syuの日記・気まま旅

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三鷹ハケ  多摩川散歩(32)

2016-03-09 | 気まま旅

武蔵野には、「ハケ・はけは、崖」崖が多い。台地は、崖沿いに「湧水」に恵まれ、その為、古くから水田が開けた。
昭和25年「大岡昇平」ハケを舞台の小説「武蔵野夫人」があるが、昇平は、富永次郎宅に身を寄せ、武蔵野台地の地図を片手に散策し、
作品の構想を練って、第一章「ハケの人々」になったと云う。
武蔵野台地は多摩丘陵ー沖積層ー多摩川(低地)ー府中崖線(国立・府中・調布は東京層群、立川ローム層、立川礫層)ー武蔵野面・国分寺崖線、ハケ。
に、中央線・国分寺・三鷹・武蔵野市(武蔵野礫・ロームが武蔵野、立川が重なっている)。
縄文時代中期(4~5千年前)は、常緑広葉樹林でうっそうとした森林で
「武蔵野は、月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ(万葉集)」
「紫生うと聞く野も 蘆萩のみ 高く生ひて 馬に乗りて 弓持たるすえ 見ぬまで(更級日記)」

中世では、焼畑で二次林、クヌギ・欅・赤松等。「国木田独歩の武蔵野」は、昔の武蔵野は、萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしていたや
うに言ひ伝へてあるが今の武蔵野は林である、、、」と書いている。

「ハケの小路」滄浪泉園、福沢諭吉弟子・時事日報記者・三井銀行理事波多野承五郎氏(1858-1929)の別荘の庭園にある小路で、
犬養毅(1855-1932)岡山、5.15事件で暗殺された政治家・1929年総裁・満州事変阻止で軍部右翼に反感・暗殺。犬養は、滄浪泉園でよく遊んだと云う
「ハケの小路」の名付けたと云う。滄浪泉園は、JR武蔵境から。 

    三鷹                 玉川上水
    

三鷹市は、都の中央部将軍の「鷹場・御鷹場村」と称したことに由来、」もと神奈川県北多摩郡三鷹村・明治26年東京府に。
1657年の明暦の大火後、神田連雀町(千代田区)の住民が移住し、開墾上・下連雀など新田開発が。
鉄道も、1930年中央本線開設している。その3年後、京王線も開通し宅地化されていった。
新撰組組長「近藤勇の墓」は、竜源寺。

              三鷹市指定文化財ー石造庚申供養塔
    

童謡「赤とんぼ」の作詞で知られ、今年で生誕120年を迎える詩人、「三木露風」が暮らした牟礼。

                 歌詩と少女の像が(三鷹中央通り)
    

「国木田独歩」-1887・千葉県銚子ー1908ー36歳没、小説家。
「武蔵野、1898年・忘れえぬ人々・牛肉と馬鈴薯・春の鳥・竹の木戸、1908年」-処女作 愛弟通信、1894年。

幼名を亀吉、のちに哲夫と改名しいる。
独歩は、、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。
詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされ、また現在も続いている雑誌・婦人画報の創刊者である。
編集者としての手腕も評価されて、夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。
ロシア語などへの翻訳がある。
                三鷹駅北口に国木田独歩の碑が


「三鷹構内無人転覆事故」
1949年昭和24年、国鉄時代の三鷹駅構内で、車庫から無人の電車が突然、暴走を始め、7両編成の電車は脱線し、民家や交番に衝突して転覆。
利用客や市民がはねられ、死者6人、負傷者20人の惨事となった。
当時、国鉄では大規模な人員整理が進められており、これに反対していた国鉄労働組合の組合員10人が電車転覆致死罪で逮捕・起訴されている。

「禅林寺」-黄檗宗の寺・真宗松之坊。
1700年・賢州元養が開基。

  三鷹事件(駅構内での無人電車転覆事故の遭難供養碑がある)         本堂
    

「森鴎外」1862-1923 陸軍軍医・小説家 舞姫・うたかたの記・文づかい・阿部一族・山椒大夫・高瀬舟他。
「太宰治」1909-48 青森県出身 井伏鱒二・檀一雄らと交流、日本浪漫派に参加・人間失格等。

            境内に作家森鴎外・太宰治の墓
    

「森鴎外の遺書」-余は少年の時より老死に至るまで一切の秘密なく交際したる友は賀古鶴所君なりこゝに死に臨んで賀古君の一筆をわづらはす
         死は一切を打ち切る重大事件なり奈何なる官憲威力と雖此に反抗するを得ずと信す余は石見の人森林太郎として死せんと欲す
         宮内省陸軍省皆縁故あれども生死分かるゝの瞬間にあらゆる外形的取扱ひを辞す森林太郎として死せんとす
         墓は森林太郎の外一字もほる可からず書は中村不折に委託し宮内省陸軍省の栄典は絶対に取りやめを請ふ手続きはそれぞれあるべし
         これ唯一の友人に云ひ残すものにして何人の容喙も許さずー大正11年7月6日・森林太郎 言、 賀古鶴所 書

                禅林寺境内「遺言碑」


「太宰 治」    1909ー 1948年、
本名、津島 修治・1936年の昭和11年、最初の作品集『晩年』を刊行。
昭和23年、「山崎富栄」と共に玉川上水で入水自殺を完遂させた。
主な作品ー走れメロス・津軽・お伽草紙・斜陽・人間失格。
その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。

「井心亭と百日紅」-(下連雀2-14-7)
案内板ー井心亭は、文化施設・ 近くの太宰治旧宅の「玄関の前の百日紅」が庭に移植されて元気である。
    

昭和14年、31歳、太宰治は、妻の美智子と共に甲府から三鷹村下連雀移り住んでいる。
心中をした昭和23年、まで住んだ最後の家。
玉川上水に沿って歩き入水場所を探したが見つける事が出来なかった。

現在の玉川上水では、入水自殺は、、。 三鷹井心亭ー和風のたたずまい文化施設
    

「玉川上水開削新田開発」
江戸時代、江戸の上水道として1654年 玉川上水・1655年 野火止用水・1696年 千川上水等が開削され、享保年間の1716-36年に「武蔵新田」
82か村が開発された。ロームのうえの黒ボク土は、酸性で活性アルミニウムが多い為、作物栽培には、リン酸分や腐植が欠乏し、畑地と林地を配置させ
開拓者は、意識的に木を育ててきたと云う。その木材や炭などを江戸へ供給、又、萌芽更新(切株からの新しい芽)から林にした。
玉川上水は、羽村市多摩川の「羽村の堰」から福生市・昭島市・立川市・国立市・府中市・三鷹市へ。
羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配されていた。
水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43kmは、すべて露天掘りであった。
羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれているのには驚きである。

羽村の堰ー羽村大橋ー福生加美上水公園ー拝島ー西武立川ー上水公園ー天王橋ー玉川上水(モノレール)
  

新堀用水ー大ケヤキ道公園ー国分寺ー小平中央公園ー一橋学園ーふれあい下水道館            
  

小金井橋ー鈴木遺跡資料館ーくぬぎ橋ー独歩橋ー境浄水場
  

           三鷹橋ー井の頭自然館ー岩崎橋ー牟礼橋
  

北口駅前は、下で隠れていた「玉川上水」が再び現れ、水辺公園として整備、「欅橋」の交叉点にでる。
橋は、昭和52年、建設、もともとは、安政年間の1854~1859年、架橋といわれ、昔、ここに大木の欅があったことから、その名が
つけられたといわれている。

次回も、三鷹から井の頭へ。

国分寺ー 多摩川散歩(31)

2016-03-07 | 気まま旅
東京都国分寺市・JR国分寺駅下車する。
武蔵野台地南西で、市名「武蔵国分寺」に由来。多摩川段丘武蔵野面と立川面に立地、段丘「国分寺崖線」と呼ばれる「崖・ハケ」が東西に。
ハケは、湧水の多い崖線で、先土器・縄文の遺跡の多い地域。
律令制下でこの多摩郡に「国分寺建立」は納得できる。
江戸時代は、新田開発が進み、豊かな農村地帯であったと云う。明治22年には「甲武鉄道・中央線」開通され、国分寺駅も開設されている。
1897年私鉄西武国分寺線が川越まで開通、北多摩の交通の要所となった。
現在は、文教と東京のベッドタウンで都市化が進んでいる。

「恋ヶ窪という地名が」-鎌倉に源頼朝の政権がたてられたころ、武蔵武士の戦いとロマンの道がで、一所懸命を賭けた斬り合いの合間に、
恋が芽生え、散るはかなさが伝承となって、今に残り、それは、文化の道、物流の道で、北条時代、武蔵野台地の中央部の開発を進め
そこここに興った武蔵武士を再編成して、遙かな地方へ分散させる道でもありました。
室町の戦乱は、武蔵野を戦場と化し、寺を焼き、耕地を荒らし、民衆を逃散させ、とことん疲弊させて新田義貞や足利尊氏、太田道灌、上杉謙信や北条早雲などが行き交い新たな政治の枠組みをつくり出す道でした。
そんなところに「恋ヶ窪宿」ができます。 武蔵国分寺のやや北方、「恋ヶ窪宿」で、東福寺境内に2代目「一葉松・恋ヶ窪伝説」の松がある。

    

「野川」ー延長 20.5km
国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し、南へ流れる。
西武国分寺線・JR中央本線と交差し、真姿の池湧水群からの湧き水を合わせ、東へ向きを変える。
小金井市に入り、武蔵野公園にさしかかるあたりから南東に流れ、西武多摩川線と交差し、野川公園に入る。
小金井市と調布市の間を何度も縫ってその後三鷹市を流れ、再び調布市に入る。
京王線と交差し、調布市と狛江市の境を何度も縫い、調布市入間町付近で支流の入間川を合わせる。
世田谷区に入り、神明の森みつ池からの湧水を合わせて、小田急小田原線をくぐり、東名高速道路と交差する。
世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・
東急大井町線二子玉川駅のホーム下をくぐった後、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する一級河川。

    

戦後の自由を履き違えた退廃的な男女交際とGHQや俘虜者に対する不安、一夫一婦性の是非を問う姦通罪の廃止などが扱われているのに、
太宰治が自殺したのが1948年、大岡昇平の「武蔵野夫人」が刊行されたのが1950年、石原慎太郎の「太陽の季節」は1955年である。
男女の自由な交際に係る時代の流れが読み取れるようにも思える。

                  国分寺は、恋の窪。


「恋ヶ窪伝説・姿見の池」
鎌倉時代、頼朝に仕えた秩父の庄司畠山重忠は、鎌倉街道の恋ヶ窪で遊女夙妻太夫と出会い、結ばれ、畠山重忠が平家追討の為西国へ旅立つ際に、
夙妻太夫は重忠の身を案じ、一緒に連れて行って欲しいと頼みますが、戦いに女性を連れて行くことはできない為、重忠は一人出征、
夙妻太夫は、重忠の身を案じ暮らし、太夫に気のある男が「重忠は討ち死した」とうそを告げると、太夫は悲しみに耽り姿見の池へ入水自殺してしまいます。その後、戻った畠山重忠死を知り「無量山・道成寺」を建立し、阿弥陀如来立像を安置。
太夫の死を哀れんだ村人が手厚く葬り墓印として植えた松が「一葉の松」。

八代将軍徳川吉宗は、1722年「亨保の改革」を。
荒れ地など開発する新田開発奨励を全国に出され、国分寺崖線上の武蔵野開発が始まったと云う。市内には、8つの新田が誕生し、2つの村が10の村に
新田開発は順調に軌道し、家並み、農耕地・道・神社・寺などを計画的に敗としたと云う。
屋敷の周りには、欅等の防風林が、新田村落の景観を形成させている。
    

「吉宗の享保の改革は」
紀州藩の時には一部に反対勢力もあったが、独裁で、あっという間に消し去られ、ほぼ完璧な体制を敷き、有無を言わせぬ政策運用が可能でしたが 
将軍家では従来の反対勢力が根強く残り、決して将軍の命令で足並み乱れず動くことは困難。
この独裁体制を敷ききれなかった弱点は後に米価を始めとする物価コントロールに商人たちが思うように従ってくれず、何度も苦渋を味あうことになる。
吉宗の享保の改革の最大のポイントは何かとすれば、それは年貢率の向上、経費節約もやっていますが、しょせんは予算規模 13万8000両からすると微々たる物。新田開発も目ぼしいところ、やりやすいところはそれまでにやり終わっており、またとりかかってもすぐに年貢につながるわけではないので
即効性のある収入増加にはつながりにくいものがあり、増税以外とるべき手段はありません。
年貢率は、吉宗が将軍になった頃には3割を下回るほどに低下していましたが、苦心惨憺、悪戦苦闘の末、吉宗晩年には3割8分9厘まで増加。
また、その頃には天領も新田開発の成果がようやくあらわれ463万石まで増加したと云う。
吉宗就任時には空だった江戸城御金蔵にも100万両以上を残して世を去っている。
ただし、農民にしてみれば3割もの増税となり、吉宗晩年には百姓一揆が頻発し、名君とされる吉宗の影の部分として残っている。

    

「真姿の池・湧水群」都指定名勝・全国名水百選
848年、絶世の美人「玉造小町」が重い病気に苦しみ、国分寺の薬師如来に祈ると、、、、、、一人の童子が、、、。
童子は、池の水で身を清めるように云います。小町は、身体を洗い清めると、たちまち病が完治し元の姿に戻ったと云う伝承から
「真姿の池」と呼ばれた。この湧水は、野川の源流で多摩川へ。

    

「お鷹の道」
江戸時代に市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていた。
崖線下の湧水が集 まり野川にそそぐ清流沿いの小径を「お鷹の道」と名づけ、現在約350mを遊歩道として整備 されている。
四季折々の散策路として人気があり、春から初夏にかけて沿道に見られる花も人気の一つに。
沿道沿いの街並みが、国分寺を代表する名所として親しまれている。

    

