環境問題と心の成長15

2009年08月14日 | 持続可能な社会

 欲望は肥大する?

 前回、「エコロジカルに持続可能な社会」を実現するための4つの象限の条件について述べたとおり、社会を構成している個々人が心の中で本気・本音で「環境と調和した生き方をしたい」と思っていることが、持続可能な社会の必須の条件の1つです。

 しかし、多くの人が、「エコロジカルに持続可能な社会」を構築する必要性について、建前としては賛成しても本音では無理だろうと思っていて、言葉はともかく実際の行動としては、対応を先延ばしにしたり、ほとんど何もしないであきらめたりしているように見えます。

 そうなっているのにはいろいろ理由があると思われます。

 先に述べたニヒリズム・エゴイズム・快楽主義の問題も大きいでしょう。

 特に快楽主義と関わる大きな理由の1つは、「人間の物質的な欲望は、基本的に限りなく肥大していくもので、抑えようとしても、それは不可能だ」と思い込んでいる人が多いことではないかと思います(ここであえて「思い込んでいる」という言葉を使わせていただきます)。

 社会の主流―主導権を握っている人々の発言を聞いているとそのようですし、国民のかなり多数もそのようです。

 「人間の欲望は、豊かになればもっと豊かになりたくなるし、便利になればもっと便利にしたいと思い、贅沢すればもっと贅沢したくなるもので、それはしかたがない、たとえ環境が破壊されると言われても、それなら私(たち)の利益への欲望はほどほどに抑えます、と言えないのが人間というものだ」と思い込んでいるために、「高度経済成長型の社会はやめられない。それはしかたがないことだ」と思っているようです。

 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? ほんとうにそうだとしたら、環境問題については絶望するほかありませんが、ほんとうはそうではないと私は考えます。


 欲望についての3つの考え方

 そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に3つの考え方があると思われます。

 第1は、先にも述べたような「欲望は限りなく肥大するものである」という考え方です。日本の指導者もその支持者としての国民も含む日本の主流の「本音」はこれだと思われます。

 第2は、「建前」として、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるのだ」という考え方です。多くのエコロジー派の方はこういう言い方をします。

 しかしこれは、社会全体としては欲望を抑えようとしない人が多数・主流ですから、なかなか実行できません。

 一部の、建前を大事にする、自分の欲望を抑える気のある人は努力をするのですが、建前を貫く気のない人は抑えられず、全体として欲望の肥大を抑えない、それどころか購買意欲という欲望をますます掻き立てるという方向に走ってしまうというパターンです。

 そういう、「本音でいく人」対「建前を貫こうとする人」というパターンで、多数・主流の経済成長派と少数・反主流のエコロジー派がにらみあってきたのが、ここのところ40年ほどの日本社会の構図ではないかと思われます。

 しかし、社会の方向性・流れを決める力のあるのが「主流」ですから、当然ながらこれでは社会の流れは変わらず、したがって問題解決はできません。

 第3は、人間性心理学者エイブラハム・マズローが提唱した、「欲望は、もともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、治療できる」という画期的な捉え方です。

 私は、個人としての人間の心の問題を解決する確実な糸口となるのが、こうした欲望の理解だと考えていますが、残念ながらまだ多くの人が理解するに到っていないようです。

 この捉え方が画期的だというのは、もしほんとうに欲望という心の働きが、人間にとって変えようのない本性なのではなく、成長の過程での歪みがもたらしたものであって、適切な方法によって節度ある自然な欲求へと治療することが可能であるとしたら、エコロジカルに節度ある持続可能な社会の構築を可能にする4つの条件の1つが充たされる可能性があるということになるからです。

 それに対して第1の考え方のように、もし欲望が人間の本性として抜きがたいものであり、かつ無限に肥大するものであれば、人類の未来についてはあきらめるか、さもなければ、「技術の進歩でそのうち何とかカバーできるようになる」と信じ込むほかないでしょう。

 しかしすでに連載の前半でお話ししてきたとおり、地球の資源も自己浄化能力も有限ですから、技術の進歩だけで解決はできない、社会のあり方そのものを変えなければならないということは、原理的に明らかなのではないでしょうか。

 そして、欲望の肥大が止められないものだとすれば、必然的に人類の未来については絶望しかないという結論に到ります。

 第2の捉え方では、「抑制すべき」とか「抑制できるはず」という考えに反して、現実として人類は全体として欲望肥大の方向に向かっているという事実をうまく理解・分析ができませんし、したがって適切・有効な対処もできません。

 うまく理解・分析できないまま、「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りないからで、これからトレーニングをすればなんとかなる。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的にコントロールできるようになるはずだ。そういうことをそれぞれができる範囲でねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなって世の中が変わるだろう」と考えることになります。

 確かに、スウェーデンなどの「環境先進国」の環境教育を考えると、個々人の努力の積み重ねの上に、さらに加えて国を挙げて、つまり政府主導で国民全体に対してしっかりとした環境教育を行ない、政府自身建前ではなく本音で有効な環境政策を実行するならば、相当程度、こうしたことも可能なようです。

 前回、4象限のところでお話した、左下・集団の内面の象限、つまり文化全体が環境志向になっていれば、左上・個人の内面、それぞれの欲求のあり方も影響を受けて、環境志向になる強い傾向をもつでしょう。

 しかし、深層心理学の洞察によれば、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分のほうが圧倒的に深くて強い」という面があると考えられます。

 つまり体験的に言っても私たちの欲望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。

 「理屈ではわかっているんだけど、言われるとわかっているんだけど、でもそうしたい」、つまり心の奥から湧いてきて、私たちを駆り立てるというところがあると思います。

 理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でも何かに衝き動かされてやめられないということがしばしばあります。

 しかし、こうした、人間の心には深層という部分があることは今教育の世界の常識にきちんとなっていませんし、まして国民的な常識にはなっていません。

 そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行動のできるような意思が確立できるはずだ」と考えて、いいことを一生懸命教えるのですが、いくら教えても必ずしも実行しない、できないことがあります。

 それはなぜかというと、実行したくない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎり、説明がつかない、と私は考えています。

 深層心理学的な視点からすると、欲望の源泉は意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識を深いところから揺り動かし操るものです。

 だから、意識・理性・意思による直接的なコントロールが難しいのです。

 仏教の深層心理学ともいうべき唯識のコンセプトで言い換えれば、意識上の「貪・むさぼり」という煩悩はマナ識に潜む我癡・我見・我慢・我愛という根本煩悩からいやおうなしに湧いてくるものであって、マナ識、アーラヤ識という深層が浄化されないかぎり「無貪・むさぼりのないこと」という善は完全には実現しない、ということになるでしょう。

 欲望・貪の源泉は心のきわめて深いところにあるために、無意識への洞察がなければ、第1の捉え方のように、「限りなく肥大していくもので、どうしようもない」ように見えてしまうのです。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。

 ですから、無意識の問題を捉えないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするアプローチには――先に言ったように社会全体で合意して行なえれば相当な効果はあるにしても、それでも――限界があると思われます。

 教育・理性・意思によるコントロールというアプローチに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という発想も必要だ、と私は考えています。

 次回は、マズローの「欲求の階層構造仮説」を手がかりに、そのあたりを考えていく予定です。




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