素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

憲法改正の波押し寄せる

2013年05月03日 | 日記
 先の選挙で自民党が圧勝したため憲法改正の動きが活発になってきた。施行から66年、皆で考える時期になっているのかもしれない。ただ、96条の改憲の手続き条項を先行して改正することには疑問がある。「外国と比べて改憲条件が厳しすぎる。だから一度も改憲できてこなかった」ということに対してはいろいろな立場の人の談話を聞いたり、読んだりする限り間違いであると思う。

 改憲がゼロであってきたのは「3分の2以上の発議条項」が問題ではなく改憲論議の未熟さからではないだろうか。改憲か護憲かと二者択一的な論点でしか憲法について語られこなかったように思われる。

 したがって中身の論議をしっかりすることが先ではないかと思う。9条が一番槍玉にあがるが、もっと具体的に何が問題で、どう変えるか。そうすれば今とはどう違うのかという姿が浮かぶまで、国民の代表者の集まりである国会で徹底的に論議してもらいたい。それを抜きにした国民投票はいかがなものかと考える。

 発議条件を過半数に緩和して国民投票に委ねれば良いとなれば、国会議員の存在価値はなんなんだろうということになる。毎日新聞の社説で引用している衆院憲法調査会が8年前にまとめた報告書の意見は尊重されるべきだと強く思った。

 「できるだけ国民の間に共通認識を醸成し、その民意を確認する手続きとして国民投票が行われるという過程になるように、国会議員は努力する責任がある」 「たとえ政権交代があった場合でもぶれることのない、一貫した共通のルールを作る視点が大事であり、そのためには国会で幅広い合意を得ることが重要だ」


 違憲と判決の出た定数問題ですらきちっと論議し是正できないでいるのに、改憲を口に出す資格があるのかなというのが素朴な疑問。

 また樋口陽一氏の指摘も鋭い。
国民を丸ごと信用してはいけないというのが96条の思想だ。扇情的で乱暴な議論に国民が誘惑されてはいけないからだ。国民といえども間違うことがある。「国民は間違うことがない」「ローマ法王は間違うことはない」「偉い君主は間違うことはない」。これが人類の悲劇の歴史だと言わないといけない。国民が自らをいましめてこそ主権者としての責任を果たせる。(中略)我々が思い出すべきことは、占領下で現行憲法を作る際、占領当局は「1院制がいい」と言ったが、当時の日本政府は異例なほど頑張って2院制にさせた。そのときのキーワードが「多数の暴走をやめさせる」「国民は間違うことがある」だ。日本人の知恵が今、試されているということを言いたい。

 国民の判断の危うさは小泉政権の誕生から民主党政権誕生と崩壊に到る選挙の結果の揺れ幅の大きさが証明している。憲法についての議論は大いにあっても良いと思うしかし、拙速に結論を求めてはいけないと思う。
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