講話:8つの幸福

2008年12月04日 | 生きる意味

 昨日、O大のチャペル・アワーでの講話を掲載させていただきます。

 もうすぐクリスマスという季節に寄せて、若者たちにメッセージを送りました。これまでキリスト教には縁のなかった学生がほとんどのようですが、静かに真剣に聞いてくれたようです。

                
  心の貧しい人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。

  悲しむ人々は、幸いである。
   その人たちは慰められる。

  柔和な人々は、幸いである。
   その人たちは地を受け継ぐ。

  義に飢え渇く人々は、幸いである。
   その人たちは満たされる。

  憐れみ深い人々は、幸いである。
   その人たちは憐れみを受ける。

  心の清い人々は、幸いである。
   その人たちは神を見る。

  平和を実現する人々は、幸いである。
   その人たちは神の子と呼ばれる。

  義のために迫害される人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。

                  (マタイによる福音書第五章三~一〇節)



 もうすぐクリスマスという季節になりました。「待降節・アドベント」といいます。チャペルの祭壇には四本の大きな赤いキャンドルのうち二本に火が燈されています。

クリスマスは、なんとなく心が温かになる季節で、愛や幸福という言葉にリアリティを感じることができる季節ですね。

 クリスマスにちなんで、今日は幸福ということについて、聖書、特にイエスという人がどういうことを言っているか、学んでみたいと思います。

 聖書の個所からおそらく感じるのは、イエスの幸福論は今の日本の常識的な幸福論とはまったくといっていいくらい違うということだと思います。

 みなさんは、もしかするとこんな考え方はわからないとか、意味がわからないとか、さらには間違っているという感じさえもつかもしれません。私は、そういう感じは大切にしたほうがいいと思っていて、聖書の言うことだからといって鵜呑み・丸呑みにはしないほうがいいと思っています。

 しかし、みなさん自身が成長の過程で体験してきていると思いますが、小学生の時にはこうだと信じていたことが、中学生になると幼稚で馬鹿げた考えに思えてきたり、中学生の時に考えていたことが高校生になるとなんて子どもっぽかったんだろうと思えてきたことがあるでしょう。

 それとおなじように、心が成長すると、今考えていることがまったく未成熟な考え方だったと思うことになるかもしれません。

 そういう意味で、今考えていることを絶対で今後変わることはありえないとは思わないほうがいいのではないでしょうか。

 新約聖書でいえば約二千年、たくさんの人の心を動かし育み支えてきた考え方を一度は学んで、自分の今の考えと対比してみるのもいいのではないかと思います。

 学んで、比べて、よく考えて、それでも今のままでいいという場合は、もちろんそれでいいと思います。しかし、みなさんの先輩の多くの方がそうであったように、学んでみると、それまでの自分の考え方よりも、聖書の教えのほうがより自分の人生のためになると思えることもあるのです。

 せっかく縁があってキリスト教主義大学に来たのですから、聖書が何を教えようとしているか、すぐに信じる必要はまったくありませんが、一度、学んでみるのも悪くないと思います。

 聖書のこの個所で、イエスはふつうにはちっとも幸福だと思えないことを幸福だと言っているようです。ここで語られているような人々は全然楽でもなければ、楽しくもなく、快楽や快感とはほど遠い状態にあります。それなのにイエスは、「幸いだ」と言うのです。それは、なぜなのでしょうか。

 よく読んでみると、そこにはなぜかがちゃんと語られています。

 「心が貧しい人々」が「幸い」なのは、「天の国がその人たちのものなる」からです。

 では、まず「心が貧しい」とはどういうことでしょう。それは、心の中が社会一般の価値やそれに基づいたいろいろな気持ちでいっぱいになっていない、という意味だと私は解釈しています。

 社会一般の価値観では勝つか負けるか、儲かるか損するか、安定したいい地位につけるかつけないか、自分の夢や希望が実現できるかできないか、などなどが問題です。そういう心でいると、勝ったり儲かったり実現した時はいいのですが、負けたり損したり実現しなかったりすると、失望したり、絶望したり、死にたくなったり、実際に死んだりしてしまいます。決して安定した穏やかな気持ちでいることはできません。いつも揺れ動いてしまうのです。

 それに対して心の中が空っぽで、社会一般の価値観から自由だと、そういうものに振り回されることがありません。徹底的に空っぽだと、まずまるで天国にいるかのような常識的な世界をまったく超えた安らかな気持ちで生きられるというのです。これは体験した人にはみんなわかることです。
 「天の国」と訳された言葉の原語は人間の領土・領域を超えたという意味の「天の領域」と訳すこともできます。死んだ後に、どこか空の上のほうにあるおとぎばなしのような国に行くということではない、生きたまま天国にいるような気持ちになれるということだ、と私は解釈しています。

 それは後の「心の清い」という言葉と重ねて理解することができます。心がどうでもいいこと、つまらないこと、いけないことなどなどでいっぱいになっていて濁っていると、自分がどこから来たか、いのちの原点を忘れてしまいます。

 しかし、心を空っぽにし澄ませると、自分が自分を生んだのではなく、自分が生まれたものであり、親も先祖もみんな生まれたものであることと、そのすべてのいのちを生んだ主体として何か大きなものに思い至るのです。もちろん聖書ではそれを「神」と呼んでいます。

 しかし、いつも言うのですが、その何か大きなもの、英語でいえば Something Great を神と呼ぶか、仏と呼ぶか、道と呼ぶか、あるいは大自然、宇宙と呼ぶかはそれぞれが自分にぴったりと来る言い方でいいと思います。しかし、ともかく私たちが、そういう大きな何ものかによっていのちを与えられたものだということは事実ではないでしょうか。だれか、自分で自分を生んだ人がいますか。

 心の中のつまらないものが空っぽになり、澄んでくると、私たちは自分のいのちの原点に出会えるのです。

 「悲しんでいる人々」が「幸い」なのは、「その人たちは」やがて必ず「慰められる」からです。

 この場合の「悲しみ」は、後の部分との関連で考えると、自分の希望がかなわなかったり、自分の大事な人や物を失った時の悲しみというのとは、ちょっと違っているようです。私たちの社会、世界に正義や平和が実現しておらず、たくさんの人が苦しんでいるということへの深い悲しみ・憐れみ・同情・共感のことだと思われます。

 そういう悲しみを感じながら、しかし「飢え乾いたように」正義を追求する人々はやがてきっと「慰められる」、必ずいつか願いが「満たされる」から「幸い」なのです。

 人々の苦しみに深い悲しみを感じる優しい心・柔和な心のある人こそ、この地球の後継者になるにふさわしいのです。人々だけではなくすべての生きものへの優しさに満ちた人こそ、世界をほんとうに持続可能な世界にすることができるでしょう。
 逆に言えば、そういう人がいなければ、この世界はやがて大変な危機に到り、崩壊してしまうかもしれません。

 しかし、イエスという人は、神、サムシング・グレイトの力によって、世界にはいつか必ず正義と平和が実現されると確信していたのです。そして、そういう世界を創り出すという神の計画・大プロジェクトに、いわばチーム・メンバーとして、あるいはチーム・リーダーとして全力で参加していくことが自分の生きて死ぬ意味だと深く目覚めていたのだと思われます。

 そういう「平和を実現する」ことに自分のいのち・人生のすべてを賭けている人間は、人間として最高の人間ということができるでしょう。そして、単に人間として最高という以上に、サムシング・グレイトによって与えられた――やがては必ず死ぬ、つまりいのちを返さなければなりませんから貸し与えられたといったほうがいいかもしれませんが――いのちを完全燃焼して生きることができる、人間以上の人間、サムシング・グレイトの子=天の子=神の子と言うことができるのです。

 イエスは、そういう人の代表的存在だから救世主・メシア・キリストと呼ばれたのです。そういうイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマス(キリストのミサ)であることは言うまでもないかもしれません。

 そうした人々は、言うまでもありませんが、「自分は何のために生きているのだろう」と悩んだり、「死んだらすべては終わりだから、人生は結局や空しい」と落ち込んだりすることはありえません。「生きていることはいいことだ」と心の底から思えるのです。

 たとえ、正義を追求するあまりそれに反対する人から「迫害されても」、それでも自分の生き方に満足できるし、生きていることはいいことだと思えるし、そして死ぬことをさえ恐れないでいられるのです。なにしろ、生きているあいだにすでに「天の国」にいるかのように感じているのですから、死んだらもちろんどんなかたちのものかはわからないにしても、ある種「天の国」に帰るのだと信じられるのです。

 人々の幸せと世界の平和のために徹底的に自分のいのちを完全燃焼させることができるという幸せは、常識的な幸福ではありませんが、ふつうの幸福以上の幸福である、とイエスは言っているのだと思います。そして、福音書全体を読んでいくと、イエスという人は、自らそういう生き方・死に方をした人です。

 自分のちっぽけな幸福やまして快楽や儲けにこだわりながら、結局は悩んだり空しかったりしているのと、自分のいのちを燃やし尽くしながら、自分の人生を完全に肯定できるのと、どちらを取るか、決めるのはもちろんみなさん自身です。

 祭壇のキャンドルを見て下さい。キャンドルは自らを燃やすことによって輝いています。自分を燃やさなかったら、輝かない、光らないのです。
 私たちの人生も、自分を守ろう、自己防衛をしようとしていては、輝かないのではないでしょうか。私はイエスの幸福論に大賛成で、燃えてこそ、輝き、その光でまわりを明るくすることができるのではないか、と思っていますし、そうありたいと思っていますが、最後もう一度、自分の人生をどうするか、決めるのはみなさん自身です。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする