素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

日々是れ好日

2013年09月22日 | 日記
 週間天気予報では週末天気の崩れが予想されていたが高気圧の力が思いのほか衰えなかったため木曜日あたりから雨マークが消え、少々暑いが好天が続いている。ただ、長時間の運動や歩行をひかえている私にとってはうらめしくもある。余った時間で以前に読んだ本を読み返すことができる機会ができたと思えばけがの功名となる。

 古田紹欽さんの随想集『日常の禅~見て聞いて考える~』(実日新書)は昭和42年10月に発行された本であるから半世紀近く前に書かれたものである。禅に救いを求めていた10代後半に買ったと思う。新聞や雑誌に掲載したコラムをまとめたものなので平易で読みやすい。著者50代半ば過ぎのものなのであらためて読むとしっくりくることが多い。

 そもそも読む気になったのは、台風後の天気を称して日々是好日という言葉がピッタリだと思っていたところ、目次の中に『日々是れ好日』というタイトルを見つけたからである。何を書いているのだろうとそのページを開いた。書き出しの
 「秋の彼岸前後になると、天候も定まって、いい日和が続く。一年中でまず一番いい季節で
あろう。「日々是れ好日」の感が深い。」
の2行で、そうそう同感と心をつかまれたのである。しかし、この一言には深い意味があると古田さんは続ける。

 今日もいい天気だというのも「好日」に違いないが、日々是れ好日の好日は天気の好しあしに関係しないという。そしてこの語の歴史をひもとく。唐末から五代にかけての時代に禅宗を発展させた雲門大師の語に由来していて、禅の有名な書『碧巌録』第六則に「雲門日日好日」の一則があり、広く知られるようになった。こうある。

 「雲門垂語していわく、十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)ひ将(も)ち来れ。自ら代っていわく、日日是れ好日」
 雲門が弟子たちに「過ぎ去った十五日間のことは問わない。これから先の十五日間、つまり将来いかん」すなわち、悟り以前の迷いには用はないが、悟り得たと言うなら一句といってみろというわけである。弟子の返答を待たずに自分が代わって答えたのが『日日是れ好日』という語である。

 悟らぬ限りは迷いの連続だが、悟ってからのその日その日は好日の連続である。悪天候であってもそれはそれとして見れば好日となる。不幸は不孝として素直に受け取るところに好日がある。すなわち外界の事象にわずらわされることなく、くる日もくる日も好日として日々を生き通すことができる。そのことを雲門大師はさとしたのである。

 軽々しく「日々是れ好日」などと言えないと思った


 





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