「国分寺市文化財資料館」
武蔵国分寺を営繕施設「修理院」の鍛冶工房跡が出土、中学校内から「瓦・土器・鉄製品、、」出土。
展示している。
館内には、映像放映でいろいろ紹介もしている。

                   入館無料
    

武蔵国分寺は、全国でも規模が大きい。
歴史的にも重要な所であったと云う、大正11年に国史跡指定され、史跡名称「武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡」面積約146.200m2と広い。
今でも、豊かな自然環境を残す場として、保存・整備・研究活用に。

  天平13年の741年、大地震災害・干害・疫病・・・聖武天皇は、仏教の力で国を安定に。
    

発掘出土展示では、男瓦(寺)朱墨書・墨書土器・幡の金銅製飾金具・鉄製農耕具・鬼瓦・軒先瓦・郡名、人名文字瓦・硬玉製大珠(縄文)
観世音菩薩立像・徳川将軍家寺領朱印状など。

    武蔵国・国府(府中)に近く、武蔵路・湧水・崖線に「国分寺・尼寺」が置かれた。
    

大和・奈良時代
朝廷中心に歴史が動いた時代。
大和時代は、奈良盆地・三輪山の神を祭り、大王・天皇が亡くなると古墳を神聖視する神権政治を行っていた。
それが、地方の首長その間に主従関係を広めている。6世紀に入り「大和朝廷」は全国支配が確立している。
7世紀に「聖徳太子」のもとー中央集権ーがすすめられ、「律令制定」へとつながっていく。

「聖武天皇」  701-756 仏教政治を初めて行った天皇である。
45代天皇。文武天皇の皇子・仏教を保護し、南都六宗の学問を助成した。「天平文化」が花開いた。天皇は、国々に「国分寺」創り、中央に
東大寺を置こうとし、仏の力で国を守ってもらうため、「大仏」を造らせた。
鋳物の技術を用いて仏師の技の粋を集めた。聖武天皇の皇子が早く亡くなり聖武系の皇統は途絶えている。

孝謙・称徳天皇 718-770 聖武天皇の皇女・皇位につく
妖僧「弓削道鏡」を引き立てたことで知られている。「藤原仲麻呂を除き」道鏡一派による思いのままの仏教保護がなされた。

                    広大な武蔵国分寺跡


「国分寺」-真言宗・山号ー医王山最勝院・
1716年頃建立・本堂北西に薬師堂がある。「重文」ー薬師如来坐像が安置(10月10日開帳)

   楼門                史跡公園に。       正面に本堂
    

多喜窪遺跡出土「重文」勝坂式土器群が

   万葉植物園(市重要天然記念物)前住職が万葉集に歌われた約160種が境内に。
    

                国分寺市文化財保存館へ


「武蔵国分寺」僧寺金堂・七重塔等は、鎌倉時代末「分倍河原の戦い」で焼失している。
幕府軍は、小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣。
分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流。
2日間の休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始する。
だが、援軍を得て士気の高まっていた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。
新田軍は堀金(狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされ、この敗走の際、「武蔵国分寺」が焼失したといわれる。

新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を急襲、幕府軍は敗走し、関戸(多摩市)にて壊滅的打撃を被った。
北条泰家は、家臣の横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走している。
形勢が入れ替わった理由については、幕府軍が初日の勝利に奢って油断していたという説もあるが、足利尊氏による六波羅探題攻略の報が関東に到達しており幕府軍増援部隊の寝返りがあったのではないかという説もある。



                 武蔵国分寺跡(歴史公園)
  

                 武蔵国分寺跡(歴史公園)
    

「武蔵国分尼寺」(国史跡)
東山道武蔵路の西側に建立(JR武蔵野線が)
尼寺の伽藍規模と基礎工事の様子を見る事が出来る。

                掘立柱塀の一部復元
    

   尼坊の礎石復元・金堂跡の基壇が復元・基壇版築のはぎ取り標本の観察施設が。
    

「伝鎌倉街道」-市重要史跡ー
この道は、鎌倉道の上道で、群馬・長野・方面に向かう主要道路の一つ。

               国分寺崖線の切り通した道
    

「奈良の都・平城京」-710年、藤原京から遷都された「平城京」・南北約4.8km、東西約4.3km(外京含めると6.3km)。
唐の都長安を真似て条坊制が採用されている。中央を南北に「朱雀大路」右京・左京に分けられている。
天皇中心とする「律令国家体制を確立」するための都市。

次回は、三鷹市へ(羽村~の玉川上水)。

南武線谷保駅から国立 多摩川散歩(30)

