素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

無人化

2013年09月03日 | 日記
 先日の新聞に南海電車の駅の無人化が進み、介護の必要な人の乗降に支障が出てきているので障害者団体を中心に有人化の嘆願署名運動が起こっているという記事があった。会社側からすれば人件費抑制のため人員削減できるところはできるだけやっていこうということであろう。経営の合理化という錦の御旗のもとにあらゆる職場で人員削減(リストラ)の嵐は吹き続けている。

 とっても分かり易い論理で当たり前のように受け入れつつあったが、この記事を読んで少し考えさせられた。大きな社会の流れは止めようもないかもしれないが「ちょっと待てよ」と思考することを停止してしまってはいけないのではないかと思う。個々人がそれぞれの立場で考えることが現状の矛盾を改善していく原点である。

 テレビで生産現場の映像を見る機会があるたびに、どの業種でもオートメ化が進んでいることに感心させられる。一方、オートメ化によって必要無くなった人たちはどうなったのだろうとも考える。技術の進歩によって、人間が行っていた単純労働をどんどん機械が代行するようになってきた。本来、それによって余った時間などを有効に利用するというのが建前であったが、実際の状況は失業率の増大という皮肉な結果が出ている。さらに、現在では人工知能などの飛躍的な進歩により状況を判断して動くことができる器械も増えてきた。そうなるとますます人間の居場所がなくなってくるのではないだろうか。

 今、自動車業界では自動運転の車の開発が進んでいるみたいだが、実用化されたとしてもいかがなものかと考え込んでしまう。オートマチックぐらいまでで充分のような気がする。運転士を必要としない世界初の無人運転システムとして神戸三宮とポートアイランドを結ぶポートライナーが導入されたのが30年余り前の1981年。

 運行開始当初はシステムの初期不具合のほか、ポートピア'81の開催もあり予想以上の混雑や利用者の不慣れもあいまって自動停止や出発不能などのトラブルが多発して、批判を受けた。しかし、その後はシステムも安定し現在は6列車が有人運転以外はすべて無人運転となっている。これぐらいの規模のシステムが限界ではなかろうか。

 無人運転の試作車の映像を見ていると、アメリカがアフガニスタンで多用している無人爆撃機を思ってしまう。

 無人化の動き、手放しで喜べない段階に来ているのでは。




 

 





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