syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

隅田川から向島へ

2018-05-20 | syu散歩
「太平洋戦争・アメリカ軍、東京空襲」は、
昭和17年の1942年4月のゲリラ的空襲に始まり、「B29爆撃機」による本格的な連続空襲が、昭和19年11月から翌年20年8月の敗戦日まで
「約130回」にわたり絶え間なく続いた戦争。
1945年3月10日の「東京大空襲」は、
現在の墨田区・江東区域を中心に未曾有の被害をもたらした。
深夜に始まった2時間余りの空襲で、「死者10万人以上、焼失家屋約27万戸、被災者100万人」という甚大な、広島・長崎の原爆に匹敵するという。
3.09~3.10東京大空襲・アメリカーB29、334機、本所・深川・浅草・・下町40km2焼失・死者8万4千人・罹災者150万人以上・焼失戸数
約23万大被害。
3.14の大坂空襲13戸焼失・・・都市爆撃が激化・・・4.01沖縄本土上陸・・・・・小磯内閣から総辞職、鈴木貫太郎海軍大将内閣に、
8.06原爆投下、8.09長崎原爆投下・・・8.15終戦・・闇社会に・・・。

台東浅草から「吾妻橋」を渡ると隅田公園駒形・隅田川は、秩父山地に源を発し石神井・神田川合流して隅田川・大川


隅田川には、道路橋26・鉄道橋(その他に水道橋が2・電路橋1)
道路橋の主なものは北から千住橋・白髭橋・言問橋・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋・両国橋・新大橋・清洲橋・永代橋・佃大橋・勝鬨橋を隅田川13橋
と云う。一番古い橋は千住大橋(1594年)・大正の関東大震災で大部分は焼失・落下した。
勝鬨橋は、戦前毎日1回、開いて船を通過させていた。
「渡し」上流(汐入)~下流(勝鬨)18か所あった。佃は、1964年まであった。
関東大震災で生き残った橋は、新大橋・尾竹橋・相生橋があるが途中で架け替えられている。

隅田公園・アサヒビール・墨田区役所ビル、。この付近が、空襲で水を求め、死者が多数出た吾妻橋 


「勝海舟」 1823-99 幕臣。江戸両国生まれ
咸臨丸艦長としてアメリカへ渡る。軍艦奉行並、奉行。神戸海軍操練所長を務める。罷免されるが後に復帰し、西郷隆盛などと話し合い
江戸開城と徳川家存続に尽力した。維新後、新政府に出仕したが、まもなく辞している。

                      勝海舟像

 
墨田区は、都の東、隅田川東岸の堤・墨堤と川で墨田区。荒川、利根川等が運ぶ土砂によりる陸地化した河口のデルタ地帯。
本所・向島が合併、東京特別区で、地下水汲み上げによる地盤沈下地帯で区の南は、竪川・大横川・横十間川・北十間川の水路が走っている。

                      隅田公園


「水戸家下屋敷跡」
水戸徳川家がここ屋敷地を拝領したのが、1693年と云う。
地理的には、隅田川と北十間川の交差部で十間川を昔は源森川)で堀と船蔵の舟運に好都合の場所であったようだ。
屋敷跡も本所と向島の境・又、水戸藩は別荘として存在も。

                旧水戸藩下屋敷跡ー小梅邸


                      旧屋敷正門


                   区の公園として整備されている
            
                   緑多い憩いの公園内


「藤田東湖」 1806-55 思想家  安政地震で死。水戸藩士、儒学者。
藩主・斉昭ー郡奉行・御用人努める。藩政改革に尽くし「尊王攘夷」を唱え、全国の尊攘志士の指導者でもあった。
地震時、身を挺して母を守ったが、鴨居の下敷きで命を落としたと云う。

                  漢詩碑 「天地正大気」


                          散歩道


                      水戸の梅か                  


「牛島神社」 向島鎮座
                       祭神ー須佐之男命 撫牛                       


860年慈覚大師創建
                           社殿                     


言問橋の東詰・本所の総鎮守・牛の御前と呼ばれている。
                            狛犬


                         向島見番通り


「旧墨堤の道」
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間の1661~1673年、徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目、都立東白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。
江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。
以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。
道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿をけしてしまった、旧墨堤の名残りです。
春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。
現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっています。
(墨田区教育委員会から)
                           向島2丁目 