2016-03-05 | 気まま旅

「JR南武線」立川駅ー川崎駅間は、 35.5km
多摩川とは距離は多少離れるが全線で並行し、右岸を走る南側では多摩丘陵東端に沿って多摩川の氾濫原を走る。
多摩川を渡った北側では立川崖線を登り、武蔵野台地上を走る。堤防は稲城市内の高架線や登戸駅付近で見える。
川崎市内では二ヶ領用水とも並行し、その本川および川崎堀とは中野島駅・宿河原駅・久地駅・武蔵小杉駅・平間駅の各駅付近で計5回交差。
大半が地下を通る貨物線(通称「武蔵野貨物線」 新鶴見信号場 - 梶ヶ谷貨物ターミナル駅 - 府中本町駅間)が南武線の南側の多少離れた所を通る。
立川駅では、中央本線や青梅線と接続しており、貨物列車や臨時列車の直通運転で頻繁に使われていたが、本数は激減。
南武線は、私鉄の「南武鉄道」により開業した路線。
上平間で代々名主を務める家の生まれで16代目当主、村会議員の「秋元喜四郎」が発起人総代となり、大正8年、鉄道院に
「多摩川砂利鉄道敷設免許申請書」を出願し、1915年、平間界隈の多摩川の堤防建設を、500名の村人全員が編笠をかぶって県庁に直訴した
「アミガサ事件」を先導した人物である。
申請は川崎駅を起点に橘樹郡の各村を経て東京府南多摩郡稲城村へ達するという蒸気鉄道の運営であり、多摩川の川原で採取した砂利を運搬するのが目的1920年、会社を設立し、社名を「南武鉄道株式会社」に。
終点を立川まで延長、府中町 - 国分寺町間の支線の敷設を追加で申請し、これらは単に砂利を運搬するだけでなく、多摩地域と川崎とを結ぶ
交通路線となることも目指したとも云う。
会社設立の際、資金集めに難航し、地元の発起人は次々と脱退し、後、浅野セメント・現在の太平洋セメントの「浅野総一郎」とその系列企業が
名乗りを上げ、浅野総一郎は既に青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めており、セメントの原料の石灰石を青梅鉄道から中央本線・山手線・東海道本線経由で工場のある川崎まで運んでいた。
川崎と立川を結ぶ南武鉄道を傘下にすればすべて自分の系列の路線で運搬することができ、輸送距離も大幅に短くなる。
両者の利害が一致し、南武鉄道は浅野系列となり、浅野総一郎の息子、「浅野泰治郎」が、1923年、南武鉄道の株5000株を入手し、筆頭株主に。
1944年の昭和19年国有化ー昭和62年民営化・貨物営業廃止ー現在に。

川崎ー尻手ー矢向ー鹿島田ー平間ー向河原ー武蔵小杉ー武蔵中原ー武蔵新城ー武蔵溝ノ口ー津田山ー久地ー宿河原ー登戸ー中野島ー稲田堤ー矢野口
稲城長沼ー南多摩ー府中本町ー分倍河原ー西府ー「谷保」-矢川ー西国立ー立川「27駅」。

               立川から3つ目の「谷保」で下車
  

JR南武線・谷保駅の駅名ー「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」。
    

「谷保・天満宮」国立市
主祭神ー菅原道真
社格等ー式内小社、府社 ・創建ー903年の延喜3年・例祭ー9月25日

              主な神事は、庭燎祭・うそ替え(11月3日)
    

東日本最古の天満宮で、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて「関東三大天神」。
江戸時代の著名な狂歌師の「大田蜀山人・南畝」が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、
ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝える。
明治41年、有栖川宮威仁親王の運転する「ダラック号」を先頭に、国産ガソリン自動車「タクリー号」3台など11台が隊列を組み、
日本初のドライブツアーであるとされる、甲州街道を立川までの遠乗会(当時の新聞では「自動車遠征隊」と呼ばれた)が行われた。
谷保天満宮の梅林で昼食会が催され、いまも記念碑が。



「天満宮略縁記・谷保天満宮蔵」903年の延喜3年、菅原道真が薨去したとき、子息の菅原道武は、
自ら像を刻み、廟を建てて祀ったのが谷保天満宮の創建だとされる。
延喜21年、に道武が薨去すると、道武も相殿に合祀されたとある。
    

主祭神ー菅原道真・配祀神ー菅原道武。配祀神は、石土毘古神・天之日鷲命・倉稲魂命。

「天満宮略縁記」によると菅原道武は道真の子息であるとしているのだが、道真の子息に道武というものは実在しないという。
    

神社は、多摩川の河岸段丘(立川崖線)に沿って造られ、甲州街道から石段を下って境内に入っていくという天満宮としては珍しい構造。
旧甲州街道は、天満宮の南側を通り本殿より下に位置していたが、多摩川の流路がたびたび変わり渡し場が変遷していった結果、江戸中期以降は、
ほぼ現在と同様に境内の北側に街道が敷かれたとある。
学問の神・菅原道真を祀っており、またその歴史の長さから受験生やその親達がこぞって訪れ、受験シーズンには境内に合格祈願の絵馬が多数掛けられ、混雑する。
甲州街道側にある梅園は梅の名所としても知られ、毎年3月には「梅まつり」が。
稲荷神社・蒼守稲荷神社・淡島神社・第六天社・厳島神社・(五社) 稲荷神社・妙義神社・日吉神社・熊野神社・天照皇大神宮等の末社

重要文化財ー木造扁額(額文「天満宮」)檜材の扁額で、鎌倉時代中期の1275年、作。
サイズは縦68.2cm、横50.0cm。裏面に「建治元年乙亥六月廿六日乙丑書之 正三位藤原朝臣経朝」の銘がある。
木造獅子狛犬針葉樹材の寄木造で鎌倉時代の作。阿吽一対で本殿に安置されていたが、現在は宝物館に収蔵されている。

    

「下谷保古墳・敷石住宅跡・横穴」など古墳の多い所である。
多摩川の河岸段丘 青柳段丘の南側の沖積地上に位置し、崖上の少し下流に国立市の谷保古墳群や府中市の西府古墳群、熊野神社古墳、高倉古墳群など、多摩川左岸の崖上の墓域の一つが、 平成13~14年の調査では、
「四軒在家遺跡」には大小10基の円墳が発掘調査されている。
墓から直刀、小刀、鉄鏃の他に釘が発見、釘は、古墳時代から江戸時代までほとんど形が変わらない。
7世紀前半の家長墓と見られる被葬者は木棺に納められ埋葬されたのだろうと云う。
各古墳はいずれも形ばかりの周溝が見られ、古墳から埴輪がまったく発見されない。
古墳の終焉期か、墓制の違う移住者の集団の墓域。
そのほかの副葬品には、勾玉、切り子玉(水晶)金環(耳環)など。石室や周溝から須恵器土師器(はじき)高杯(たかつき)甕(かめ)瓶(瓶)が出土している。
府中市の平安時代住居跡地の出土品に類似した、時代的に近い物品ではな以下と云う。
これだけの資料では被葬者の推定は難しい。
下流の狛江市は、高麗人の地域であり、府中市高倉(たかくら=高麗)古墳、高麗氏が、1541年、北條氏に追われるまで多摩川中流域に住んでいた。
川原石積横穴石室は、多摩川上流(平井川)瀬戸岡古墳群の石室に似たものを思わせる。
公園・住宅との共存で周溝が半月状に削られたりしていると云う時代か。

    

都水道局ー都の23区および多摩地域26市町を。
1,235km2 の区域、1,288 万人の都民に水道水を供給している。
都の保有する水源量は日量 630 万m3、浄水場の施設能力は日量 686 万m3、配水管の延長は 26,490km 。
谷保浄水所は、水道水の水質検査等が。

    

「多摩川・石田大橋」
平成19年、延伸部分と直結し、都道20号線との立体交差が完成。
橋の開通によって従来は直接行き来のできなかった
日野市と国立市、府中市が直接結ばれ、日野、八王子方面からの国立府中インターチェンジへの交通が改善した。
    

大橋の長さー385m・巾員ー22m。
付近には、中央自動車道、国立府中IC・多摩モノレール万願寺駅・万願寺渡船場・伊東単朴の墓等

「伊藤単朴」1680-1758 
江戸時代中期の戯作者ー延宝8年生まれ。江戸石町にすみ,のち武蔵青柳村で医業をいとなむ。
静観房好阿と交遊し,「教訓雑長持」「銭湯新話」などの談義本をあらわした。
79歳没。通称は半右衛門。別号に青柳散人,売炭翁,山洞。格言ー物は郷を離れて貴く,人は郷を離れて賤し(「教訓雑長持」より)

                 富士山が良く見えた
  

「国立市」
都の中央、武蔵野台地南西部の文教都市。
北・立川段丘ー南・青柳段丘ー南端に多摩川沿いの沖積地で、立川と国分寺の中間になる。
江戸時代、市の中央部を通る「甲州街道」、又農業集落の谷保村で形成された。大正13年「箱根土地会社」が3分1を占める山林地帯を学園都市にし
碁盤の目状に区画され放射状の広い道路が整備され、昭和27年一橋大学を中心に国立音大・都立5商高・国立高・富士見通り・旭通り・大学通りになっている。大正15年国立駅開設された。
現在は、田畑が住宅地に変わって発展を続けている。

           一橋大学通りの桜並木も知られている。
    

「一橋大学」
森有礼が1875年の明治8年、開いた商法講習所を源流とする日本で最も古い社会科学系の大学。
第二次世界大戦前には商学専門の官立大学(旧制東京商科大学)として開設されていた。
森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在し、英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動し
国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、
それらが学校設立の端緒となっていると云う。

    

「少人数教育の一橋」
現在・学部生1学年約950人程度で、ゼミナールも少人数教育における特色とし、特に必修のゼミナール制度が挙げられると云う。
教員一人に対して10人前後の学生という形態を守り、現在も10人前後でのゼミが行われていると云う。
ゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導を行っているのも特徴。
学生は、4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属し、課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多いと云う。

    

       「たまらん坂」坂下から国立駅へー旭通り商店街
    

次回は、国分寺方面へ。

百草園ー 多摩川散歩(29)

2016-03-02 | 気まま旅
「七草」
年初に雪の間から芽を出した草を摘む「若菜摘み」、古くから風習が、「七草」の原点。
六朝時代の中国の「荊楚歳時記」に「人日」(人を殺さない日)である旧暦1月7日に、「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた「羹」
(あつもの、とろみのある汁物)を食べて無病を祈る習慣が記載されており、「四季物語」には「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば
一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」とある。
このことから今日行われている七草粥の風習は、中国の「七種菜羹」が日本において日本文化・日本の植生と習合することで生まれたものと考えられ、
古くから七草を食す習慣が行われていた。
特に古代において「七草」の詳細については記録によって違いが大きい。
「延喜式」には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・ひえ・みの・胡麻・小豆の七種の穀物、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていたようだ。
この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。
餅がゆの由来については不明な点が多いが、
「小野宮年中行事」には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(宇多天皇宸記、寛平2年2月30日条)。この風習は、「土佐日記・枕草子」にも登場。
旧暦の正月(現在の1月~2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた。
現在の7種は、1362年頃に書かれた「河海抄」(四辻善成による「源氏物語」の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。
これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている。
江戸時代頃には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七種がゆを食べる儀礼を行っていた。

「秋の七草」-おみなえし(女郎花)・ おばな(尾花)・ ききょう(桔梗)・ なでしこ(撫子)・ ふじばかま(藤袴)・ くず(葛)・はぎ(萩)
覚え方ー「おすきなふくは」・「おきなはすくふ」・「ハスキーなクフ王」

「春の七草」-せり(セリ科)・ なずな(薺)(ぺんぺん草)・ ごぎょう(御形)・ はこべら(繁縷)・ ほとけのざ(仏の座)・ すずな(菘・蕪)
すずしろ(蘿蔔・大根)

[京王線]
ー京王八王子ー北野ー長沼ー平山城址公園ー南平ー高幡不動ー「百草園」ー聖跡桜ヶ丘ー中河原ー分倍河原ー府中・・・・新宿
高尾山口ー高尾/
           百草園駅(駅前通りは、川崎街道)


「川崎街道」
神奈川県川崎市川崎区から都稲城市を経て府中市に至る主要地方道。接続線国道1・15・246・132・409号線。
府中街道の起点を示す標識は、西行き車線では南河原架道橋へ下る坂の途中に、東行き車線では幸町交差点附近に建てられている。このほか、架道橋南側で西行きと東行きの車線が分離する地点に建つ柱にも「府中街道」の表示がある。

         高尾山ー八王子ー日野の「浅川」・この先で多摩川に合流。
    

「七生丘陵」
日野市の南側、多摩丘陵が。丘陵地を日野では、旧七生村にちなんで「七生丘陵」と呼んでいる。
七生丘陵は、京王百草園から平山城址公園までの散策路を、「七生丘陵散策コース」として設定。
百草園、多摩動物公園、多摩テック、そして高幡不動尊があり、また、住宅開発によって失われた部分もあるが、まだまだ多くの緑が残り、
里山の雰囲気を味わえるなだらかな道が続いている。

  街道から百草園入口の急坂は、厳しい。やっと登りきり見ると「本日休園」でした。
    

「丘陵」
なだらかな起伏や小山(丘)の続く地形、地形学では高度や起伏が山より小さく、台地より大きいものを指す。
およそ100万年前から30万年前に生じ、山地よりも小さな規模のもので、日本では概ね海抜300m以下程度のものをいうと云う。
日本国外では1,000m以下のものを指す場合もある。日本では、宮城県の松島丘陵、千葉県の房総丘陵、埼玉県の狭山丘陵などが知られている。
ここ、多摩丘陵は、土地利用の進んでいる丘陵地帯が数多く見られる。

                 百草園のある「七生丘陵」
  

「京王・百草園」
江戸時代の享保年間の1716 年~、小田原城主大久保候の室であった寿昌院慈岳元長尼が徳川家康の長男・信康追悼のため当地に「松連寺」を再建。
その後、時代を経て作られたのがー京王百草園。
園内の有名な「寿昌梅」は、寿昌院自ら植樹したと伝えられている。
梅の開花の季節には約50 種500 本の梅たちが咲くと云う。
豊かな自然を残す多摩丘陵。
園内の見晴台からは付近の自然が楽しめるほか、晴天であれば新宿新都心、東京スカイツリー、そして松連庵前広場からは筑波山も望めるとも云う。
                   入園料¥300
    

