素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

“競争がないと人間はがんばらないか?”は古くて新しい課題

2012年02月18日 | 日記
 今、大阪府・大阪市で制定を検討されている教育基本条例の大前提にあるのは「競争がないとだめである。」ということである。そこの部分でズレている場合、議論がかみ合わないのは至極当たり前である。私自身はこの大前提にもどっての議論が不足しているように思う。

 「競争がないと人間はがんばらないか」ということは教育界においても実践と議論が繰り返されてきた古くて新しい問題である。したがって議論をすすめるうえでの参考事例は多くある。観念的な議論ではなく、実際に行われた試みの事例を検討し、そこから新しい方向性を見つけ出していくということがとても大切なように思える。

 私自身は“競争が良い・悪い”の二者択一の立場をとれない。これは自分自身の経験からきている。「はっきりしないな」と言われれば「ごもっとも」と答えざるをえない。

 1951年生まれの私が社会の動きに少し関心を持ち始めた1960年当時、教育界では“全国一斉学力テスト”というのが大きな問題となっていた。「勤務評定(きんぴょう)反対」「学テ」という言葉は強く残っている。当時はよくわからなかったが、今思うと戦後教育の最初の大きな分岐点であったと思う。

 愛媛県における不正事件がもとに全国一斉学力テストはなくなった。“民主教育をすすめる道民連合”の出した意見広告ではそこのあたりを次のようにまとめている。(http://www.geocities.jp/e_domin2007/gakute_igirisu.html)

 1961年から1964年まで実施された全国一斉学力テストは、 「知育偏重」 「テスト主義」 「成績至上主義」 を助長させ、 教職員・保護者は子どもの全面発達を保障するという教育の本質を見失い、 過当な競争主義に陥っていきました。 子どもたちの間には、 差別や対抗意識が横行し、 子どもどうしの関係性が分断され、 孤立化するなど、 多くの教育問題や荒廃を生じていきました。 結果的に、 国民の批判を浴びて、 1966年に中止となりました。
 3年連続日本一になった香川県、 「香川に追いつき追い越せ」 を目標にした愛媛県などでは勤務評定の攻撃とあいまって、 逃げ場を失った教職員が子どもの人権を全く否定した教育や不正行為を行うなど、 学力テスト実施の弊害が顕になっていきました。 それらの弊害は、 以下のようなものです。

○ 学力テストは、 前年度の学習内容から出題されるため、 学力テスト当日まで、 前学年の復習に力
  が注がれ、 本来の授業が犠牲になった。
○ 生徒に宿題プリントやドリル、 問題集をおしつけ、 異常な課外授業を組んで学力テストの準備をす
  すめた。 教育委員会なども総力を上げて学力テスト対策を行った。
○ 補習時間の確保など、 学力テストの対策のため、 授業は新幹線並みのスピードで行われ、 学校
  本来の姿が大きく歪められた。
○ 校長や教育委員会の督励によって地域、 学校、 学級間の競争に追いつめられた教職員の中に
  は、 人為的に得点を吊り上げるため、 不正行為を行うものまで出た。

・ 「成績の良い子と悪い子とを同じ席に座らせて案にカンニングをすすめるような席替えをする。」
・ 「教師が期間巡視をするときに、 答案の正答を指で押さえる」
・ 「成績不振児や障害児を学力テスト当日欠席させる」
・ 「学習の遅れた生徒を特殊学級に入級させた」
・ 「教師が記入して満点の答案を作成し、 現実にいない生徒の答案とする」

 実施によって、 以上のような 「学力テストあって教育なし」 という状況が生み出されていきました。 子どもの 「学び」 や発達を無視する徹底した学力テスト対策で上位を占めた愛媛や香川では、 青少年事件も多発し全国一となるなど、 学力テストの実施によって教育の荒廃を加速させ、 子どもたちの心に深い傷を負わせました。


 このことは、今日のMBSでの特集で取り上げられた“10年前のNYでの教育改革の失敗”の実態と瓜二つである。この特集は今回の大阪でおこなわれようとしている教育改革はこのNYの改革とよく似ているということでもっと教訓を学ぶべきではないか。というものであった。そしてこの2つの改革のお手本はイギリスにおけるサッチャーの行った教育改革である。イギリスでも多くの弊害が生まれ見直している。

 以前にも書いたが、私の中学では2年生から英語は能力別学級であった。学年5クラスであったが、英語の時間はA,B,C,Dと成績別に学級を分けて英語を、Eクラスは技術家庭を学習した。Eクラスの人は2年間は英語を学習できない。(=進学できない)それが中1の英語の成績で決まっていたのである。今、考えるとこれほどひどいシステムはない。A~Dでは定期テストごとに各クラス上位1~3名と下位1~3名の入れ替わりがあり、最初の授業で名前を呼ばれると隣の教室への移動となった。テストの点数は職員室前の廊下の掲示板に上位者から順に点数と氏名が貼りだされ、50点以下は赤字で書かれるという徹底ぶりであった。

 A~Dクラスを担当する教師は学年所属に関係なく固定されていた。幼い中学生にとってはAクラスを担当する先生とDクラスを担当する先生との間に格差をつけて見ていたことは事実である。

 Aクラスの担当教師が「統一模擬テストの英語の平均が、三重大附属中学についで三重県で2番になった」と誇らしげに言ったことを覚えている。英語の苦手な人を切り捨てての数字のマジックと気づいたのは教師として教壇に立ってからである。

 過度の競争主義に対する反動として、すべての競争を排除するという取り組みがなされた。ちょうど私が教職に就いた頃の枚方市では教職員組合を中心に先鋭的な運動が始まっていた。徒競走の廃止もしくは同じようにゴールするためにスタートラインを個々の走力で調整するとか相対評価の排除、高校進学における“地元集中運動”などである。過度の競争主義の弊害については身をもって理解していた私だが、この動きには素直についていけなかった。

 全国的には、“小学区制”を堅持していた京都府や“大学区制”の弊害から各地でさまざまな“学校群制度”の導入があった。学区の問題も過去の試みの中に多くの教訓があるはずだが、今回の学区制廃止の論議にはその功罪の検証がなされていないように思う。単に、競争の過度の排除への反動としてあるだけに見える。これでは社会的大実験ともいえる過去の取り組みが無駄になる。同じことの繰り返しやなというむなしさだけが湧いてきて、シラッとする自分がいる。

 “歴史から学ぶ”という姿勢だけは持ち続けたいと思っている。
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