syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

正岡子規と鶯谷 入谷の交差点

2018-05-09 | syu散歩
「正岡子規」 1867-1902 夏目漱石の親友、俳人・歌人、伊予松山藩士の子、東京帝大文学。
坪内逍遥・幸田露伴等の作品に感動し、小説家を目指すが果たせず、俳句に興味し同志を集めた。
江戸時代末期俗化した俳句の革新に努める。
結核から脊髄カリエス併発晩年は床の中で過ごした。河東碧梧桐・高浜虚子など多くの門人がいる。
子規は、住まいの根岸から千住を散策で次のように書いている。
「笹の雪(豆腐料理の店)の横を野へ出づ。野はづれに小さき家の垣に山茶花の一つ、二つ赤う咲けり、窓の中に檜木笠をかけたるもゆかし。
空忽ち開く。・・・・見渡す限り眉墨程の山も無ければ、平地の眺めの広き、我国にてはこれ程の処外にはあらじと覚えゆ。
胸開き気伸ぶ。田は、半ば刈らずあり。刈りたるは皆田の緑に竹を組てそれにかけたり。・・・・。
「笹の雪」は、寛永寺坂下(今でも営業)の豆腐料理屋、江戸時代から吉原帰りに立ち寄る者が多かったと云う。
必ず二個の田楽が。これは、上野の和宮様が、あまり旨いのでお代わりをしたからと云う。
笹の雪の名も宮様だとか。根岸界隈、文人墨客、豪商達が好んで別荘として住んだと云う。

正岡子規は、台東区根岸に住み・夏目漱石は、文京区千駄木に住み・同じ東京帝大で二人は、文京区本郷に通った。
台東・文京の区境に不忍池に流れ込んでいた「藍染川」で仕切られた。
根岸は、入谷田圃・雀より多かった鶯・呉竹の根岸の里・・・。
1657年の明暦の大火後、寺院、武家屋敷の江戸城中心が、市街地へ移っていった。台東区は、浅草の浅草寺・上野の寛永寺の門前町が繁栄・発展した。

          好きな駅の一つ、JR山手線「鶯谷駅」 開業明治45年(今でも乗降客下位)


区名が、上野の台地の東側に位置する所から「台東区」に。上野台地は、「忍ケ丘」と呼ばれ、台地の下が「入谷田圃」隅田川の沖積低地で沼地が続いていた。その下町に、地場産業が発展し、稲荷町に神仏具・西浅草合羽橋に台所用品・蔵前に玩具、文具、人形・鳥越に傘と製造・問屋街が出来、商人
職人気質が今でも引き継がれている。戦後新たに、上野から御徒町一帯にかけ闇市からアメヤ横丁が。
戦前の浅草は、東京一の繁華街で、六区興行街に整備され、通称12階の凌雲鶴・オペラ・映画・軽演劇・遊園地・・で賑わったと云う。



「闇市」
終戦直後の日本では、兵役からの復員や外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、輸入が途絶えた状態で政府の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度は麻痺状態に陥っていた。
爆撃による交通網・流通網の損壊により農村部の抱える食料も流通が鈍化し、都市部に居住する人びとが欲する食料や物資は圧倒的に不足していた。
食料難は深刻を極め昭和20年の東京・「上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人」。
昭和22年、には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官「山口良忠」が餓死。
ほどんど全ての食料を統制物資とした食管制度のもとでは、配給以外に食料を入手することは即ち違法行為、が、一部の人間が、裏取引で手に入れ、
それを、街頭で叩き売って、大きな利益を上げていた。それが「闇市」である。

鶯谷駅のこの広場でも、バナナの叩売りで人盛りになった所である。

                       この坂を「闇坂」と云った。


JR上野駅は隣、上野台地はここまでで、入谷田圃へ出る。「忍ケ岡・藤堂高虎の屋敷があった」それで、伊賀上野(三重県)で上野と命名。
北の玄関口上野駅は、明治16年開業している。北に向かう鉄道は、田端駅から日暮里、鶯谷(新幹線は地下に)「上野駅」へ。

                      線路幅が広い


                   陸橋から見た日暮里方面


                     坂の間にあるトンネル


            「入谷交差点」昔、賑わった交差点。
三ノ輪ー水天宮間の都電・上野ー亀井戸ー今井のトロリーバスと都営バス・居酒屋鍵屋・入谷鬼子母神と朝顔市・中根岸の西蔵院不動院「お行の松」
(大正15年天然記念物指定、高さ13.6m・樹齢約350年、昭和3年枯死(安藤広重)・根岸芸者と柳通りの繁華街・龍泉寺とお酉様・・・・・。
現在は、静かな交差点に。
             車の往来激しい「言問通り」寛永寺坂ー浅草方面


                 入谷からも「東京ツリータワー」が。


「入谷鬼子母神」 鶯谷駅から西約200m
                       7月上旬の朝顔市が


                  下町の銭湯(ほとんどが同じ建物)


「昭和通り・国道一号線、4号線・日光街道」
                         首都高入谷入口


                       言問通り 朝顔市発祥の地(碑)


「下谷・真源寺」 日蓮宗の寺・山号ー仏立山
1659年「日融」創建と伝わる。
                  本尊ー鬼子母神  (恐れ入谷の鬼子母神・・・・)


                     子育て・安産の神


                    江戸時代朝顔の産地


                      浅草国際通り  (浅草ビューホテル以前は松竹国際劇場があった)


              現在の演芸場辺りが中心街で、(6区)映画館などが並んでいた。


「寛永寺」-上野桜木町、天台宗・山号 東叡山・1625年天海僧正開山・江戸城の鬼門(北東)・徳川家光が本坊建立、家綱根本中堂建立
4.5.8.10.11・13代将軍菩提寺・面積118万m2。
 
浅草寺へ。

大涌谷の湯けむりー箱根ゴールデンコース 強羅 桃源台 

2018-05-07 | 気まま旅
「箱根八里」
明治34年、中学唱歌に初出の唱歌・「鳥居忱・作詞、瀧廉太郎作曲」
題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。
東海道では大井川とともに難所として知られ、箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる。
李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り込まれるなど、漢籍にみられる故事や古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれていると云う。
歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で、王朝の死命を制する要衝として有名。
漢の劉邦と楚の項羽の攻防や孟嘗君の故事などで知られ、また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所でやはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事がある。いずれも箱根の関所のある山道の険しさを・・・。

箱根の山は、天下の嶮・ 函谷關も ものならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか・一夫關に当たるや、萬夫も開くなし・天下に旅する剛氣の武士・ 大刀腰に足駄がけ・八里の碞根踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士。
箱根の山は天下の岨・蜀の桟道數ならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか・一夫關にあたるや、萬夫も開くなし・山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)・ 猟銃肩に草鞋がけ
八里の碞根踏み破る・ かくこそあるなれ、当時のますらを。

箱根湯本ー塔の沢・大平台・宮ノ下・小涌谷・彫刻の森・強羅














強羅ー早雲山 ケーブルカー約10分


早雲山 標高1151m・強羅は、神奈川県箱根町県の南西部、早雲山は北部に麓に温泉地が、地名は岩石がゴロゴロしている所から。
箱根登山電車が湯本から強羅間の開通が1918年で新しい。箱根観光の中心になっている。公園・美術館・スケートリンク等がある。



箱根火山最高峰神山・駒ヶ岳・二子山は、第一期火山活動中に起きた断層が中心で火口丘形成された。
最後の大きな活動は、約3000年前の神山北斜面の水蒸気爆発で、その土石流が「早川」の上流を堰き止めて、「芦ノ湖」が誕生。
仙石原は、その砂粘土が堆積してできた。
現在の大涌谷や早雲山はその後、噴気活動している。











早雲山ー桃源台 ロープウエイ約20分芦ノ湖へ空中散歩



箱根七湯ー湯本・塔の沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯(早川渓谷の谷底に自然湧出)





大涌谷も箱根町の北部、硫気孔郡のある谷で、上部を閻魔台・下部を地獄沢と呼んでいたが、1873年、明治天皇行幸で「小地獄を小涌谷・大涌谷」
に改名している。中央火口丘が神山、高1438m・箱根ロープウエイの大涌谷駅前に自然館と観測所が併設している。















冠ヶ岳 標高1409m。


「姥子」下車


これで箱根の旅終わります。

北条5代の菩提寺 早雲寺 湯本

2018-05-04 | 気まま旅
箱根駅伝と国道一号線
国道1号線を走るのは横浜駅近辺の青木橋から戸塚中継所付近と「大礒から箱根方面」(往路・復路どちらも)。

箱根駅伝は、大正9年、マラソンの父「金栗四三」らが、世界に通用するランナー育成したい思いからと云う。
大正6、日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレー、東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となったと云う。
東海道駅伝の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたという。
第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われた。

                  箱根鉄道は、国道一号線に沿って。


「居神神社」
北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主「三浦荒次郎義意」が、永正15年の1518年、に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま
3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったという。
江戸期には、山角町・板橋村の鎮守社・明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したと云う。

                           鳥居


祭神ー三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命 ・境内社ー水神社、金刀比羅神社、八幡神社、摩利支神社 が。

                           社殿




「古碑群」最も古いもので、鎌倉時代末期のものと云う。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏乗の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたもの。
五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転。
形状等ー「古碑の種類 碑の高さ(cm)」
五輪塔線刻碑 三九,五・ 文保元年銘版碑 一三五,〇(文保元年(一三一七)二月二四日と刻まれる)・ 五輪塔線刻碑 五三,五
元享二年銘版碑 一二三,〇(元享二年(一三二二)一二月一四日と刻まれる)・ 五輪塔陽刻碑 四八,〇
(小田原市教育委員会掲示より)



「北条氏綱」 早雲の子 小田原北条二代目。
                    「勝って兜の緒を締めよ」の碑


「石垣山城・一夜城」
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる。
記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には
「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。

                小田原城天守閣と相模湾が望める。


「紹太寺」-入生田駅、黄檗宗の寺、山号長興山
小田原藩主稲葉正則が両親の為城下の旧山角町に建立。が安政年間の大火で焼失、1669年現在地に「稲葉一族や春日局の墓所になる」
天然記念物の樹齢320年枝垂れ桜が。

   箱根登山鉄道線「箱根湯本駅」小田原・板橋・風祭・入生田・箱根湯本の5駅


箱根湯本駅は、明治11年 - 軌道線・後の小田原市内線、が湯本へ乗り入れ。大正8年、 鉄道線湯本 - 強羅間開業に伴い箱根湯本駅が開業。
昭和10年、 鉄道線小田原駅乗り入れに伴い、用地転用のため軌道線停留所を廃止し、昭和25年、 小田急車両の乗り入れが開始。
昭和57年に、小田急の大型乗り入れ。



「早川」
早川水系は、源流域の芦ノ湖に注ぐ大涌谷ほか多くの沢と、芦ノ湖から流れる早川および須雲川などの支流から成る。
各支流は河床勾配が大変急、芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たしている。

               早川ー二級河川 延長ー20.65km・面積ー80.59㎡


                       箱根郷土資料館


「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都伊勢氏説が有力と云う。
名は、長氏、新九郎・駿河国今川氏から「興国寺城・下田に近い」を貰い、伊豆国に乱入、堀越公方の子茶々丸殺害し、一国平定した。
後に「大森氏・小田原城」を奪い・三浦氏・新井城を滅ぼし「相模国」併合する。
大森氏攻撃は、贈り物をして城主「大森藤頼」の信用を得てから、早雲は、「伊豆国で鹿狩りをしたら、鹿が皆そちらへ逃げてしまったので、鹿を駆り
たてる「勢子」を入れたい」と頼み込んで「勢子」を小田原に送り、その勢子は、変装した兵であったと云う。
北条軍は、夜襲で知られているが、早雲の時代からであった。

                   農民への租税は「四公六民」の善政


「早雲寺」
早雲・遺命により北条家2代の北条氏綱が大永元年の1521年、箱根湯本に創建した北条家歴代の菩提所。

                          臨済宗大徳寺派の古刹。


「北条氏綱」 1486-1541 小田原北条二代目 北条五代の基礎を築いた。
鎌倉幕府の執権北条氏にちなみ改姓・扇谷上杉「朝興」を破り武蔵国を制圧。今川氏・里見氏を圧迫して領土拡張する。
下総国国府台で、足利義明を討つ。古河公方「足利晴氏」に娘を嫁がせる・鎌倉八幡宮再建。
諸国から商人が集まり大変な賑わいだったと云う。小田原名産「外郎・薬」発祥、広めた。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。

