素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

平田オリザさんの「わかりあえないことから」が面白い

2013年05月23日 | 日記
 「面白いから、ぜひ」と勧められた本の1つに平田オリザさんの「わかりあえないことから」(講談社現代新書)があった。副題に《コミュニケーション能力とは何か》とある通り、コミュニケーション教育に直接携わってきてそこに感じる違和感を中心に1年間講談社のPR誌『本』に連載してきたものがまとめてある。

 平田さんは、基本的に「わかりあう」ことに重点が置かれてきた日本のコミュニケーション教育や従来の国語教育に強い疑問を持っている。そこで本書を通じてわかりあえないところから出発するコミュニケーションというものを提起している。8章のうち2章まで読み進んだ。

 第1章の「コミュニケーション能力とは何か?」では《ダブルバインド》がキーワードである。相矛盾する2つのメッセージを同時に繰り返して与えられた者が、そのいずれも信じることができないまま精神的外傷をこうむる状態を指す心理学用語である。

 《自主性・主体性》と《まわりの空気を読み和を乱さない》という要求を企業から同時にされている就活学生の例などはその通りだと思った。学校においても《個性的であれ》と《集団の規律を守れ》というのが同じだなと読みながら思った。岸田秀さんの指摘する幕末以来延々と続く日本社会の外的自己と内的自己の分裂状態ともつながるものがある。

 もう1つは、今のコミュニケーション教育で盛んに実践されている「伝える技術」の大前提として「伝えたいという意欲」があるという指摘も鋭い。平田さんはその意欲の低下を憂える。自己を表現するには自分を理解していない他者を必要とする。その環境を子供たちのまわりから奪いつつコミュニケーション能力を要求することそのもがダブルバインドとなってニート、ひきこもりの増加につながっているのではという仮説は検証する値打ちがある。

 子供たちは表現することは大好きであるということは、今までの経験で確信している。歌、ダンス、朗読、絵、マスゲーム、演奏、劇、コントなど表現方法はいろいろある。そこで平田さんが第2章「喋らないという表現」の最後で提起している初等教育段階での「国語」の完全解体にはもろ手をあげて賛成である。国語を「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱している。

 「表現」では子供たちの伝えたいという気持ちを大切に育て、「ことば」でしっかりとした発音・発声や文法の基本を教えるというふうにとらえると今の閉塞状況は突破できるかもしれない。

 たくさんの考えるためのヒントがいっぱいある本だと思う。楽しみである。

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