凍死の山寂然(しん)と桃売りババア有難う
髙鸞石
枯れたはちす(黒い種が入っています)
この句は、髙鸞石が
第6回芝不器男俳句新人賞に
応募した100句のうちの一句です。
髙鸞石は、同選考会において、
大賞を獲得できず
中村和弘奨励賞に該当したにもかかわらず
本人辞退しました。
今回の賞選考の議事録が発表されたことを受けて
彼の10月15日ブログでは、
掲句の「ババア」が問題とされ、
大賞から落とされたのだと思わせるような展開
となっているように感じます。
この件に関し、
ひとこと言いたいことがあるので
この場で言おうと思います。
★まず、
議事録で削られた箇所を高鸞石がブログで
録音テープから採取再生して書いていたのを読んで
賞の結果を左右するほどの「ババア」
ではなかったように思いました。
中村和弘だけではなく、
西村我尼吾も「ババア」は瑕疵ではないと
評価していたんですね。
初めて知りました。
多数決(点数)で大賞にいたらなかった
<だけ>のような気がしました。
賞というものは、選考委員の持論や嗜好があって
多数決で決まるのはどうしようもないことでしょう。
以上のことから、わたくし的には
「ババア」で大賞がとれなかったのではない
ということが
ハッキリと分かったのでありました。
★この選考結果とは無関係なところで
選考委員の関悦史が高鸞石のことを不適切発言で
呼び表した事実はありました。
zoomを聞いていた人から教示された
議事進行の時系列によりますと
17時9分頃に髙鸞石から複数回の辞退発言
17時12分西村氏奨励賞の藤田さん登壇
17時17分ごろ、関悦史問題発言
これは、全ての発表が終わった後のことですから
時系列から明らかなのは
辞退発言の後、問題の関発言があったということ。
したがって、関発言により辞退を決めたという事はあり得ません
そして、関悦史は、既に高鸞石に対して謝罪し
選考委員を解任され、報酬も全て返金し
社会的責任を取っています。
これ以上、関悦史はどうすればよいのでしょうか
一部には鬼の首を獲ったかのごとくに
俳壇追放に等しい罰を望むような事を主張する者達もいますが
それはやり過ぎではないでしょうか。
だれでも間違いはあります。
★ということで、私が言いたいのは
もうここらでよかろう
ということです。
晋どん、もうよかろう
これは、
西郷隆盛が別府晋介に介錯させる前に言ったことばです。
私も、高鸞石には、
もうこの辺で
仕切り直しをしてほしいのです。
★なによりも
竹岡一郎が、「週刊俳句」で、
「桃売りババアの正体」という評論を書いて
「ババア」擁護されたではありませんか。
それには私も同意見なのですが
「ババア」の正当性について文学としては妥当だ
という論の展開でありました。
一番に、そして唯一、
竹岡だけが高鸞石の作品を文学として評論された
のではありませんか。
掲句一句で、
あんなに佳い評論を書かれたのだから、
それで、十分なのではないかしら。
賞を取りたいとだれでも思いますが、
こんなに素晴らしい読者がいたことを忘れることは
作家としてはお門違いではないかなあと思います。
高どん、もうここらでよかろう
高鸞石にとって唯一無二の
竹岡に対して、忘恩、逆恩にならないことを祈ります。
ガマズミの実
(附記)
★浅川芳直の
「録音との差分に関して、 事務局の方への属人的非難に走るのは的外れだと思います」に関しては
テープ起こし作業がなされたあと
運営側の最高責任者あたりから、
こう書き換えてとか、ここは削ってとかいう指示があったのではないか
と勝手に推察します。
なぜ改竄?修正?したのか意味わからんです。
議事録はそのまま、ありのままでないと
意味がないのではないかと思うのです。
★10月14日 の高鸞石ブログから引用
才ある者へ。あなたが、人生をかけて自分なりの文学を突き詰めたいと思う者ならば、俳句に近づいてはならない。俳句はもう文学ではない。文学でないなら、一体、現代における俳句とは何か。それは、娯楽と癒しのための、まことにすばらしき日本の伝統文化である。現代の俳人は、本人がいくら「作家」としてふるまっていたとしても、所詮は権威主義的空間の奴隷として文化に触れているだけであって、文学の担い手ではない。
これは、髙鸞石の思う通りの俳句
でなければ文学ではないと言っている
ようにも思えます。
ある人が、私に、
遠藤周作の「僕は小説家なんだから。大説家じゃない」
の言葉を引用しつつ、
これが優れた文学者の態度ではないですか
と問いかけたことを思います。
(文中敬称略)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます