広辞苑で“余寒”という言葉を見つけた。立春を過ぎ、寒が明けた後の寒さをいうのだが、今年はなかなかにしつこい。ふつうは一雨ごとに春の予感を感じるのだが、今日なんぞは小雪もちらつき、週末はさらに厳しい寒波がくるとの予報。
今日もマシーンで10kmを走り、4日連続10km~12kmを走っている。短歌の樹海の彷徨とのバランスをとるためか、体が要求してくる。
今日から玉岡かおるさんの『負けんとき』を読み始める。カーネーションの時代ではないが明治から大正、昭和へと社会の価値基準が大きく変動していく時の女性については興味がある。本屋で“ヴォーリズ満喜子の種まく日々”という副題に「オッ!」と思い、手にとって帯を読むと“播磨小野藩最後の大名の娘一柳満喜子と近江兄弟社を興したアメリカ人W・Mヴォーリズ。封建的な世に抗い、自分の生きる道を探した二人の出会い”とあり、一読の価値ありと思い購入した。
華族でありながら華族学校へは行かず、名実ともに当時の日本における女子の最高学府と目されてはいるが平民の通う女子高等師範学校に通学する満喜子。今はそこでの生活を中心に“華族の娘”であるということへの疑問を内に秘めて、物語が展開している。
岩倉使節団として幼くして渡米した津田梅子、瓜生繁子、大山捨松なども登場し、興味深い。それぞれについては“歴史秘話ヒストリア”などの歴史番組で見たことがあったが、それらは点としての知識であった。物語の中で線としてつながっていく感じである。ヴォーリズも六甲山にある山荘や近江兄弟社などで知ってはいたが、やはり点としての知識に過ぎなかった。これから線となって生き生きした姿が浮かび上がってくるだろうと期待している。
3人の中では特に、会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえ しげかた)の二男五女の末娘として、安政7年(1860年)に会津若松に生まれた山川さきこと大山捨松については興味を持っている。Wikipediaによると
知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、かぞえ8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれも手伝って大怪我をしている。すぐそばでは大蔵の妻が重傷を負って落命した。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助という男だった。
近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に会津藩は抗戦むなしく降伏。会津23万石は改易となり、一年後藩主の嫡男が改めて陸奥斗南3万石に封じられた。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり。実質石高は7,000石足らずしかなかった。藩士達の新天地での生活は過酷を極めた。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。
新政府の米国留学女学生
明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。
開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。
しかしさきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。またいざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。今回も応募者は低調で、さきを含めてたったの五人。全員が旧幕臣や賊軍の娘で、全員が合格となった。
こうしてさきは横浜港から船上の人となる。この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母のえんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたのはこの時である。捨松がアメリカに向けて船出した翌日、横浜港にはジュネーヴへ留学に旅立つ一人の男の姿があった。大山弥助改め大山巌である。
今日もマシーンで10kmを走り、4日連続10km~12kmを走っている。短歌の樹海の彷徨とのバランスをとるためか、体が要求してくる。
今日から玉岡かおるさんの『負けんとき』を読み始める。カーネーションの時代ではないが明治から大正、昭和へと社会の価値基準が大きく変動していく時の女性については興味がある。本屋で“ヴォーリズ満喜子の種まく日々”という副題に「オッ!」と思い、手にとって帯を読むと“播磨小野藩最後の大名の娘一柳満喜子と近江兄弟社を興したアメリカ人W・Mヴォーリズ。封建的な世に抗い、自分の生きる道を探した二人の出会い”とあり、一読の価値ありと思い購入した。
華族でありながら華族学校へは行かず、名実ともに当時の日本における女子の最高学府と目されてはいるが平民の通う女子高等師範学校に通学する満喜子。今はそこでの生活を中心に“華族の娘”であるということへの疑問を内に秘めて、物語が展開している。
岩倉使節団として幼くして渡米した津田梅子、瓜生繁子、大山捨松なども登場し、興味深い。それぞれについては“歴史秘話ヒストリア”などの歴史番組で見たことがあったが、それらは点としての知識であった。物語の中で線としてつながっていく感じである。ヴォーリズも六甲山にある山荘や近江兄弟社などで知ってはいたが、やはり点としての知識に過ぎなかった。これから線となって生き生きした姿が浮かび上がってくるだろうと期待している。
3人の中では特に、会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえ しげかた)の二男五女の末娘として、安政7年(1860年)に会津若松に生まれた山川さきこと大山捨松については興味を持っている。Wikipediaによると
知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、かぞえ8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれも手伝って大怪我をしている。すぐそばでは大蔵の妻が重傷を負って落命した。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助という男だった。
近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に会津藩は抗戦むなしく降伏。会津23万石は改易となり、一年後藩主の嫡男が改めて陸奥斗南3万石に封じられた。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり。実質石高は7,000石足らずしかなかった。藩士達の新天地での生活は過酷を極めた。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。
新政府の米国留学女学生
明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。
開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。
しかしさきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。またいざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。今回も応募者は低調で、さきを含めてたったの五人。全員が旧幕臣や賊軍の娘で、全員が合格となった。
こうしてさきは横浜港から船上の人となる。この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母のえんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたのはこの時である。捨松がアメリカに向けて船出した翌日、横浜港にはジュネーヴへ留学に旅立つ一人の男の姿があった。大山弥助改め大山巌である。