「北条氏康」 1515-1571 三代目・北条家発展に導いた名将。
山内上杉氏武蔵国河越破り、古河公方を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄、上杉謙信と抗争と同盟を繰り返す。税制改革・地検推進
北条重臣「北条綱成」の守る河越城が、囲まれ、氏康兵8千を率いて何度も援軍に向かうが、その都度わざわざ退却する。が、
敵が安心したゆるみを見て「夜襲」し連合軍を撃破し潰走させている。世に云う「河越の夜戦、日本夜戦の一つ」上杉氏は、頼りにならない武田信玄と同盟を結べ遺言し没している。

「北条氏政」 1538-90 四代目 下総国国府台で里見・太田連合軍を破る。北関東へ勢力拡大、上杉・武田同盟・断交繰り返す。
氏直に家督を譲るが実権を握る。父氏康は、氏政食事時「汁加減もわからぬようでは、北条家も終わりだ」と落涙した云う。山積みの麦を見て「すぐに
麦飯を作れ」と家臣に命じた、これを信玄が聞き「麦はこき、こなし、ほし、つきて食にするもの、すぐには食えん」と世間知らずを笑ったと云う。
氏政の首は、一条戻橋に晒された。

「北条氏直」 1562-91 五代目 幕引き
本能寺の変後、上野国にいた信長の重臣「滝川一益」を撃破し、信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡を占領する。甲斐国で家康と争うが講和し、娘「督姫」を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏した。高野山追放・後1万石で大阪に住むが30歳で没している。
妻と別れ際、早雲が武運祈った「勝栗」の半分渡し「一族で、世に出るものあれば渡してくれ」と頼んだと云う。

                           老木が


                            本堂


                          清閑な境内


                        早雲の墓石 5代の墓 


「今大路道三幻鑑之墓」 徳川二代将軍秀忠公侍医
                          寛永3年50歳で没


「北条幻庵」 1493-1589 北条早雲の三男・北条5代に仕えた一族の長老・幼少で僧籍、三井寺で修行
北条軍の一将で国府台の戦い・平井城攻めに参加している。また歌会を開く文化人でもあったと云う。作庭にも秀でていた。
97歳で没した。娘が嫁ぐ際、彼女に渡した「礼式心得・北条幻庵覚書」は、一級史料。

                       幻庵の庭園




                         惣門

                        早雲寺鐘楼


「弥坂湯」で知られた坂。
地元の湯場、2~3人がせいぜいの小さな温泉共同浴場。
箱根の旧東海道沿い、地元住民中心に愛されている。
弘法の湯と程近い。 中は木造作りで狭く、いかにも共同浴場の雰囲気で、浴槽は、共同湯らしく内湯のみ。
泉質は単純温泉で消毒のみ行っている模様。源泉温度は48.7度と高いがそんなに熱くないと云う。
場所が箱根中心街と離れていることもあり観光客があまり来ないので、ゆっくり入浴可能。



次回は、登山電車で強羅方面へ。

難攻不落と誇った 小田原城跡

2018-05-01 | 気まま旅
神奈川県小田原市・県南西に位置し地名は中世以来ー原野を小田に開墾しと事に由来する。
小田原・足柄・大窪・早川・酒匂川等の一部と合併し市制(昭和15年)。
「土肥一族・小早川氏、早川荘」の中核として開かれた。後、大森氏から北条早雲が奪取し後北条は、関八州(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸
上野・下野・・)を支配する北条城下町として繁栄した。
「豊臣秀吉」天下取りで小田原攻めで落城、後江戸時代には、「大久保氏」らが城主として小田原藩を治めた。
江戸を守る重要拠点で、特に「箱根」を結ぶ東海道の宿場町として再興し発展した。
明治に入ると一時衰退したが昭和9年「丹那トンネル開通」で、商業中心地として再生した。現在でも、梅栽培・相模湾水産費源蒲鉾・森林費源・観光
温泉街・風光明媚で温暖で「伊藤博文・山県有朋・北原白秋・谷崎潤一郎」等が居住。

                 私鉄小田急線「小田原駅」改札側


                 北条5代祭ー5月3日~5日 武者行列が 


                   城山公園下の三の丸付近


「小田原城跡・公園」
JR小田原駅南口・西口・箱根外輪山山麓の台地上にある。
土肥一族の小早川氏による築城が起源と云う。のち大森氏から後北条氏5代と江戸時代大久保氏の居城として幕末を迎えた。
北条氏末期に、城下を堀・土塁で囲まれ総延長「10km」に及ぶと云う大外郭(総構)が築かれている。

                   難攻不落を誇った城跡


    JRの鉄道が二分・天守閣は公園寄りであるが、元は反対の山城にあったと云う。


                      明治3年廃城


「土肥実平」 生没不詳 1100年頃 源頼朝信頼大の武将、相模国中村荘司の子、弟ー土屋宗遠・子ー小早川遠平と共に、頼朝と共にしている。
平家滅亡後は、備前・備中・備後の守護・義経後、京都警衛。
石橋山の戦いに敗れ、頼朝と行動を共にしている。一説では、頼朝と実平で真鶴岬から海路千葉の安房脱出に成功し、北条政子に伝えたのは子の遠平と云う。実平の子遠平から「小早川氏」で、安芸に移住し、戦国大名になっている。

                       駅西口の城山


「大森氏」は、台頭するのは、室町時代初期の「大森頼春」の代、鎌倉公方に仕え、上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げ、禅秀方であった土肥氏を滅ぼし、その勢力圏であった相模・伊豆に勢力を広げている。
「永享の乱」では持氏方に属して幕府軍と戦い敗れるも、国人領主として勢力を保った。
「享徳の乱」以降の混乱期においては、大森憲頼・成頼と大森氏頼・実頼父子の二系統に分かれ対立、太田道真・道灌の支援を受けた氏頼系が勝利し
憲頼系は箱根山中に逃亡し、氏頼系は扇谷上杉家に属し重臣となって、小田原城を拠点として勢力を広げ繁栄した。
その後、氏頼の子で実頼の弟の大森藤頼の代に「伊勢盛時」の手により小田原城を落とされ没落したといわれるが、史料の上ではつじつまの合わない部分も多く、その経緯の詳細については不明。
三浦氏滅亡の際にともに討ち死にした人物に「大森越後守」があり、氏頼の弟の高頼とされている。
「長享の乱」以降の「扇谷上杉家」の衰退と相模における後北条氏の台頭に従い、大森氏が没落していったことには間違いないが、北条家所領役帳には「大森殿」と殿付きで呼ばれている人物があり、大森氏の一族が客分扱いで後北条氏に従属していたと考えられている。
またこの「大森殿」以外にも 永禄10年に「北条氏邦」から印判状を与えられた「大森越前守」、駿河日枝社神主「大森猿千代」、天正13年に、徳川家康の援軍として「北条氏房」から派遣された「大森兵衛太夫」、「小田原合戦」で小田原城に籠城した「大森甲斐守」が存在する。
江戸時代に入っても徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続した者の他、水戸、備中など各地で大森氏子孫を名乗る家が存在したと云う。

                        公園内の天守


                    小田原のシンボル「小田原城」


                    1960年昭和35年 天守閣復原


                     1971年 常盤木門復原


後北條五代は、菩提寺「早雲寺」で。













難攻不落を誇る城、酒匂川・足柄山と箱根外輪山・早川・相模湾と四方囲まれ、深い堀、土塁で囲まれた「小田原城」。
両軍戦っていとら、豊臣軍が攻めきれたか疑問である。
次回は、北条5代のねむる箱根湯本「早雲寺」へ。



「報徳二宮神社」
天守閣の南西に鎮座。
「二宮尊徳」の偉業をしのび1893年明治26年建立された。

                    境内には、尊徳の像・報徳博物館などがある。


                            尊徳像


                             社殿


「筋違橋町」
橋の名が町名に、橋は、見当たらない。
町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠が11軒ほどあった。

                東海道一号線・旧東海道筋、昔ながらの町名、風情の店が。


                            山角町


                            組長屋


箱根湯本方面へ