syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

小岩”影向の松”と江戸川

2015-04-07 | 気まま旅

茨城・埼玉・千葉・東京江戸川区・東京湾に注ぐ川「江戸川」私は「哲学の川」と命名している。
特にこの付近東京都と千葉県市川市の境、江戸時代初期、1654年徳川幕府が水害防止等の為、苦労して開削し通水大改修、利根川の分流に。
1972年野田導入路が完成され、都の約36%・千葉県市川・船橋・習志野などの重要な上水道源である。
徳川幕府は、利根川水運で栄え松戸・行徳・浦安海岸集落を発展させてきた。
特に東北・関東地方の米・塩・鮮魚など江戸の玄関口であった。明治末期に衰退していく。
江戸川長さー59.9km(利根運河)



江戸川区の区名は、江戸に通じる唯一の水路。西端に荒川放水路が南北に貫流、江戸初期は旗本の知行地でもあったが、江戸防衛の直轄領・関東
郡代の支配下に置かれた。
1899年の明治32年総武本線が開通し、1933年電化御茶ノ水ー市川間で都市化に。



江戸日本橋から4KM毎に一里塚が出来、旅人達は一里塚を目印にし、榎・松の木陰を求めたと云う。

江戸川区には二個所あった云うが、その一つ、ここ「江戸川手前、東小岩6丁目交差点角」に。(近くには国道50号線が)
    

「真言宗・善養寺」
奈良の長谷寺総本山、山号ー星住山


1527年頼澄法印が不動明王を法持し建立
    

1万2000m2の境内
    

四国88ヶ所霊場、石仏・石塔 
    

松老巨木の繁茂面積日本一と云う
    

巨木の松は、都天然記念物指定     樹齢600年以上の「影向の松」


寺は江戸川に位置、寺伝によると
山城国醍醐山の頼澄法印という僧が、夢告に従って1527年にこの地に至り、不動明王を祀ったのが始まりという。
室町時代後期の連歌師柴家軒宗長が、1509年に著した紀行文「東路のつと」にこの寺に関する記述があるため、実際の開山はこれより遡るものと推定。

江戸時代の文化・文政期に編纂された地誌「新編武蔵風土記稿」
善養寺について、「星住山」という山号のいわれは、境内にかつて生育していた「星降りマツ」に由来し、その昔、星の精霊がこのマツの梢に降り立ち、やがて赤青黄の石に姿を変じた。その石は「星精舎利」と呼ばれて寺の宝とされたが、いつのころからか赤と黄の石は紛失して青い石のみが残った。
この出来事から山号を取って「星住山」としたとある。
(星降りマツは昭和15年に枯死し、その後2代目が植えられた)
1648年、徳川将軍家から寺領10石の朱印状を拝領し、賢融法印(慶安4年寂)が中興し、寺は、下小岩村の密蔵院や東養寺、船堀村の光明寺、東宇喜田村の真蔵院など130余りの末寺を擁し、真言宗豊山派の中本寺格として知られたとある。

天明3年の1783年、に起こった「浅間山の大噴火」では、犠牲になった人馬のおびただしい遺体が利根川から江戸川へと流れ下って、ここ、善養寺
近くの中州などに漂着し、舟の通行にも支障をきたすほどであったと云う。
当時の様子が喜田有順「親子草」に記されている。
下小岩村の人々は、その遺体を善養寺の無縁墓地に葬った。十三回忌にあたる、1795年、に境内に横死者の供養碑を建立し、永く菩提を弔った。
この供養碑は、昭和48年に東京都指定有形文化財に。

西参道に、浅間山噴火(1783年)供養碑


通称小岩不動で親しまれ、撫で仏(おびんずるさま)鼻を撫でると美人に、、、。
    
                     本堂


今年の1月9日掲載した「連取の松・伊勢崎市」と比べてください。

連取町菅原神社の拝殿正面にあるクロマツの老松で、地元では「笠松」と呼ばれる。
「老之松として知られ、1808年の刷り物に「太サ八尺余、高さ一丈余、枝二十五、六間四方」あり、俳諧や和歌の題となっていた。
今日、樹高5メートル、目通り4メートル、枝張りは東西約35メートル、南北約26メートルである。享保2年(1717年)旗本駒井氏地代官の飯島一覚が隣村韮塚村諏訪の原から移植した。

