴又公園は、さくら祭り
    

次回は柴又帝釈天へ。

国府台~下総台地の桜

2015-04-09 | 気まま旅

千葉県市川市は、県の北西、川を隔てて江戸川区と接し、市名は、江戸川の下流、市場が開かれていた所からなど諸説はいろいろ。
市川は、歴史の町とは知られていない。
下総台地の緑地には、古代の遺跡が多い、縄文の中~後期で、最も古いのに「姥山貝塚」、我が国の初の集落遺跡と云われている。
堀之内貝塚・曽谷貝塚・環状馬蹄形貝塚がある。
その後、大化の改新により、国府台には「下総国国府」が置かれ、国分寺・国分尼寺が建立され、政治と文化の中心地。
戦国時代に入ると、「安房里見氏」と「小田原北条氏」合戦場となる。その後、北条氏の支配を得て江戸時代、江戸幕府も市川国府台は、
幕府直轄の緒領地、寺社領地に。
「下総中山」は、日蓮宗五大本山の一つで法華経寺の門前町であった。行徳付近は、利根川水運の河港と成田参詣の拠点、昭和初期まで東京湾の最大塩田地帯である。

下総台地


第二次世界大戦時は、軍の下士官養成機関の教導団が設置され、終戦まで兵舎に野砲兵連隊があった。
国府台の桜並木は、その当時の老木巨木の桜木が今でも残されて、当時を偲ばせてくれる。

下総台地(4/4の桜)


国府台と云えば、万葉集伝説歌を収めた、真間の玉児奈橋
                「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈けむ手児奈し思ほう」、、、。

又、芭蕉・一茶も訪れており、勝海舟が別宅を構えている。
永井荷風や幸田露伴や谷崎潤一郎、慶応義塾鈴木恒男教授や歴史文学の中国の郭沫若が1928年から10年市川で波乱万丈の生活を、戦前まで兵舎であった所には、東京巣鴨商業専門学校(巣鴨商専)現在の単科大・千葉商大がある。

                弘法寺-山号・真間山「日蓮宗」


「弘法寺」ー三宝尊と伏姫桜ー
奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとれ、平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。
その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗。

大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受け、室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、徳川家康より朱印地30石を与えられる。
江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈られ、紅葉の名所として知られる。
諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されていると云う。
明治時代、火災のため諸堂は焼失し、その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、
伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。

市川真間からの階段           一茶の句碑               仁王門
    

仁王門            鐘楼                         樹齢400年の伏姫桜
    

境内の桜          朱雀門と呼ばれる「赤門」右に里見竜神 堂   太刀大黒尊天
    

千葉商大校庭の桜


千葉商大校庭の桜並木
    

国府台は、源頼朝より下総の守護に任ぜられたのが「千葉氏」の守護所が置かれている。
下総台地の西南端の位置と云う。戦国時代「太田道灌」により築城されたと云う。

千葉商大付近


国立国府台病院裏手に下総国分寺跡・下総国分尼寺跡・曽谷貝塚・松戸寄りに堀之内貝塚が。
桜の名所・里見公園(国府台城跡)は、江戸川方面に。

国府台運動公園入口


次回は、里見公園へ。