syuの日記・気まま旅

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東京モノレールで空中散歩ー(37)

2016-03-19 | 気まま旅

多摩川散歩も河口近くの大田区へ。都の南東端、多摩川を渡れば神奈川県川崎市に接する。
大田区は大森(大)・蒲田の(田)の一字を取っている。武蔵野台地の最南端と羽田飛行場の東京湾に臨む低地に分かれている。
古代遺跡ー大森貝塚と田園調布多摩台地の古墳群から武蔵国荏原郡の磐井神社・稗田神社・光明寺・安養寺の古刹、又、中世では、大井氏
蒲田氏などが支配下にしている。江戸時代は、六郷用水が開削・開拓を進めた地域で、ここから江戸前、大森・糀谷の海苔養殖はよく知られている。
明治時代は、海水浴場で賑わった所。
灌漑用水開拓で「森ヶ崎鉱泉」が発見され、穴守稲荷門前町が出来遊興地で賑わったと云う。
大正時代に入るとエネルギー・重工業が続々立地され、軍需関連の中小工場が集中ー城南工業地帯を形成した。
人口も増え、東京湾臨海埋め立て地で、昭和島・京浜島・平和島が。

       現在は、空港・鉄道が開通し住宅・都市化されている。
    

「東京モノレール」
計画は、新橋―羽田間での開業を目指したが、騒音問題などで地域の理解を得られず、土地の買収が難航。
東京オリンピックに間に合わせるため浜松町―羽田間に計画を変更された。
工事着工は開業前年、突貫工事の末、五輪開幕前に開業にこぎ着け、モノレール開業は「日本の交通革命」とも称され、五輪効果と都心に初めて
出現した本格的モノレールという物珍しさも手伝い、休日には浜松町駅に長蛇の列ができるほどの人気ぶりだったと云う。

    

「目黒川」は、世田谷区から目黒区を抜け品川区で海に注ぐ。
開発される以前、河口付近は湾曲し流れが緩やかであったため港として使われ、「品」の行き交っていた川であったため
「品川」と呼ばれたといい、これが「品川」の地名の起こりとされる。
その目黒川・品川橋の先が京浜運河にぶつかり、その手前を高浜運河から天王洲運河と結ばれている。
モノレールは、大井競馬場前ー流通センター(中央卸売市場)-平和島(京浜島)-(海老取川)-羽田空港へと。

開業当時の駅は浜松町と羽田しかなく、沿線の風景も現在とは全く違った。
東京湾の埋め立てが進んでおらず、路線の多くが海の上を走っていた。
天王洲の辺りから路線の左側はほとんど海。
海の上をモノレールが走る感じだったが。

    

1992年に開業したのが「天王洲アイル駅」。
外国の軍艦に備えて江戸幕府が作った台場の跡地だったこの地区は倉庫や石油の備蓄タンクが立ち並んで、1985年に地権者らが総合開発協議会を結成、
新たなまちづくりがスタートした。
石油の備蓄タンクなどは取り除かれ、新たなオフィスビルが次々と建設された。
当初の計画は駅付近だけだったが、バブルを挟んだ時代背景もあり、地域全体の開発へ広がったていったと云う。

    

京浜急行の参入は、モノレールの経営にも大きな影響を与え、
同社は、日立物流の完全子会社だったが、競争が激化したことで、JR東日本との連携強化。
JR東日本もモノレールを傘下に置くことで利用客の増加が見込めるとみて
2002年、に日立物流保有株の70%を取得し、モノレールは、JR東日本のグループ企業として新たなスタートを切っている。

    

2000年代に入っても沿線の変化は続き、2004年には、羽田空港第2旅客ターミナルが整備、モノレールの羽田空港第2ビル駅が開業。
開業効果により、この年、モノレールは輸送人員減をようやく食い止めることができたと云う。
さらに羽田への国際線再就航を求める声が航空業界などから高まり、2010年には国際線ターミナルビルが開業。
モノレールも国際線ビル駅を開業し、現在一番新しい駅となっている。

    

現在は、モノレールの利用者は、飛行機に乗る人ばかりでなく、4割以上がそれ以外の人たちと云う。
空港で働く人や、天王洲アイルや流通センターなどで働く人の利用も多い。
天空橋駅周辺の開発計画・八潮パークタウンの居住者など通勤で利用する人も増え、地域の足としての役割を果たしている。
将来は、東京駅までの計画もあると云う。

    

「羽田」
南に多摩川と東京湾の多摩川河口三角州と埋め立てと人口島・羽田・本羽田・羽田旭町・空港にあたる地域。
江戸時代は、三角州上の自然堤防に位置している。この地域農村と漁村と海苔養殖の産地であった。特に漁民は、奥多摩山中から筏で流した木材や
物資を、江戸へ回漕する為の積み替え業にも従事していた。

                 7階建ての航空ビル内
  

1931年の昭和6年に飛行場を開設したが、第二次世界大戦後、米軍に接取され、米軍が大規模な拡張工事が行われた。
神社仏閣など、今の羽田5丁目に強制移転、これが1948年。

         中央送迎広い長い見学デッキー離着陸のジェットが次々に
  

1958年・返還ー東京国際(羽田)空港となった。
               日本の空の表玄関に
    

1978年新東京国際(成田)空港が開港によって国内線中心であったが、1993年第二期工事が完成し新ターミナル・ビックバード・モノレール延長
新整備場・新駅と開設され、国際線も一部戻されている。

          江戸時代から工場が立地で、現在も工業地区を形成している。
  

「京急空港線」
京急蒲田駅と羽田空港国内線ターミナル駅を結ぶ、京浜急行電鉄の鉄道路線。
大田区内を東西に走り、東京国際空港(羽田空港)への空港連絡鉄道で便利に。
糀谷駅を発車すると急勾配を下り、一気に地下に潜って産業道路と環八通りの交差点の直下に位置する大鳥居駅へ進入、大鳥居駅付近は
地下化され、産業道路・環八通りとの平面交差が解消されたと云う。
大鳥居駅を出ると地上に戻って首都高速羽田線羽田出入口の下をくぐり、
「穴守稲荷駅」を過ぎると羽田空港ターミナル直下に位置する羽田空港国内線ターミナル駅までの地下線区間に入る。
海老取川をくぐった付近で南北に走る東海道貨物線を乗り越し、天空橋駅では同じく地下線のモノレールと連絡。
滑走路を迂回しながら一部で高架線を走行するモノレールに対し、空港線は短距離で空港ターミナルに向かっている。
羽田空港国内線ターミナル駅は国内線第一ターミナルと国内線第二ターミナルの間、東京湾岸道路・首都高速湾岸線・国道357号の直下で直交する位置にあると云う。

    

「羽田稲荷七福神と弁天様」
七つの稲荷神社は、東官守稲荷神社・妙法稲荷神社・重幸稲荷神社・高山稲荷神社・鴎稲荷神社・白魚稲荷神社・、穴守稲荷神社。
弁天様は、玉川弁財天。
           各神社、御朱印を貰うことが出来る。


「穴守稲荷神社」
宝暦・天明の頃、災害を防ぎ五穀豊穣の守護神として建立。
その当時は、東京国際空港敷地内に鎮座、終戦後空港建設のため現在地に移転している。

       商売繁盛・交通安全の神として信仰を集めている。
    

空港内の大鳥居があるが、昔の「穴守稲荷神社の所。
この大鳥居を取り壊すと必ず事故がおこるのでそのまま残されたと云う。(伝説)

「あなもりの砂」の由来。
老人が漁に出て魚を釣り上げて魚篭に入れたが、中を見ると湿った砂があるだけだった。
翌日も翌々日も大漁となるも、篭をみるとやはり湿った砂があるばかりであった。
老人はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、村人たちはこれを狐の仕業として稲荷神社を取り囲み、一匹の狐を捕まえる。
しかし、老人は狐を許してそれを解き放った。
それ以降、老人が漁にでると必ず大漁となり、篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになった。
老人が砂を持ち帰って家の庭にまいたところ、客が途切れることなく訪れるようになり、老人は富を得た。
そのため、穴守の砂には招福のご利益があるとされ、今も多くの参拝者を集めていると云う。

           外人観光客に人気の朱の大鳥居
    

江戸時代・1804年の文化元年、新田開墾の折り、海が荒れて沿岸の堤防が決壊し、村々は海水による甚大な被害を受けた。
村民が堤防の上に祠を勧請し、稲荷大神を祀ると、海が静まって大きな実りをもたらしたと社伝。
これが穴守稲荷神社の起こりとされ、穴守という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなむと云う。
元々は新田開拓を行った鈴木家の土地にあったと云う。(文政年間の1818年頃多摩川三角州開墾鈴木新田の堤防上)

                   祭神ー豊受姫命
    

明治17年、暴風雨に襲われ崩壊してしまうが、翌年には再建の認可を取り付け、明治19年、「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へと改称を。
再建した穴守稲荷神社は境内も広くなり、さらに周辺で潮干狩りもできることや温泉が湧いたこともあり、門前には温泉旅館や芸者の置屋ができる
など、賑わいを見せた。
京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は京浜蒲田から穴守稲荷神社へ向けて支線を伸ばし、明治35年、には海老取川の手前まで、大正2年、には川を渡って穴守稲荷門前までの延伸し、神社の界隈はさらに賑わった。

    

次回も、羽田。

人気の二子玉川と三軒茶屋 多摩川散歩(36)

2016-03-17 | 気まま旅
ここは、海から19km・渋谷区と世田谷区の境界杭が並んでいた。
鉄道は、池上線が多摩川に沿って御嶽山ー久が原ー千鳥町ー池上ー蓮沼ー蒲田へ。
東横線が渋谷ーー自由が丘ー田園調布ー玉川ー神奈川県新丸子ーー横浜中華街で多摩川を横断している。
東海道新幹線も東横線と並んで横断している。

渋谷川・渋谷橋は、恵比寿駅界隈で区の中心、駒沢通りに町屋造り許されている。早くから栄え活況を呈したのが広尾付近で即渋谷橋が架けられた。
駒沢通り・明治通りは、将軍鷹狩往来する道と農民が江戸市中に野菜を売りに行く道であったと云う。
明治40年には、玉川電鉄が開通している。
「金王八幡神社」は、1086年頃源義家・後三年の役部下「河崎重家」が、京都の御所に賊が捕え、その賊徒の名が渋谷権介盛国と云い、
院から「渋谷」の姓を賜りー渋谷土佐守従五位下に、関東に下り、現渋谷に住んだので地名に、、、。(これは一つの異説)

世田谷区瀬田は、江戸時代から眺望良く、江戸八景ー二子漁舟・大蔵夜雨・岡本紅葉・「瀬田黄稲」・・・。
平安時代から、瀬田村は玉川の大半で、「玉川瀬田・勢多郷」と由緒ある地名。
「玉川八景」玉川神社の石段上行善寺で行善寺八景とも云う。今は、ビルの陰に、若山牧水は、ここ1ヵ月ほど滞在し初恋の神社と云う、牧水19才。



「水草」
都内の河川や用水等、生活排水などで汚染させたり、河床をコンクリート張りになるなど水草の生育に適さなくなっています。
多摩川は貴重な川とされています。
ヨシ・スイレン・ホテイアオイ・ワサビ・レンコン・ハス・・・・・。
水草には、綺麗な水を好むもの・多少汚れた水でも育つもの(ワサビ・ミズニラ・ミクリ・ナガエクリ・アイノコイトモ・オオカナダモ等)
水草も沈水性植物・浮葉性植物・抽水性植物と分けられている。沈水ーエビモ・コカナダモ・オオカナダモ・ヤナギモなど。
                             浮葉ースイレン・ハス・ウキクサ・ホテイアなど。
                             抽水ーオランダガラシ(クレソン)・ガマ・ヨシ・ワサビ・イネ等。
役割は、魚や昆虫が、卵を産み付ける場所で、大きな魚等の攻撃から守っています。



第三京浜と環八の角に「玉川野毛町公園」。
そこに、9mの高さの「大塚古墳」ー大きさ直径66m、南関東最大円墳がある。この古墳明治30年発掘されている。
円筒埴輪・直刀・刀子玉類など多数出土品があった。(上野博物館収蔵)
野毛山古墳群のこの地域は、古墳が多く、縄文時代の竪穴式住居跡もハッキリした形で見つかっていると云う。古代人と多摩川と野毛山の生活は?
大田区田園調布から世田谷区野毛1帯には、約20基の古墳が残されている。
等々力渓谷から八幡塚古墳・天慶塚古墳・西岡古墳・16号~35号・宝菜山古墳・観音塚古墳・亀甲山古墳・多摩川台古墳と古墳展示場がある。



東急田園都市線・大井町線の「二子玉川駅」


世田谷区の南西に位置、北に緩やかな丘陵、南に多摩川を抱える区域で自然環境が残されているが、最近は、住宅地を中心とした街が形成されている。
二子玉川駅近辺は、駅前から、商業施設が建ち並んでいる。
駅の東側を中心に再開発が進められ、2011年には大型商業施設である二子玉川ライズショッピングセンターが開業され、賑わいを見せている。
今後、映画館などができる予定である。「フタコ」、「ニコタマ」という愛称で呼ばれている。
二子玉川の街は元々、江戸時代にこの地に存在した渡し船(「二子の渡し」)により地域一体が栄えた事に始まり、後に世田谷随一の歓楽街、
東京有数の行楽地へと変貌していったという歴史を持つ。
自由が丘、下北沢、三軒茶屋と並び、世田谷区の「広域生活拠点」に位置づけられ、比較的豊かな自然環境をベースに住宅街及び商業地帯を発展させた
区域として成長している。
                等々力渓谷の谷沢川も多摩川へ
    

「二子玉川」の名は、かつて多摩川を挟んで川崎市側に存在した「二子村」と世田谷区側の「玉川村」に由来すると言われている。
同地付近にあった「二子の渡し」にも深い関連がある。 
町名は当時同地にあった二子塚古墳に因んで大井町線(現:東急大井町線)開業時に目黒蒲田電鉄が名付けたと云う。

                多摩堤通りに旧巨人軍グランドが
  

二子玉川の周辺には、
多摩川とその河川敷、さらに生活圏内には砧公園や等々力渓谷など、都会では貴重な自然が比較的多く残っている。
コイやナマズといった淡水魚、鴨や白鷺といった鳥類の姿も見られる。緑地には運動場のほか整地されていない原野(原っぱ)もある。
特に河原にある兵庫島公園周辺にはそのような緑地が多い。釣りも楽しめるので釣り人の姿もある。

             玉川浄水場は環8通りに
    

「兵庫島公園」
多摩川と野川の合流部に位置する「兵庫島」を基に作られた公園。
現代「兵庫島」を含めて公園は、島ではない。上流側は新二子橋の下を境に同じく河川敷にある二子玉川緑地と接している。
1988年に「兵庫島河川公園」として整備し、現在は「兵庫島公園」に。
園内には「兵庫島」が丘として残っており、「兵庫島」を中心として木々が生い茂り武蔵野の緑を今に残している。
「兵庫島」の上流側には、開放的な芝生広場もある。 また、三方を多摩川・野川に接している他、公園内中央には人造の池「兵庫池」。
上流側からは「ひょうたん池」に注ぎこむ人造の小川が整備されており、水に親しみやすい公園である。
多摩川は「あばれ川」と称されるほどの川であり、現在も公園付近は川の流れが狭く蛇行していることもあって、公園付近の水の流れは急であり水深も比較的深い。そのため、この公園付近の多摩川では水死事故が度々発生している。

兵庫島から多摩川を望んだ時に広がる風景は人気。



「世田谷区三軒茶屋」
文字どうり三軒の茶屋が、3軒の茶屋から始まった。世田谷通りと玉川通り交差点に江戸時代「田中屋」「角屋」「信楽」の休み茶屋で、
相模大山詣り参拝客で賑わったと云う。
坂本龍馬が信楽に泊ったと云う話が残っている。昔の茶屋は、二階に座敷もあった。

    

昔懐かし、玉電が走っていた三軒茶屋、今は、地下鉄に。

    

郊外のショッピングタウンが形成された「二子玉川駅」に変貌していた。

            私鉄小田急ー登戸・和泉多摩川間多摩川陸橋車中から
          

次回は、羽田方面へ。

狛江と多摩川の魚たち 多摩川散歩(35)

2016-03-15 | 気まま旅
多摩川流域の土地利用は、明治後期までは水田を主体とした農地利用がなされ、水田に付随して畑地がみられ、八王子・秋留の諸盆地では桑畑が分布
していた。それ以外の丘陵・山地等では樹林が卓越していた。
大正から昭和初期になると、下流部に市街地化が見られるようになったが、一方で、中流の山麓地帯では桑畑がかなりの広がりを見せ、
蚕製糸業の隆盛がうかがえるなど、流域の農業主体であった状況が現れている。
その後、経済の高度成長に伴う東京圏への人口、産業の集中と、多摩川下流域での京浜工業地帯の発展を受け、昭和30年頃になると下流域における
宅地化が急速に進行し、これが土地利用、特に農地の減少に明確に現れるようになった。
昭和40年代に入ってからは、宅地化の速度が一層速まるとともに、農地においても水田から畑地への転用が行われるなど、水田は流域全体で残り少ない状
況となっている。
現在では、多摩ニュータウンの開発により多摩地域の緑地のほとんどが失われ市街地化、多摩川の氾濫原であり、近年まで水田もしくは未利用地であった沿川の低地は、地域社会からの要請により本格的な堤防が築かれ、洪水被害が少なくなるとともに近年の都市化の波を受け、高密度利用地へと変化し、
明治期には、市街地がほとんどみられなかった多摩川沿川の中下流域は、現在ではもっとも都市化が進んだ地域となっており、ひとたび
水害を受けたときの被害は、明治期とは比較にならないほど莫大なものになると云う。

  

「暴れ川・多摩川」ー1974年の大水害ー
堤防の復旧後、国は流失した住宅地を補修し、爆発時に生じた二次災害の補償は行ったものの、流失家屋などについては補償の対象とはならなかった。このため被災住民は、多摩川を管理する国に対し、国家賠償を求めて提訴する。
「狛江水害訴訟」は、1976年の昭和51年、から1992年の平成4年、までー16年間にわたって争われ、一審から差戻し控訴審まで計4回判決が出された。
最終的には、管理者が予見可能であったのに対策を講じなかった人災であるとし、国に5億9000万円余りの損害賠償を求める判決が確定した。
災害で家のほかにアルバムを失ったことがショックだったという被災住民の話から脚本家山田太一が、
「岸辺のアルバム」を新聞に連載し、昭和52年、にはテレビドラマ化された。ドラマの最終回は洪水によって家が流される報道映像で終る。
多摩川の破堤はこの1974年多摩川水害以降起こっていない。
現在、当時最初に決壊した堤防の跡には「多摩川決壊の碑」が建てられている。



「狛江市」は、都中南部で、多摩川を挟んで川崎市と接する市。
市名は、高句麗から渡来した高麗人によって開発されたことに由来すると云う。
武蔵野台地南端に位置し、立川段丘崖が東西に走っている。台地上には、亀塚古墳等の縄文・弥生時代の遺跡が多い所、「狛江百塚」は狛江郷の中心であった。1597年、多摩・荏原両群の灌漑用の「六郷用水」開削されている。
昔から多摩川の洪水被害が多い所で、明治43年の洪水では、流路が大きく変わったと云う。



多摩川を私鉄小田急線が登戸駅ー狛江駅間に陸橋がある。その先に東名高速道路(川崎IC-世田谷用賀)横切っている。
多摩川と並行して府中街道とJR南武線(立川ー川崎)。



「タマゾン川」と呼ばれる川ー多摩川外来種汚染
飼育できなくなった熱帯魚やカメなどの外来種を多摩川に放流するために、いつしか多摩川は外来種の宝庫に。
今ではアマゾン川ならぬ「タマゾン川」と呼ばれるように。

観賞用やペットとして飼われていた外国産の生き物が、河川に放され、生態系を脅かしていると云う。
多摩川は、人口密集地の東京・神奈川を流れる都市河川であることから、違法投棄や違法放流が特に多く、いまでは200種類を超える外来種が
棲み付いているという。エンゼルフィッシュやグッピーなどのかわいい熱帯魚から、ピラニアやガーパイクなどの獰猛な熱帯魚、さらには肉食系の
外来種のカメなど・・・。
「まるでアマゾン川のようだ」ということで、誰が名づけたか、今では多摩川のことを「タマゾン川(多摩ゾン川)」と呼ぶ。



「秋の七草」は、絶滅危惧種と云う。
我が国が古くからなじみ親しんできた秋の七草が東京では絶滅危惧種に指定された。
1-オミナエシ・2-カワラナデシコ・3-ハギ・4-キキョウ・5-フジバカマ・6-ススキ・7-クズ。

    

                  海から25km
    

「多摩川と鳥達」
日本列島は東西に長く、海あり湖あり、川あり平地から高い山と変化にとんでいる。
多摩川水域は、これらの条件をすべて持った特有の生態系がある場所で、河口には数少ない干潟が残り、都市部や昔から人の住む町を流れる
多摩川には近くに歴史のある神社・仏閣も存在し、時代の当主が守ってきた山や森には巨木や自然林も多く、都市河川でありながら多様な
条件のある多摩川水系と云う。
鳥たちが安心して子育て、越冬、休養できる多摩川に。