「善養寺・影向の松」は、繁茂面積日本一と云うが、ここ、連取の松も野生味があり、見事。
(参考に、「影向の松」は、高さ2m・東西30m・南北28mで樹齢600年以上の盆栽仕立て老松で天然記念物指定)

                 群馬県伊勢崎市の野生味の連取の老巨木の松


庭木の王者は、「松」。
金食いの木とも言われ、春の「みどりつみ」に暮れの剪定ともみあげ、マツカレハなどの毛虫やカミキリ虫類の俗に言うマツクイムシがつくので消毒。
虫取りの為に行うコモ巻き。 と手間の掛かる庭木と云う。
手を掛ければ掛けるほど答えてくれる木でもあり、松の手入れが出来れば一人前と言われるほど松の剪定は慣れないと難しいとも云う。

さぞ、老松の管理も大変であろうが、是非守ってほしい。

                   連取松は、歴史の重みを


次回は、隣の千葉県市川・国府台へ

”桜満開”神田川と善福寺川

2015-04-05 | syu散歩

政治家・近衛文麿邸跡の公園。最近開園されました。杉並区のこの界隈には大田黒公園、角川庭園と3庭園が並んでいます。


林の合間に見える家屋が文麿邸。


善福寺川沿いの倒れそうな根性桜(かってに命名)今年も満開。
    

かりん公園のかりんが赤い花を 夏みかんも鈴なり。
    

静かな川沿いの桜、善福寺川公園の賑やかに咲く桜






    











京王井の頭線高井戸付近踏切から                  神田川の桜
    
神田川の桜






    

京王井の頭線高井戸駅
    

次回は、埼玉県に戻ります。

雪の富士山 山荘オープン

2015-04-02 | 富士山麓日記
三か月ぶりの富士山、山荘オープンです。ここは標高1000mの位置12月から閉めていましたがいよいよ春オープンです。
河口湖インターからの富士山


山荘付近1合目からの富士山


山荘、ここはまだまだ冬です




フキノトウがやっと芽を出しました。ようやく春が来て富士山での暮らしが始まります。


街中で富士山



栗橋ー白拍子「静御前」出生地

2015-04-01 | 気まま旅

埼玉県加須市(かぞ)、県の北東・利根川の旧河道「会ノ川南岸」の自然堤防上に発達した市。市の名は、寺名・河洲と云い、加増とも書かれている。
江戸時代は、中山道と日光街道を結ぶ脇往還の宿場町。
全国的に知られているのに「鯉幟・剣道具・柔道着」であるが、米作地帯で県下最大と云う。野菜栽培・金魚養殖も盛ん。
鯉幟は、全国40%のシエアーを占めている。これは、明治初期傘・提灯職人が副業に作られていた。

道角に多い道祖神
「大利根町北大桑字八ッ島」、大正14年(1925)H40w23「道祖神」の文字搭 左お地蔵様安永6年中央大赤面金剛の文字搭(安永6年)は数少ない庚申搭 右の小さな石塔が道祖神。どの神が主役か分からないが平等に花等の供えられ地域の人々の生活の中に生きている。
「大利根町北大桑八ッ島中川どう橋」文政2年(1819)H41W16「道祖神」の文字搭 中川の改修により祠を新築現在地に移設。
「大利根町道目」宝暦10年(1760)H750W350「道祖神」の文字搭 境内はよく清掃され、地域の方々の石塔に対する思いが伝わる。
隣接の庚申搭の祠は確りしているが道祖神の祠はご覧のように朽ち傾き、古い藁草履が奉納、足の神様として僅かな信仰が残っている。
「大利根町杓子木八坂神社境内」明治3年(1870)H1280W500 「塞神」の文字搭、県下では珍しい。 
この塔は元禄7年建立の庚申搭を明治3年に改刻したものと云う。
境内には外に猿田彦大神、十九夜供養搭等11搭あり、地域に散在していた石塔を集約したものと云う。

熊野三神社


往古ここは、「羽生領」 戦国期、「館山」は羽生城の支城として数えられ、 栗橋城に対する前哨陣地だったと考えられている。
「埼玉の館城跡」の「館山」は、 立地・形態・面積:平地、長方形59400㎡(18000坪)・ 遺構:土塁・水堀共一部残存。空堀なし。
築造年代:戦国時代(永禄初年頃か)・ 城主・居住者:大越彦四郎 小山小四郎 関根氏・ 伝承・記録
館山は館野と呼び、小山氏の居館(新編武蔵風土記稿)、または成田氏の家臣大越彦四郎、関根氏の祖の居跡(伝承)とするが、確証はない。
「徳性寺」は、小山判官朝政の祈願所で、後小山義政の再興であるといい、 天正11年の1583年、小山小四郎小田原勢に打負けて落ち来り、当所に暫く居住したという(新編武蔵風土記稿)。

足利義政由緒の地・徳性寺


足利義政 1436-90 東山文化を興した将軍ー室町幕府8代将軍
出家の「義視」跡継ぎと定めるが妻「日野富子」に実子「義尚」が生まれ、跡継ぎ争いは生じる。
義視には、細川勝元・義尚には、山名宗全、、、「応仁の乱」が起こる。
応仁の乱の中、義尚に将軍職を譲り、東山山荘に住む「銀閣寺」・宗教・芸術に没頭、「東山文化」を興す。

古河公方が成立した享徳の乱は、応仁・文明の乱に匹敵し、関東における戦国時代の幕を開ける事件。
旧来の政治体制が大きく動揺し、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなる。
関東における戦国時代は、後北条氏の発展過程を軸として解説され,後北条氏以前の実態には関心が比較的低いが、近年の研究により、
関東諸豪族から鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方を頂点とする、ある一定の権力構造が存在したことが明らかになる。
後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、やがて体制全体を換骨奪胎した後に、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもある。従って、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結、、、、、。

道祖神・石塔


関東88霊場の82番札の山号・星子山ー金乗院ー
真言宗智山派の寺、 本 尊ー阿弥陀如来・ 真 言「おんあみりたていぜいからうん」

         御詠歌ーてのうちに ありけるものを やまびこの こたふるかたを たずねけるかな

                   金乗院


     金乗院の境内に入れば九間、瓦葺の本堂があり、ご本尊阿弥陀如来が奉安されている。
  

寺伝によれば、1319~20年、に開創。当初の本尊は「不動明王」であったが、僧・栄賢によって現在地へ移建され、本尊は「阿弥陀如来」に。
1688~1703年、村内に八幡神社が創建され寺の管理のもと、その本地仏になったとある。

創建以来学問僧や弟子の養成につとめ、近年では真言宗智山派管長の倉持秀峰師をはじめ智山・豊山派に多くの人材を輩出し、その法脈はひろいと云う。
関流数学者八代目島田熊次郎の墓石・明治の学制発布で本堂に小学校が開設されている歴史が。
近くを流れる利根川を渡れば茨城県の古河市。
                     金乗院
    

                加須市大利根町に鎮座する八幡・浅間社
    

埼玉県北葛飾郡「栗橋町」は、県北東部、利根川を境に茨城県と接している町、江戸時代は,栗橋村(茨城五霞村)の移住者により開拓されたと云う。
また、日光街道の本陣・宿場・関所がおかれていた。利根川渡船場でもある町。
現在は、JR東北本線・私鉄東武線、国道4・125などで宅地毛が進んでいる。

