2010年12月NHKテレビ・ヒューマンドキュメント「風の画家いのちを描く」を見て、2005年から2010年までの5年間をかけて完成させた京都・清水寺成就院奉納襖絵を鑑賞したいと強く思った。完成の年の4月24日から5月9日に初公開され、好評であったので8月に第二回目の公開があった。知ったのが遅かったということで、“いつかは”と公開される日を待っていた。NHKサービスセンターと毎日新聞主催で2月1日から14日まで大阪高島屋で襖絵46面と画家人生41年にわたる代表作を合わせて約100点を展示し、中島潔さんの優しく切ない独自の世界を紹介するという新聞広告を見た時は思わず「やったね!」と叫んだ。さらに、朝日メイトの会員は無料というから言うことなしである。
北新地から難波までは御堂筋を歩いた。高島屋の7階に上がり会場に向かっていると前方がすごい人だかり、こんなに来ているのかと驚いたが、バレンタインデーに向けてのチョコレート特設売場とわかり納得。雛人形のコーナーもあり季節感を味わう。展覧会会場はその奥にあった。
ここはここで人でいっぱい。「平日なのに」という言葉はもう出なくなった。むしろ「平日だから混んでいる」というのが昨今の納得のしかた。
中島潔さんは、1943年中国東北部(旧満州)に生まれる。翌年両親の生まれ故郷の佐賀に戻る。18歳で母を亡くし、すぐに再婚した父親へ反抗し一人で故郷を出る。伊豆下田の金鉱で温泉掘りをして働きながら絵を描き続け、基礎的なデッサンを独学で身につける。絵を描きだす動機はふるさとを無くしたという寂寥感と孤独感。21歳で東京銀座の広告会社に就職。イラストレーター、広告プロデューサーとして活躍。28歳の時パリに放浪の旅に出て絵描きになる決心をする。33歳で独立しフリーとしての活動を始める。2001年・58歳の時パリ・三越エトワール美術館で念願の海外展を開催し大成功を収める。2003年60歳を迎えたとき作品制作のため1年間再びパリで暮らす。2005年春、京都の美術館での個展開催のため春の京都を訪れる。うきうきした気持ちで、朝早くから数十年ぶりとなる清水寺を詣でる。
ひとけのない参道をゆっくり登っていくと、突然明るく開けた先に見える清水寺の厳かなたたずまいに心が震え、知らず知らずのうちに涙が溢れ、今までの人生すべてが走馬灯のように流れ胸をよぎった。
「今まで歩んできたすべてがここにある」となにかが語りかけ、身体中を駆け巡った。「私の画家人生すべてをかけた絵をここに描きたい・・・!」という強い思いに駆られ清水寺に願い出た。
音羽山清水寺森貫主は“襖絵奉納にあたって”でこう書いている。『平成17年に中島さんから襖絵奉納の申し出をいただいた当初は、童画作品と清水寺は相容れないものではないだろうかと思っておりました。しかしながら実際に作品を拝見させていただきますと、そこには観音様のお心が体現されているように感じられました。』
観音霊場として千二百有余年にわたり広く信仰されてきた清水寺、貫主は観音様のお心をこう説く。
『一つに“真実を求め真理を愛する心”二つに“清く澄んだ心”三つに“人は皆同じという平等心”四つに“他人の苦しみを自分の苦しみとして共感できる心”そして五つに“楽しみを共に楽しめる心”』 清水寺より描く機会を与えられた中島さんは五年間もがき苦しむ。それでも“生きる”ことを模索し、筆を握りつづけたのは両親をはじめいままで巡り会ってきたすべてをこの絵の中に描きたいという一念であった。奉納襖絵の完成公開の案内ハガキ文面はただ一行
「死にもの狂いの制作でした。襖絵四十六枚」 だけだった。
清水寺成就院の現在の建物は寛永16年(1639)に再建されたもので四室からなっている。
第一室の十二面。初めて“かぐや姫”を主題にした。中島さん自身による解説。
成就院を訪れたとき、その自然体でどっしりとした建物のもつ厳かさ、そして月の庭が私をひきつけました。月の庭から音羽山へと空が開けてすべてを包み込むように私を迎えてくれました、そこに宇宙を感じました。宇宙とは生きとし生けるものすべての生命の源です。かぐや姫は宇宙の別れを描いています。別れは新しい世界へと変化していく次への希望です。宇宙のすべては別れと出会いの中にあります。
中島さんの原点である“母との死別とふるさととの別れという悲しい思い出”も重ねられている。しかし、悲しい思い出は新たな出発点でもあった。というところに強靭な心を感じる。
第二室十二面、第三室十四面は“風の故郷”が主題になっている。
春「花別れ」咲き誇る桜の下で故郷を離れようとする少女。満開の桜は美しく華やかな中にすでに散る儚さを秘め、
悦び哀しみを繰り返す人生そのもの。
初夏「にわか雨」突然の雨で逃げまどう子ども達。自然の営みを全身で受け止めています。 恐さがあってはじめて畏敬が生まれ、あたたかみを知ります。紫陽花は子ども達を迎えるやすらぎの場。紫は母の色です。
夏「向日葵」大きく曲がりくねって咲く向日葵。これは生命の輝きです。少年と少女がふと出会うほのかな愛。
時間の経過を暗示する古びて壊れている水車。移りゆく時の無常のなか、愛は澄んで心の泉となります。
秋「紅葉」画面全体真っ赤に描いた紅葉。赤は人間の血液の色、生命です。
喜び、悲しみ、苦しみ、そして希望、一人一人違う生命の叫びを描きたかったのです。
冬「雪の音」しんしんと降る雪の音に心を寄せている少女。悲しみに震えるその背をじっと見つめる童。
すべてを雪は音もなく包み込んでいます。
第四室の八面で、金子みすゞの詩「大漁」に取り組んだ。成就院で一番大事な部屋にあります。悩んだ末に襖八枚にイワシを全部描きました。母親を亡くし父親への反抗心から故郷を離れて出会ったいろいろな人たち、その人々の生命をイワシ一匹一匹に描き込みました。心優しく忘れえぬ人たちの心が私の絵の原点です。
弱いながらも優しい生命こそ、凄まじくて最も美しいのです。
「りんと立って真っ直ぐにイワシを見つめている少女は私自身の姿。四十年を経てやっと地に立てたような感がします。」と述べている。
2000年に金子みすゞの詩集に触れたことが新境地を開く。みすゞの詩との出会いは必然であったような気がする。11点の作品が詩と共に展示されていた。先日は音楽を通して金子みすゞの世界に案内され、今日は絵画を通して案内された。偶然の流れに不思議さを感じる。
お花だったら
もしもわたしがお花なら、
とてもいい子になれるだろ。
ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。
だけど、だれかがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐにおこってしぼむだろ。
もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。
200年後、500年後、1000年後の人たちがこの襖絵を見る時、今の私たちが若冲や光琳や永徳や等伯を見るように見るのかなと思いつつも、さてそれまで人類は存続できるのかなという思いにもとらわれながら会場を後にした。
北新地から難波までは御堂筋を歩いた。高島屋の7階に上がり会場に向かっていると前方がすごい人だかり、こんなに来ているのかと驚いたが、バレンタインデーに向けてのチョコレート特設売場とわかり納得。雛人形のコーナーもあり季節感を味わう。展覧会会場はその奥にあった。
ここはここで人でいっぱい。「平日なのに」という言葉はもう出なくなった。むしろ「平日だから混んでいる」というのが昨今の納得のしかた。
中島潔さんは、1943年中国東北部(旧満州)に生まれる。翌年両親の生まれ故郷の佐賀に戻る。18歳で母を亡くし、すぐに再婚した父親へ反抗し一人で故郷を出る。伊豆下田の金鉱で温泉掘りをして働きながら絵を描き続け、基礎的なデッサンを独学で身につける。絵を描きだす動機はふるさとを無くしたという寂寥感と孤独感。21歳で東京銀座の広告会社に就職。イラストレーター、広告プロデューサーとして活躍。28歳の時パリに放浪の旅に出て絵描きになる決心をする。33歳で独立しフリーとしての活動を始める。2001年・58歳の時パリ・三越エトワール美術館で念願の海外展を開催し大成功を収める。2003年60歳を迎えたとき作品制作のため1年間再びパリで暮らす。2005年春、京都の美術館での個展開催のため春の京都を訪れる。うきうきした気持ちで、朝早くから数十年ぶりとなる清水寺を詣でる。
ひとけのない参道をゆっくり登っていくと、突然明るく開けた先に見える清水寺の厳かなたたずまいに心が震え、知らず知らずのうちに涙が溢れ、今までの人生すべてが走馬灯のように流れ胸をよぎった。
「今まで歩んできたすべてがここにある」となにかが語りかけ、身体中を駆け巡った。「私の画家人生すべてをかけた絵をここに描きたい・・・!」という強い思いに駆られ清水寺に願い出た。
音羽山清水寺森貫主は“襖絵奉納にあたって”でこう書いている。『平成17年に中島さんから襖絵奉納の申し出をいただいた当初は、童画作品と清水寺は相容れないものではないだろうかと思っておりました。しかしながら実際に作品を拝見させていただきますと、そこには観音様のお心が体現されているように感じられました。』
観音霊場として千二百有余年にわたり広く信仰されてきた清水寺、貫主は観音様のお心をこう説く。
『一つに“真実を求め真理を愛する心”二つに“清く澄んだ心”三つに“人は皆同じという平等心”四つに“他人の苦しみを自分の苦しみとして共感できる心”そして五つに“楽しみを共に楽しめる心”』 清水寺より描く機会を与えられた中島さんは五年間もがき苦しむ。それでも“生きる”ことを模索し、筆を握りつづけたのは両親をはじめいままで巡り会ってきたすべてをこの絵の中に描きたいという一念であった。奉納襖絵の完成公開の案内ハガキ文面はただ一行
「死にもの狂いの制作でした。襖絵四十六枚」 だけだった。
清水寺成就院の現在の建物は寛永16年(1639)に再建されたもので四室からなっている。
第一室の十二面。初めて“かぐや姫”を主題にした。中島さん自身による解説。
成就院を訪れたとき、その自然体でどっしりとした建物のもつ厳かさ、そして月の庭が私をひきつけました。月の庭から音羽山へと空が開けてすべてを包み込むように私を迎えてくれました、そこに宇宙を感じました。宇宙とは生きとし生けるものすべての生命の源です。かぐや姫は宇宙の別れを描いています。別れは新しい世界へと変化していく次への希望です。宇宙のすべては別れと出会いの中にあります。
中島さんの原点である“母との死別とふるさととの別れという悲しい思い出”も重ねられている。しかし、悲しい思い出は新たな出発点でもあった。というところに強靭な心を感じる。
第二室十二面、第三室十四面は“風の故郷”が主題になっている。
春「花別れ」咲き誇る桜の下で故郷を離れようとする少女。満開の桜は美しく華やかな中にすでに散る儚さを秘め、
悦び哀しみを繰り返す人生そのもの。
初夏「にわか雨」突然の雨で逃げまどう子ども達。自然の営みを全身で受け止めています。 恐さがあってはじめて畏敬が生まれ、あたたかみを知ります。紫陽花は子ども達を迎えるやすらぎの場。紫は母の色です。
夏「向日葵」大きく曲がりくねって咲く向日葵。これは生命の輝きです。少年と少女がふと出会うほのかな愛。
時間の経過を暗示する古びて壊れている水車。移りゆく時の無常のなか、愛は澄んで心の泉となります。
秋「紅葉」画面全体真っ赤に描いた紅葉。赤は人間の血液の色、生命です。
喜び、悲しみ、苦しみ、そして希望、一人一人違う生命の叫びを描きたかったのです。
冬「雪の音」しんしんと降る雪の音に心を寄せている少女。悲しみに震えるその背をじっと見つめる童。
すべてを雪は音もなく包み込んでいます。
第四室の八面で、金子みすゞの詩「大漁」に取り組んだ。成就院で一番大事な部屋にあります。悩んだ末に襖八枚にイワシを全部描きました。母親を亡くし父親への反抗心から故郷を離れて出会ったいろいろな人たち、その人々の生命をイワシ一匹一匹に描き込みました。心優しく忘れえぬ人たちの心が私の絵の原点です。
弱いながらも優しい生命こそ、凄まじくて最も美しいのです。
「りんと立って真っ直ぐにイワシを見つめている少女は私自身の姿。四十年を経てやっと地に立てたような感がします。」と述べている。
2000年に金子みすゞの詩集に触れたことが新境地を開く。みすゞの詩との出会いは必然であったような気がする。11点の作品が詩と共に展示されていた。先日は音楽を通して金子みすゞの世界に案内され、今日は絵画を通して案内された。偶然の流れに不思議さを感じる。
お花だったら
もしもわたしがお花なら、
とてもいい子になれるだろ。
ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。
だけど、だれかがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐにおこってしぼむだろ。
もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。
200年後、500年後、1000年後の人たちがこの襖絵を見る時、今の私たちが若冲や光琳や永徳や等伯を見るように見るのかなと思いつつも、さてそれまで人類は存続できるのかなという思いにもとらわれながら会場を後にした。