「佐多稲子」 1904-1998 小説家、長崎生まれ。
母結核で亡くなり小学校終了前上京し、神田キャラメル工場勤務、出世作「キャラメル工場から」・・上野「清凌亭」に勤めていた十代の頃、
客として現れた芥川を見て、女中仲間に「芥川龍之介だ」と言ったところ、その女中が芥川に「お客さんを知っている者がいる」と話し、個人的な知り合いかと勘違いした芥川が席に呼んだのがきっかけで、顔見知りとなったと云う。
芥川は佐多を「お稲さん」と呼んで贔屓にし、佐多は、意気な縞銘仙に黒襟姿で立ち働くきゃしゃな娘で、仲間うちからは、芥川は佐多に好意を持っているようだと見られていたと云う。
芥川が亡くなる4日前には芥川から連絡があって自殺者の心理を聞かれたという。
「壺井栄」-1929年、雑誌「戦旗」での執筆が縁で、同誌に仕事を持っていた壺井繁治と、その妻栄の夫妻と親交を持つようになる。
のちに栄は生活苦もあって雑誌社の懸賞に応募するようになっていくが、その折に彼女の作風を見た稲子は、その素質をプロレタリア文学ではなく娯楽小説、特に児童文学(童話)に向いたものであると気付き、栄に坪田譲治作品を読む事を勧めて童話や一般小説を執筆するように説いたと云う。
これによって壺井栄が執筆したのが、彼女の後の商業デビュー作となる「大根の葉」であり、以降、栄は稲子の予見した通り児童文学作家として活躍し、のちに映画化もされた「二十四の瞳」を執筆する。
                          旧居跡が


                          昔の向島


                          地図


「三囲神社」ー平安初期
             祭神ー宇迦御魂之命  弘法大師勧請と云われている。


「宇迦」とは、穀物。
                        昔の神社付近


江戸本町からみて東北の方角に位置し「三井家」の鬼門・三井の守護社と定めたと云う。

                 三越デパートのシンボル「ライオン像」が


南北朝時代社殿再建時に地中から「神像」が掘り出され、白狐がその神像を三度回って行ったことから「みめぐり」と呼んだと云う。
伏見稲荷大社が主祭神。 
                         社殿


伊賀上野城主 藤堂高睦
                          石造




「日比翁助」近代的百貨店創始者
    
           歌碑  石垣の 小石大石持合ひて 御代は ゆるがぬ松ヶ枝の色




次回も向島桜橋方面へ。

隅田川と水上バス付近

2018-05-18 | syu散歩
「助六・歌舞伎」
侠客の助六は、「曾我五郎」で、白酒売りは「兄 曾我十郎」という設定が、「助六」のモデル三人いると云う。
江戸浅草の米問屋あるいは魚問屋の大店に大捌助六と戸澤助六・京・大坂でその男気をもって名を馳せた助六という侠客説、
又は、江戸・蔵前の札差で、粋で気前のいい文化人として知られた大口屋暁雨説。

「大口屋暁雨」
明治30年、 五月東京歌舞伎座初演の侠客春雨傘より、九代目「市川團十郎」の大口屋暁雨。
京坂の助六はというと、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが、総角という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、
大坂の千日寺で心中したのが延宝年間のことであるという。
異説も多く、助六は侠客ではなく大坂の大店・萬屋の若旦那だったとする説、総角は、大坂・新町の太夫だったとする説、
また、事件も心中などではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説など、さまざま。
大口屋暁雨は、実在が確認できる人物で、寛延から宝暦年間に江戸の芝居町や吉原で豪遊して粋を競った18人の通人、いわゆる「十八大通」の一人に数えられている。
暁雨は、俳名で、実の名を治兵衛といい、俳諧や書画骨董に通じた文化人で、たいそう気前も良かった。
特に二代目團十郎の贔屓筋だったことから、彼の務める舞台ならどんなに客入りの悪い興行でも木戸札を買い上げてくれた。
そうしたことから二人は親交を深めるようになり、江戸では次第に「團十郎の助六は大口屋を真似たもの」という噂が広まる。
暁雨の方も助六そっくりの出で立ちで吉原に出入りし、「今様助六」などと呼ばれ、どちらがどちらを先に真似たのかは不明だが、いずれにしてもこの頃から助六の鉢巻が大口屋の好んだ江戸紫に染め直されたという。
暁雨は、明治になると彼自身が歌舞伎の題材にされ、福地桜痴作の「侠客春雨傘」がそれで、
主人公は「元は札差の大口屋の若旦那で治兵衛といったが、今ではその名もとどろく侠客・暁雨」という設定され、出端の唄ー「助六が花道から出る時の伴奏音楽を出端の唄」という。

                     言問橋付近の地図


神田川に架かる「浅草橋」は、日本橋から奥州・日光・水戸へ向かう街道筋。
幕府は、1636年橋の南に「見附門」を設置している。明治に廃止、現在の橋は昭和4年。

                 「水上バス」乗り場は、言問橋と吾妻橋にある。


「東武電鉄」は、明治29年、創業。31年、英国ベイヤーピーコック社製機関車12両注文の内、最初の2両(C型タンク機関車)が到着
明治32年、北千住~久喜間営業開始・・・・。
大きく飛躍、現在は、本社、墨田区押上に所在。
東京都・埼玉県・千葉県・栃木県・群馬県の1都4県に、総営業キロ数463.3kmに及ぶ鉄道路線を有する大手。
営業キロ数は、2010年現在JRをのぞく日本の鉄道では近畿日本鉄道(508.1km、第三種鉄道事業区間を含めると582.2km)に次いで第2位、関東地方では最長に。路線は、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・日光線や野田線(東武アーバンパークライン)を軸とし、「本線」と、東上本線・越生線からなる「東上線」の2つの路線群に分けられる。

          東武線、浅草駅を出るとすぐ隅田川を渡る。正面に陸橋が








                       浅草水上バス乗船場


                         吾妻地蔵尊


                          供養塔


お酉さまと下町 昔の銭湯 今の銭湯

2018-05-16 | syu散歩
「隅田川・大川」
向島 白髭橋から大川を東京湾に下ってみよう。
桜橋・言問橋・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋・両国橋・新大橋・清洲橋・永代橋・佃橋・勝鬨橋・江戸の東側を流れる大川(隅田川)花火・花見・舟遊びと川上・川下と江戸のハゼ釣りと天ぷらでほろ酔いに・・・。
清洲橋からご案内。
日本橋川から首都高速が、日本橋蛎殻町には、安産の水天宮、新大橋通りの「新大橋」を潜ると浜町公園、ここには昔元吉原・玄冶店・芝居小屋の
中村座、市村座が、今でも残る、甘酒屋、人形店、今は、明治座が清洲橋通りのビルの中にある。
右を見れば桜の木が点在、あ、浜町河岸通りに芸者さんが歩いてる。
「両国橋」、ここは、吉良邸跡と回向院、両国駅、総武線ガードを潜ると国技館その奥に江戸博物館、旧安田庭園、復興記念館、左に浅草御蔵で、
前に見えるのが「蔵前橋」・右は横綱町、蔵前に架かる橋が「厩橋」、すぐにドジョウ料理の「駒形橋」右に見えてきたビルがアサヒビール左が松屋デパート、浅草寺の雷門、東武線浅草駅、水上バス駅・吾妻橋、東京大空襲時この橋で沢山亡くなっている。
東武線ガード下を潜ると「言問橋」、右に墨田区・隅田公園、牛島神社・左が花川戸、東大ー谷中ー下谷ー業平の言問通り。
X型の「桜橋」が、この辺が向島墨堤の花見と団子、桜かしわ饅頭、長命寺、弘福寺・右に待乳山聖天と今戸。
大きな橋が明治通りに架かる「白髭橋」、右に向島の百花園がある。
大川を漕ぎ出して、もう1時間以上。この先の水神大橋で下船としようか。

                          昔ながらの銭湯


                          今風の銭湯


「鷲 神社」 千束に鎮座。
                    祭神ー天日鷲命 開運の神、 


酉の市で親しまれ、年末熊手を求めて混雑する。地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」南約1300m。酉の市は、三ノ輪駅から並ぶ。

             元は、足立区の大鷲神社を隣の長国寺が勧請したと伝わる。


                         社殿


「樋口一葉」 1872-96 小説家  東京生まれ、24歳で没。
下谷池之端の私立青海学校高等科首席で卒業している。1886年歌人「中島歌子」弟子入りし和歌を学ぶ、和歌・書道・古典と学んだ。
父死後一家を支え、生活の為、同門「田辺花圃」に刺激を受け小説を書く、処女作「闇桜」「うもれ木」生活は苦しく本郷から下谷龍泉寺へ移りおもちゃの小店をひらいた。
そこで、「たけくらべ・にごりえ・十三夜」の秀作を発表した。

                      一葉の文学碑 (神社境内に)                          