百草園近在に、鎌倉時代、関東御祈祷所「幻の真慈悲寺」が。
「吾妻鏡」-一部欠落・削除なども見られるが、その「吾妻鏡」に。
文治2年の1186年、 「真慈悲寺はご祈祷の霊場なのに荘園を寄進する者もなく荒れ果てている」、当時幕府のあった鎌倉まで足を運んだ「僧・有尋」
は、復興を願い出ている。
それから8年後の、1192年、には、後白河法皇の四十九日法要として、あの有名な「浅草寺」と並んで僧三名が送られたという記述がある。
鎌倉時代以前には「真慈悲寺」というご祈祷の霊場が・鎌倉時代になると、荒れ果てていた・有尋という僧がを幕府に願い出て、真慈悲寺を復興祈願
浅草「浅草寺」と同格な位置づけであったと云う。

「百草八幡宮」-祭神 誉田別命・ 気長足姫命・ 武内宿禰・ 源 義家ー
百草園に隣接する八幡神社創建の年代は不詳。
古くは古八幡宮と称され、社宝の石造狛犬に天平の文字がある古刹。
康平5年の1062年、源頼義が奥州征伐の折、この地をよぎられ再建されたといわれている。
1192年、「源頼朝」武運長久を祈願した太刀一振の奉納が。

    

銅造阿弥陀如来座像(国指定重要文化財)
神社奉安殿に安置されている。
鎌倉幕府の御祈祷寺で百草にあったと伝えれている真慈悲寺の僧慶祐の発願により、建長2年の1250年、に造られたもの。
真慈悲寺は廃寺になった後、八幡神社の本地仏として伝えられ、年に一度、祭礼の時に公開されると云う。

  

「小島善太郎」 1892-1984 洋画家
新宿、小島鎌太郎の六男。父親の事業の失敗から生活苦となり小学校を中退し丁稚奉公、御用聞きをして一家を支えている。
青年時代は兄が行方不明、妹のすぎが殺害され、翌年両親が相次いで没している。
極貧の中、不遇の時期を過ごし、 絵が得意で、偶然の出会いから陸軍大将の中村覚氏のの書生となる。
本格的に画家を志し、大久保の中村邸から、太平洋画会研究所に通いデッサンの勉強をし、仲間に中村彝もいた。
日本美術院、葵橋洋画研究所でも学び、安井曾太郎に師事。1918年、二科展に入選。
野村證券社長の野村徳七の支援によりフランスに留学して、ゲランに学び、16世紀ヴェネツィア派の古典絵画に惹かれる。
サロン-ドートンヌに入選。
1925年、帰国。里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三、木下孝則らと「1930年協会」を結成し、里見の離脱、前田、佐伯の死により発展的解消となり、
新しく独立美術協会を設立し、「独立展」を開催、画壇に新風を巻き起こしたと云う。
1932年、南多摩郡加住村に移り住み、多摩・武蔵野の風景画を多く描いた。
1971年、百草園にアトリエを構える。梅林、桃園、桜並木などを描く。
代表作に「林中小春日」「三多摩の秋景」「百草梅林春の団欒」「滝山城趾・多摩川を望む(滝山展望)」など多数。
八王子市内で子供たちに絵の指導を行い、小島善太郎を囲む会「愛善会」で地域との交流も深めた。

    

               小島善太郎記念館・庭園(有料)
    

「武相9番・百草観音札所」
武相観音霊場開始の頃は、松蓮寺にある千手観音が札所となっていた。
松蓮寺が廃寺になったことに伴い、地元の人々は、同寺の庵である祐照庵のあった現在の地に聖観音他諸仏を移し、新たな観音堂とする。
その後、地元の人々により護られてきています。
聖観音像は、並んで厨子に納められている金色の十一面観音像とは対照的に黒色で、いくつかの痛みがあるものの、精緻な宝冠がかぶせられていと云う。平安時代の作と考えられており、(日野市文化財指定)

    

                    百草観音堂境内
  

「湯殿川」 浅川の支流ー長さ8.9km
農業用水などに利用され由井村の発展に大きく貢献したが、蛇行し川幅も狭かったためたびたび洪水が発生し、現在、川幅を広げる改修工事が。
京王線、百草園ー聖跡桜ヶ丘駅・付近に「聖跡記念館」がある。

「旧多摩聖蹟記念館」
開館ー1930年・多摩市連光寺にある歴史的建造物・展示施設。
多摩市指定文化財及び東京都景観上重要な歴史的建造物。

                   丘陵を流れる湯殿川
    

次回は、立川駅・武蔵野線で多摩川へ。