素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

古典

2013年09月09日 | 日記
 時間にゆとりができるようになってから「古典」と呼ばれているものに接する機会が増えた。能、狂言、文楽の世界に入ってみるとテンポとか表現に違いはあっても現代の劇やドラマの根底に流れているものと同じだなと思うことが多い。人間模様を鋭く切り取って観る者に共感を得させてきたものであるから当然と言えば当然。そのことに気づけば「古典芸能」などと構える必要もなく気軽に楽しめる。

 文学でも同様、高校時代の私は「古典」の授業は爆睡の時間。そのことに気が引けた時は体育館裏へ遁走というふうにまともに学んだことはなかった。大学受験に必要な知識とテクニックだけは最低限身にはつけたにすぎなかった。「桃尻語訳枕草子」「浄瑠璃を読もう」の橋本治さん、「ヘタな人生論より徒然草」の荻野文子さん、「万葉集・全訳註原文」の中西進さん、「面白いほどよくわかる平家物語」の金谷俊一郎さん、「方丈記」の武田友宏さん、「私の百人一首」の白洲正子さんなどの道案内で全文を通してみると受験知識で描いていたイメージとはずいぶん異なるということを痛感させられた。遅々たる歩みではあるが、よき道案内人を見つけ古典文学の世界の旅を続けていきたいと思っている。

 今は、白洲正子さんの「能の物語」「世阿弥」などに触発されて、林 望さんの『すらすら読める風姿花伝』(講談社)を読んでいる。林望さんも、まえがきでこう書かれている。

 「どうも学校教育のなかで、古典の取扱いがよろしくないと私は考える。なにか、古典というものを、現代語とは違う「外国語」のような風情で扱っているように見えるのだ。事実は、古典というものはすなわち幾星霜を閲(けみ)して磨き抜かれてきた日本語の精髄であり、文学としてもよく咀嚼し味読すべきものだ。ところが、学校では、予備校の授業よろしく、品詞分解だの、文の要素だの、区々たる知識だのを詰め込んで、若い人たちにそれを味わう方途を伝授していない。教科書も悪い。教師用の指導書に至っては言語道断の阿保らしさである。私は自分も高校教師として六年間教壇に立っていたからよく承知している。

 だから、そういう古典教育を受けてきた若い人たちが、古典と聞いただけでもうアレルギーを起して、なにやら晦渋で退屈な「外国語」だと思ってしまっているのは是非もないところである。そうして古典から遠ざかってしまう。日本語の貧弱化というような現象も、根を辿るとこうした事実に逢着するであろう。

 私は教師として、この古典の面白さを、なんとしたら伝達できるだろうと、そのことばかり考えてきた。この本は、言ってみればそういう立場から発想して書いたのである。・・・・(後略)」


 共感すること大である。「そういう古典教育を受けてきた若くない人」でも遅くはないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする