玄徳道

道を語るブログです。

酒仙済仏訓、元気道。

2022-10-29 20:07:00 | 道院

人の初めの炁は天地である。

天地の炁は炁胞である。

天地人は一炁胞を本として、貫通感応するので、自ら天然の関係があるのである。

故に人身は一小天地であり、天地は一大人身である。

養生家の言に、「天下の人は生を養う事が出来れば、病を無くす事が出来る。医科の著書で言うには、生を養うところの要点は元を保つより大なるものはないと。元を保つというのは、元気を保存することである。」

おもうに、人はこの世に生を受ける初めに、既に定まっている分があり、この定まっている分というのが元気である。

これは、視ようとしても視ることができず、これを求めようとして、求めることが出来ず、気血の内に寓していて、気血の先を宰(つかさ)どっており、五臓の真精はみな元気の分体である。

その根本の所在を道教では、これを丹田と言い、難経では、これを命門といい、内経では、七節の旁(そば)に小心があり、陰陽の開閉(はたらき)がここに存し、呼吸の出入りも、ここに繋がっていると。

たとへ火はなくても全身がみな温かであり、たとえ、水がなくても、五臓みな潤っている。

いわゆる、元陽真陰もまた、一が化して二となったものである。

天地の元陽は、深く地中に藏(かく)されている。

その外に現れて春夏秋冬の四季と相めぐるものは又、浮陽である。

人における元陽はこれが腎の中に藏されていて、あまねく全身にめぐっているものもまた、浮陽である。

浮陽はこれを薬とし、汗として発散する事が出来るが。元陽はこれを妄動させる事は出来ないのである。

太極図(円形)の中の白い圏(ところ)が即ち元陽の本来の位であり、それが陰陽に分かれるのは、皆それは白い圏以外において、これが判れる、故に元陽とは、元気の蔵するところであり、元気とは、祖の気より授かったものであると言っている。

これによっても、炁胞の育むところ天地人みな、一貫して相通じることを悟る事が出来る。

内経では陽が足りれば、即ち下が固まり、陰が足りれば則ち上に水がそそがれることになり、その人は無病でいることが出来る。

そこで疾病に侵されるのは、五運六気の失調にほかならない。

そこで薬によってこれを和らげることが出来、和らげば、解け、解ければ治療するのである。

これを以て世の中に推しひろめて、人事に運用すれば、参証するところを得る事が出来る。

運数とは陰陽順逆が相乗じて生じ、数の成るところの運も又、これに因り、運数が乗徐して、大災劫が生じる、これを挽化しようとすれば、端的に人力によるだけである。

人は堅定勇穀の願力を以て災劫を弭化するのは、あたかも養生する者が元気を保存して、病を退け、健康を守るようなものである。

これは事の当然であり、又、理の当然でもある。

これを以て体得すれば、養生して身を保つことと数劫を弭化することは、その揆を一にしている。

たとへ、その理は同じで、その事も同然とはいえ、養生して身を保つ者は、必ず嗜慾を節制し、労し傷(そこ)なうことを軽減し、思慮を省く事に重点をおくように、数劫を弭化する者もまた、必ず功行に努め、多くの志を合わせ、気霊を融合させる。

この三者を以て努力して為し、長くこれを堅持して、怠る事がなければ、その身のあるところは、霊光円満に輝き、必ず全て一切を弭化して、太平安楽の世を招来する事が、出来るのである。

(注 鬼雷述べる。元気を保つには、その源である、炁に行き着かなければならないのです。炁は、母親の胎内(気海)に居た時に、無知無欲の赤心にて、安心して全身で胎息(全身呼吸)していた時、その胎児の体内では、炁が全身に回っていました。しかし、ひとたびこの世に生誕すると、オギャア、オギャーとお腹が減ったとか外気が不快だとかと、意識が芽生え、無知無欲が無くなり、人的活動がはじまり、炁は気へと後退してしまいます。

故に先天坐により、気質を変化させ、胎息を得て、炁を練ることが元気を保つ秘訣であると、述べられている訓文であると考えます。)





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