    

旅鳥と呼ばれるシギやチドリの仲間は遠く厳冬のカラフトから暖かいオーストラリアやニュージーランドの国まで移動する途中に、多摩川の河口
干潟に立ち寄り、身体を休めたくさんの食べ物を食し、移動する。
移動する距離はなんと2万kmにもおよぶ鳥達も。
また、漂鳥や留鳥も長い距離ではなおが、北海道から本州へ、低地から高地へと季節で子育てしやすい場所へ移動すり鳥達も。

    

「六郷川水取り入れ口」
世田谷領と六郷領、狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路。
延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。
多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水・合わせて四ヶ領用水とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削され、開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。
この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになったと云う。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となっている。
流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ。
世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。
大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現され、残りは歩道に。

    

「多摩川台公園」
公園は多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750m・ 面積は、66,661㎡と広大なうえ、自然林の道、古墳、展望台、水生植物園、四季の野草園、あじさい園、山野草のみち、ふたつの広場など見所ある公園。
「亀甲山古墳、宝莱山古墳」をはじめとする多摩川古墳群の散策や、桜ー約300本・あじさいの6月始めに紫陽花祭りを開催すると云う。

  

公園から、富士山が正面に。
亀甲山古墳の西側にある広場 で、一角に四阿があって展望台があり、多摩川の眺望がよいと云う。



             この辺り、海から24kmの多摩川


「昔懐かしや二子玉川遊園地」
戦前、親に連れられ遊んだ遊園地は、今、無くなったと云う。
行政上は、二子玉川という町は存在しない。
多摩川が東京湾にそそぐ河口(羽田)から23km上流の多摩川左岸南の多摩川と北の国分寺崖線というゆるやかな丘陵・河岸段丘に挟まれた
東西に細長い地域を云う。
今は、玉川高島屋・ 二子玉川ライズを始めとする大型商業施設のある「二子玉川駅」を中心に、
銀座、横浜、自由ヶ丘、名古屋、神戸と並んで女性ファッションの発信地として有名な町と云う。

池上線が横切っている。
   

「多摩川水道橋」
津久井往還の多摩川を渡る渡し場で古くはここも大山道の一つ。
渡船場は、古地図から推定すると小田急線の鉄橋付近にあったものと思われている。
「多摩川水道橋」の、都側の所には橋碑がありかつてここに「登戸の渡し」が有った事が記されている。

    

「多摩川の渡し」
「登戸の渡し」 「宇奈根の渡し」 「二子の渡し」 「等々力の渡し」 「宮内の渡し」 「丸子の渡し」等があったと云う。

  

                元気に河川敷で遊ぶ子供達


調布 角川大映スタジオ 多摩川散歩(34)

2016-03-13 | 気まま旅
「多摩川水系は一級 河川」
多摩川水系に係る河川はすべて一級。
支流のー秋川(37km)ー 淺川(36km)ー野川(22km)ー日原川(20km)ー平井川(18.7km)ー大丹波川(10.5km)他。
ことごとくが「一級河川」である。
多摩地区を流れる川は、すべてー残堀川ー大栗川ー 三沢川ー仙川も支流の支流も、一級河川ということになる。
「河川法」
(一級河川)第四条・第一項に····。
「一級河川」とは、国土 保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したものに係る河川(公共の水流及び水面をいう。 以下同じ。)で
国土交通大臣が指定したものをいう。····  以下省略。
(二級河川)第五条・第一項に ····  「二級河川」とは、前条第一項の政令で指定された水系 以外の水系で公共の利害に重要な関係があるものに係る河川で都道府県知事が指定したものをいう。 ···· 以下省略。とある。

今回、多摩川支流を歩いて、どうしてこんなに小さな川が一級河川と思った。
河川の大小、 河川の長さ、河川の流域面積の広さ、などなどには係り無く、つまりその川が氾濫したときにどのような 重大な影響を
およぼすかということから、「一級河川」が定められ整備がすすめられるということを知った。

      千歳烏山
京王線相模原線ー|   「京王多摩川」ー稲田堤ーよみうりランドー稲城ー若葉台ー永山ー多摩センターー堀之内ー南大沢ー多摩境ー橋本。
      京王八王子
              京王相模原線「京王多摩川」駅下車
    

「株、角川大映スタジオ」
東京都調布市に存在する日本の映画スタジオ。
同名称は正式名称で、事業所の組織的名称。角川の傘下企業。
角川大映撮影所、となってからの歴史は浅いが、撮影所自体は、1933年の昭和8年、同地に開所した日本映画多摩川撮影所以来、
70年以上の歴史をもつ。
昭和7年、 京都の東活映画社が東京に撮影所を新設すべく、本多嘉一郎氏を派遣、現在の京王電鉄、より取得したが、倒産、解体された。
昭和8年、 東活映画社を母体に日本映画株式会社が設立され、同敷地に日本映画多摩川撮影所として開所。
昭和9年、 日本映画が倒産し、日本活動写真株式会社(現在の日活)が同撮影所を買収し、名称は日活多摩川撮影所となった。
これにより日活現代劇部は京都から再移転し、初代所長には移転計画を陣頭指揮した専務取締役ー中谷貞頼氏が就任。
撮影所の裏手にあった集落も買収し、約5千坪の土地にスタッフのために社宅群を作ったエリアは、大映に変わってからも
昭和30年代まで続き「日活村」「大映村」とも呼ばれた。

平成14年、 大映が角川グループに営業譲渡、「角川大映映画株式会社」が設立。平成16年、 角川映画誕生により、同撮影所の名称を正式に
角川大映撮影所に変更。平成18年、 スタジオ棟がオープン。平成23年、 角川書店が角川映画を吸収合併し、角川書店スタジオ事業本部になる。
平成25年、 角川書店からスタジオ事業本部を分離し、株式会社角川大映スタジオが発足し現在に。

  

碑は、現在、角川大映撮影所前の住宅・マンションに囲まれた児童公園の中に建っていが、戦前の日活多摩川撮影所であった。
撮影所の敷地は現在の角川大映撮影所だけではなく、調布南高校から京王多摩川線の線路の辺りまでもあり、この児童公園もこの日活多摩川撮影所の
敷地の一部であったと云う。
「映画俳優の碑」は、昭和61年、日本映画俳優協会が創立35周年を記念して建てられ、3個の碑からなっている。
    

「調布市」、古代朝廷に納める「調・税」は、「カラムシ」を原料とした布を生産したことから「調布」に。
布田や染地等が残る。元は、神奈川県北多摩郡調布町で明治26年に東京府に。武蔵野台地南部に位置し、段丘下の湧水は、「深大寺湧水」「野川」
東部に「仙川」「入間川」の水源となっている。
江戸時代には、甲州街道・布田五宿が置かれた宿場町であった。
1913年、「京王電鉄・軌道」が開通され、新宿まで直結され開発が進んだ。

  大遊園地・京王閣(現競輪場)・稲田堤の桜・調布飛行場・1964年オリンピック選手村等が
    

山梨県・東京中心部・神奈川県を流れる多摩川水系の本流・一級河川。
下流域においては東京都と神奈川県の県境としての役割も担う。
県境全長138km、流域面積1,240km²。堤防はあるものの、首都圏の一級河川でありながら護岸化されていない部分が多く、
川辺の野草や野鳥が数多く見られる自然豊かな多摩川
    

青梅、南東に多摩丘陵と武蔵野台地の間を瀬と淵を繰り返しながら流れ下る。
左岸の武蔵野台地の河岸段丘はかつての多摩川が造ったものであり、段丘崖は下から立川崖線(府中崖線)、国分寺崖線と呼ばれ、
立川崖線の下を多摩川低地、両崖線の間を立川面、最上段を武蔵野面と呼ぶ。羽村市から玉川上水へと取水される羽村取水堰付近や国立市青柳付近での
多摩川は武蔵野台地の低位面に直接ぶつかって流れている。
多摩市の大栗川合流点から武蔵野貨物線鉄橋・南武線多摩川鉄橋の上流付近までは多摩丘陵に直接ぶつかる。
都調布市、神奈川県川崎市多摩区からは、都と神奈川県の都県境を流れ、両岸とも低地になる。
川崎市多摩区から都日野市にかけては多摩川が運んだ礫層が地表に近いため水はけが良く梨の栽培に向いていて特産品に。

    

「武蔵野台地」
崖線・多摩川中流域では「ハケ」あるいは「ママ」と呼んでいる。
下では至るところから湧水が湧き出し、湧水を集めているのが中流以降の左岸では最も大きい支流である「野川」。
JR中央線国分寺駅付近にあるいくつかの泉を源流としてほぼ国分寺崖線に沿って湧水を集めながら流れて行き、世田谷区玉川1丁目先で本流に
合流して、立川崖線下でも同様に湧水を集めた流れがある。
ここでの主役は、府中用水をはじめとするいくつかの用水路。



「玉川上水」
羽村取水堰直下の玉川上水最上流部の桜並木の向こう側に、多摩川が並行して流れ、上水は、立川(モノレール・玉川上水駅)五日市道・三鷹方面へ



次回も多摩川河川敷 狛江ー二子多摩川へ。

井の頭公園   多摩川散歩(33)

2016-03-11 | 気まま旅

桜の名所で、「井の頭公園と井の頭池」・「善福寺川と善福寺池」・「練馬の三宝寺池」を「武蔵野三大湧水」、古代から近世にかけて「武蔵国」
「見狭下国」牟邪志、むさし・胸刺・知々夫の三国に別れ、律令制下で武蔵国に統一されている。
国府と国分寺は、多麻郡(府中市・国分寺市)においている。
8世紀頃、熊谷市・川越市付近に大規模な条里制が敷かれ、荘園が成立後その管理者の中から「武蔵七党・坂東八平氏」の武士団が結成され
「源頼朝」のもとに結集して、武家社会の中心社会となる。
鎌倉時代に鎌倉道が開かれ、南北朝時代に「足利尊氏」・室町時代に「上杉氏の支配下で15世紀に太田道灌」が江戸城を築いた。
後北条氏が破れ、1603年「徳川家康」江戸幕府が開かれた。

「吉祥寺」武蔵野市の東半分をしめる住宅地域
茅場武蔵野台地で、明暦の大火(1657)本郷元町「吉祥寺」門前町が五日市街道沿いに移住して、吉祥寺新田を開いた。
屋敷・耕地は、短冊状に地割りし均等に分配された。都内で人気の町。

                 駅ビル前の広場


「吉祥寺通り」
練馬区関町南の関町 交番前交差点から武蔵野市吉祥寺南町の吉祥寺駅前交差点を経由し、世田谷区給田 の給田交差点まで至る道路の通称である。

     焼き鳥で有名な「いせや総本店」・和牛すき焼きも人気。
    

「井の頭公園」は吉祥寺駅の南西に約400mにある。都立恩賜公園
湧水・神田上水の水源・井の頭池で江戸時代には「弁財天」の信仰を集め賑わったと云う。明治維新後、皇室の御料地となる。
大正2年、東京市に下賜され公園として開園している。

                   都立井の頭恩賜公園
    

      野口雨情歌碑・書斎が移築           桜の名所


             文化園には、北村西望の彫刻が


          隣接に、井の頭自然文化園・水生植物園が
    

「風の散歩道」
武蔵野市の市境を流れている玉川上水の南側歩道が、整備されて「風の散歩道」と呼ばれている。
三鷹駅~井の頭公園の人気の散歩道。
玉川上水は、江戸時代初期の1653年に、それまで神田上水の水を利用していた江戸の町も、発展し人が増えたため新しい上水が必要になったと云う。
今は、その上水も役目を終え水が流れなくなって、暗渠化されるのではとの危機もありましたが、両岸を覆う豊かな自然の価値が認められ一部残された、
散歩道沿いには山本有三記念館や太宰治の「玉鹿石」や作品の一説が刻まれた説明板が。

                  玉川上水と満助橋
  

「山本有三」1887-1974 栃木県栃木市生まれ
22歳で一高帝大で独文科卒業、劇作家、生命の冠などで地歩を固め、小説 波・女の一生・路傍の石などー昭和40年文化勲章受章

「山本有三記念館」
大正末期本格的洋館建築ー石を積み上げたような煙突や、3つの暖炉がある。三鷹市の文化財に指定(公園内は無料・入館¥300)

                 昭和11年~21年まで住んだ
    

                「ミタカ少国民文庫」を開いた
  

戦後、進駐軍の接収され転居している。

            三鷹は、私にとって忘れがたい土地、、、。と語っている。
  

次回は、調布方面へ。