                    JR栗橋駅
  

「源義経」 1159-89 悲運の武将、義朝の九男、鞍馬寺へ預けられたが、脱出して奥州平泉「藤原秀衡」の庇護を受け、兄頼朝の挙兵を知り参加。
平家討滅の大功するが、頼朝の許可無に任官し怒りをかって対立、九州へ逃げるが船難破、再び秀衡を頼る。
秀衡没後、子「泰衡」に襲われ自殺したと伝わる。又北海道へ逃げている説もある。

義経は、兄頼朝と闘う決意を固め、西国へ向かうが船は難破、手勢はチリジリになって数人の家来と共に吉野山へ逃げる、その時は、静御前も同行している。その後は、女の足では無理と知り別れている。その後、静は、捕えられ、母と共に鎌倉へ送られ、尋問に答えなかったと云う。
頼朝の妻「政子」の所望により、静は、鶴岡八幡宮で舞った。

                    白拍子静御前
    

鼓は、「工藤祐経」・銅拍子は、「畠山重忠」

「吉野山 みねの白雪 ふみわけて 入りにし 人のあとぞ 恋しさ」と歌ったと云う。
武士たちは静の勇気と義経に対する愛に感動したと云う、が頼朝は怒ったが、政子は頼朝をとりなしたと云う。

                   白拍子静御前
    

静は、男子を出産するが殺されている。鎌倉を去った後は行方は知られない。

                  白拍子静御前


「白拍子」
平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。
及びそれを演ずる芸人。 主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。
素拍子とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指すと云う。

                  白拍子静御前
    

「畠山重忠」 1164-1205 鎌倉武士、父畠山重能・武蔵国秩父一族。母は、三浦義明の娘。父は平家方の為三浦氏「衣笠城」を攻めて義明自害。
間もなく頼朝に従い平家追討戦で武功をあげる。頼朝上洛の際、先陣。二度目の妻は、北条時政の娘で、重保が生まれている。
最後は、時政夫妻・北条義時らに討たれ、畠山一族は全滅する。

「工藤裕経」~1193 父母工藤裕継・妻伊東祐親の娘・子が伊東氏継承する。曽我兄弟の仇討ちで冨士で討たれる。

                   白拍子静御前


行田ー加須ー栗橋ー国道4号線を超えると、茨城県古河市、万葉集「麻久良我の許我の渡」が転訛しと云う。
古河公方・足利成氏の居城は、5代にわたり勢力を築いた。家康の支配下とし、利根川水運・日光・奥州街道の分岐点で要衝地。城下宿場町として発展

「穴薬師古墳」
奈良時代の貴族が造営したものという。
古墳の規模は、直径約30m、高さ約4mの小高い円墳で、中央に横穴式の石室が設けられ、石室は、幅約2m、長さ約7mの規模で、奥部は高さ2mの
ひょうたん型をしている。
その構造は、下段に30cm程度の自然石が並べられ基礎となっており、その上に整形した軽石を積み上げて側壁、奥壁には板状の石を使って五輪の塔を思わせる模様が描かれている。
                    穴薬師古墳   
  

こうした構造の古墳は、古墳時代後期の造営と考えられ、関東地方には例がなく、学術上でも貴重な遺跡と云う。
古墳を造営した人々は、薬師像を安置して信仰しており、それを知った村人は穴薬師と呼ぶようになり、名前の由来となった。

                    穴薬師古墳  
     

古墳北側には、川妻寺があり本堂には薬師如来像が安置。
川妻寺の薬師如来像と石室の薬師像との関連を位置づける資料は見当たらない。
古墳に住んでいた人が熱心な薬師の信仰者であったことから川妻寺内に薬師像を置き替えて、村人が信仰を受け継いだ説。
古墳に住む人がいなくなったころ、村人が新たな薬師如来像を建立したという説が。

穴薬師古墳には「隠れ膳椀」の伝説があり、村人が何人か分の膳椀を貸してくれるようにたのむと、翌朝に古墳の前に揃えて置いてあったと伝えられている。穴薬師古墳は、長い間荒れるままに放置され、昭和47年に文化財保護の観点から復元整備され、県の指定文化財となった。

                      穴薬師古墳跡
  

次回は、利根川「関宿城」方面へ。