                        玉梓の碑


千束通り 、 浅草3-10 浅草5-72・8 馬道通り、 浅草1-1 浅草6-47・ 土手通り、浅草5-70 日本堤2-39・ かっぱ橋本通り 、 東上野4-27 西浅草3-1・ 一葉桜・小松橋通り、 浅草4-31 浅草6-36・ 奥浅草寺町、 今戸2-39 橋場1-2・ 金美館通り、入谷1-18 千束2-25
入谷口通り、 上野7-1 下谷2-11・ 動物園通り、 上野2-14 池之端4-16 ・「花園通り」、 浅草4-27 千束4-1・ 地方橋通り 、東浅草・ 東浅草・

                        旧吉原 花園通り


            樋口一葉記念館、鷲神社は、竜泉寺と呼んでいた。


「池波正太郎」 1923ー1990 浅草生まれ、67歳没。
剣客商売、真田太平記など時代小説、長谷川伸の門下、新国劇脚本・歴史小説作家。
「鬼平犯科帳・剣客商売・仕掛人・藤枝梅安・真田太平記など、
戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名であった。

                   正太郎と浅草


                   正太郎、生誕の地


「待乳山聖天」山号ー待乳山本龍院、浅草寺の子院。

                  地下鉄浅草駅から北・浅草寺の裏手


開基は古く推古天皇(592-628)と伝わる。推古天皇は、我が国の最初の女帝、33代天皇で聖徳太子仏教興隆に努めた。晩年に馬子と対立。

                   聖観音宗の寺  境内 舞殿


                夫婦和合「歓喜天」災難除けに大根を供える。


                大根祭りで知られている   本堂


「今戸橋跡」
台東区の北東部・隅田川西岸で、現在靴・皮革加工の工場が多い。その南部は、隅田川に流れ込む「山谷堀」その川を挟んで、浅草・吉原遊郭に
通う舟で賑わったのが「今戸」とその「橋」-「今戸の渡し」と云った。

                    隅田川に一番近い橋


「山谷堀」

「今戸心中」-吉原娼妓との悲恋を描いた(広津柳浪)。
              江戸時代初期に掘られたと思われる


江戸名物に瓦、人形、土風呂などの「今戸焼」の生産でも知れている。(現在は、聞かない)

                       公園内


             山谷堀橋ー紙洗橋ー地方新橋ー地方橋ー日本堤、三ノ輪音無川へ


              ここ、聖天橋ー吉野橋ー正法寺橋ー山谷堀橋


                     渡し 墨田区向島ー吉原、?

浅草六区から倍賞千恵子と国際劇場 

2018-05-13 | syu散歩
「益田キートン」 1909-93  浅草国際劇場の裏手に住まい構えていた喜劇王。
トルストイを愛読し、小説家を志す一方、野球部に入り頭角を現し、三塁手として活躍し、北海中学校(旧制、現在の北海高等学校)に引き抜かれる。
卒業後、「函館太洋倶楽部」に入り、野球を続けるが、鈍足のため野球の道をあきらめ、昭和5年、小樽の五十嵐財閥経営の貿易会社に入社し、
同系列資本の札幌の「赤い風車レビュー団」を手伝っていたが、翌年解散したので、上京し、吉本興業(東京吉本)に入社し、
「花月劇場」でショーに出演する。
昭和11年、川田義雄、芝利英、坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成し、クラシック、ジャズから流行歌まで様々な替え歌やナンセンスギャグ、パロディなどで一世を風靡する。
芝利英(坊屋三郎の弟)とは中学の同級生。「あきれたぼういず」での益田の得意技はヨーデル・新興キネマ演芸部の引き抜きに応じ同社に移籍するが、結局新興との契約を破棄し、「あきれたぼういず」を脱退する。
第二次世界大戦中、木村恵吾監督の「歌う狸御殿」に出演し、キートンばりの演技を披露した。
「益田喜頓一座」を旗揚げするが大阪で連合国軍機の空襲にあい解散、戦後、昭和21年、坊屋三郎、山茶花究と「あきれたぼういず」を再結成・
解散し、映画を中心に活躍する。
昭和32年、東宝演劇部に入り、ミュージカルにも積極的に出演し、マイ・フェア・レディ、のピカリング大佐役。
屋根の上のヴァイオリン弾き・1967年の初演以来907公演に司祭役で出演し、代表作に、平成2年、に、半世紀以上住んでいた台東区西浅草を離れ、
函館へ「永住帰郷」したと云う。
その後も舞台やテレビで活躍したものの、平成5年、大腸癌のため、函館の病院で死去。84歳没。浅草寺境内の「喜劇人の碑」にその名を残す。
日本三大喜劇王ーエノケン・ロッパ・キートン。

倍賞千恵子 さん。ーSKD入団。
幼少時は「のど自慢」荒らしとして知られ、みすず児童合唱団を経て、1957年、松竹音楽舞踊学校に入学。1960年、同校を首席で卒業し、松竹歌劇団(SKD)13期生として入団、若くして「逸材」と注目される[1]。同期に榊ひろみ(松竹女優)、加藤みどり(声優)らがいる。学校時代の実習出演を経て、同年、グランドレビュー「東京踊り」で初舞台を踏む。この年から、主席入団生にフィナーレの先頭を切って大階段を降りる栄誉が与えられ、バトンガールに扮した倍賞がその初代を勤めた。



明治4年、社寺領上知令を受けて明治政府に公収され、明治6年、「太政官布達第16号」「浅草公園」と命名。
明治16年、浅草寺西側の日除地(通称、浅草田圃)の一部を掘って池、(瓢箪池)とし、掘り出した土で西側と南側の池畔を築地して街区を造成、
浅草寺裏手の「奥山地区」から見せ物小屋等が移転し歓楽街を形成。
1884年の明治17年、公園地は東京府によって一区から六区までに区画され、歓楽街は、「浅草公園地第六区」となった。
昭和22年、「社寺等宗教団体の使用に供している地方公共団体有財産の処分に関すること」内務文部次官通牒に基づき、
同年に、公園地から解除されやがて浅草寺の所有に戻ったという。
一区から六区までの行政区画上の町名は、そのまま、昭和40年、住居表示制度が導入されるまで残されていた。
明治19年ー浅草公園が開園し、浅草公園の名よりも「浅草六区」の名が先行し栄えた。

        JR山手線の中央を浅草にして計画されたが、地元住民が反対。






浅草名物の一つ「女剣劇」
映画女優であった「大江美智子」に剣を握らせて、昭和7年に神戸の湊座に出演させたのが最初だと云われている。
続いて「不二洋子」が昭和9年に一座を結成し、更に「伏見澄子」がデビューして女剣戟の三羽烏と云われた。
その後に二代目の大江美智子が先代譲りの早変わりで人気を、第二次世界大戦前から戦中に掛けては
「中条喜代子」「玉水昌子」「筑波澄子」などの多くの女優が覇を競いました。



















「浅草名所七福神詣で」
浅草神社(恵比寿様)・浅草寺(大黒天)・待乳山聖天(恵比寿様)・今戸神社(福禄寿)・橋場不動院(寿老人)・吉原神社(弁財天)
鷲神社(恵比寿様)・矢先神社(布袋尊)
                        浅草神社(鳥居)


「新門辰五郎」 1800-75 徳川慶喜を助けた町火消、侠客 下谷生まれ。
江戸町火消「を組」頭取、娘さんの関係で慶喜の配下として働く、上洛時200名の子分を連れて随行している。
慶喜が大阪城内に金扇置忘れ、気が付いた時は軍艦で江戸に向かっている、辰五郎は、慶喜に届けている。また、慶喜謹慎時、御用金2万両を水戸まで
護送している。明治8年浅草自宅で没した。

                 狛犬  神社社殿裏手に「新門神社」がある。


                         社殿


「姥ケ池」跡
昔は、隅田川に通じた大池で、明治24年に埋め立てられた。
「姥ケの池の伝説」
浅草寺本堂に展示してある大きな絵馬の「一ツ家」にも描かれている。
浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいて、道行く旅人を家に泊めてはその頭を叩き殺していた。それを知った浅草観音は旅人に変身してその家に泊まり、老女は例によって旅人をしとめるが、なんと殺したのはわが娘であった。なげき苦しんだ老女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。
その池は、花川戸公園に近い。
                           公園


                          供養碑(園内)

あまちゃづる茶とクレソン鍋

2018-05-10 | 富士山麓日記
連休は都会の混雑を避け自然いっぱい山菜の採取に出かけました。
あまちゃづるが生い茂っているのです。湖にはクレソンがいっぱいです。

富士山はまだまだ雪を冠り美しい!

クレソンがたくさんです。豚肉とクレソンなべおいしい!



陣馬の滝 付近にアマチャヅルです。

アマチャヅルはなかなか見つかりません。でもここは密生しています。アマチャヅル茶がたくさんできます。