心の成長と自我中心性の克服
すでに連載第14回で結論を先取りして、「環境と調和した生き方をするのが、いちばんいい生き方でいちばん幸せなのだと感じるような個人の欲求構造」を育むことができれば、環境問題の解決に不可欠な4つの象限にわたる条件のうち個人の内面の問題については見通しがつくのではないかということを述べました。
さらにマズローの仮説をご紹介しながら、そうした欲求構造を育むことは可能だということ、さらに仏教と関わって自我と無我は対立概念ではないこと、自我以前―自我確立―自己実現―自己超越という心の発達段階を想定できることを述べてきました。
続いて本号以下数回にわたって、アメリカの思想家ケン・ウィルバーが児童発達心理学の世界的権威であるピアジェの理論を参照しつつ展開した心の成長・発達に関する仮説を手がかりに、心の成長のどういう段階に到れば環境問題解決の目途がつくのかを考えていきたいと思います(拙著『自我と無我』〔PHP新書〕の読者には、要約紹介という性格上かなり重複せざるをえなかったことをお断りしておきます)。
ピアジェは、子どもの心、特にものの見方・認識の発達を徹底的な実験・観察によって研究し、新生児から自我が確立するまで、直線的にではなくいくつかの段階を踏んで発達していくことを明らかにしています。
その学説は、非常に厳密な科学的な手続きを経て作られましたが、初期には研究されたのが西洋人の子どもだけだったので、西洋人にしか当てはまらないのではないかという批判もありました。
しかしやがて欧米以外の地域でも追試がなされ、人種や文化に関わらずだいたい同じステップを踏むことが追認され、以後細かな修正は別にして、ほぼ定説として合意されているようです。
ウィルバーは、ピアジェの学説を援用しながら心の発達段階を巧みに整理していますが、特に重要なことは、自我の確立していない赤ちゃんのような状態が覚りなのではなく、自我のない状態から自我を形成・確立し、そのうえで自我を超えていくのが覚りだという見通しをつけたうえで、自我以前から自我確立までにとどまらず、さらに自我を超えていく段階まで含んだ発達段階の仮説を構想していることです。
すでに1980年の『アートマン・プロジェクト』(吉福伸逸・プラブッダ・菅靖彦訳、春秋社)でアウトラインを示し、1996年の『進化の構造1』(松永太郎訳、春秋社)で、より広い世界観・宇宙観・コスモロジーのコンテクストの中で整理しなおしています。
その後、さらに2000年のIntegral Psychology(未訳)や2006年の『インテグラル・スピリチュアリティ』(松永太郎訳、春秋社)でいっそう厳密・詳細な考察をしていますが、本稿では、『進化の構造』での整理が簡略で理解しやすいので、そちらに沿って紹介していきます。
これまで述べたことに関わって言うと、〈自我〉はもと仏教の用語で、意味が重なっているため〈エゴ〉の翻訳語に当てられたものですが、〈自我〉にせよ〈エゴ〉にせよ定義が不明確なまま使われがちで、日本でもアメリカでも混乱が起こっています。
予め述べておくと、〈エゴ〉は、広い意味では〈自己〉あるいは〈主体〉を意味しており、ピアジェは、「他者や周りの環境と自分を差異化・区別のできる〈自我・エゴ〉が確立されることによって、かえって『自我中心性』が克服される」と言っています。
言葉の印象では矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、これから順に述べていくと理解していただけるように、ここがきわめて重要なポイントなのです。
ピアジェは子どもの認識の発達段階を、感覚‐運動期、前操作期、具体操作期、形式操作期の四つに分けて捉えています。
ウィルバーは、それらをさらにゲプサーという思想家が述べた人類の発達段階と対応させながら、どのように自我中心性が克服されていくかを明らかにしています。
感覚‐運動期――自分と他者の区別がつく
心の発達の第一段階は、「感覚‐運動期」と呼ばれます。
新生児は、心といっても感覚と運動だけの状態にあり、まだ自己と世界の区別ができていないと思われます。
そういう意味で世界と融合状態にあるとも言えますが、しかしそれは分化したうえで統合されているのではなく、単純に未分化であり、いわば混融しているわけです。
しかも、それは物質的‐生理的なレベルの世界との未分化状態であり、まだ言葉も理性ももちろん霊性も獲得しているわけではありません。
そういう意味で、「赤ちゃんの心の状態は、言葉や理性を含んで超える自己超越という意味での覚りとは明らかにちがうものだ」とウィルバーは指摘しています。
これは、これまでしばしば語られた「覚りとは赤ん坊のようになることじゃ」といった混同・混乱をみごとに整理するコロンブスの卵的に画期的な洞察だ、と私は評価しています。
赤ん坊の世界との一体感・無心と、言葉や自我や理性をいったん獲得したうえで、それを含んで超えた、覚者における世界との一体感・無心とは、「一体感」という点では似ていても、発達心理的・質的にはまったくちがうものだといってまちがいありません。
赤ちゃんは誕生して1年の間に、手を動かしたり、足をばたばたさせたりして、運動を通じていろいろ試しながら、自分と外の世界の区別を感じていきます。
ウィルバーは、この段階の学習‐発達の特徴を非常にわかりやすくおもしろい言い方で表現しています。
赤ちゃんは、「自分の指をかむと痛い、毛布をかむと痛くない」というかたちで、運動‐感覚を通じて外の世界と自分とのちがいを知っていくわけです。
物理的世界と自分の区分が認識できていない段階の赤ちゃんの心の世界では、自分がワーンと泣くこととお母さんが来ることとおっぱいが与えられることとがいわば混融状態のセットになっています。
ところが、自分が泣いてもお母さんが来ない時や、おっぱいがすぐに飲めない時があるという体験を通して、私とお母さんは別の存在なのだということがだんだんわかってくる、つまり区別ができてくるわけです。
そして2歳の終わり頃になると、言葉を覚えるのと並行して、自分と他者や物理的な世界との区別がわかってくるといいます。
発達の第一段階では、そういうかたちで心の中にお母さんとも物理的環境ともちがう「自己」が感覚‐運動的に確立されてきます。
前操作期――ものごとをコントロールする思考が身につく
次は「前操作期」で、「あれとこれとは別のもので、あれとこれをこうするとこうなる」というふうに、ものを操るための思考ができ始めた段階で、母親の体と自分の体、母親の気持ちと自分の気持ちが次第に区別できるようになり、言葉を覚えることで、「私は○○ちゃんだ」という自我の始まりの意識が形成されてきます。
この段階では、自分の身体と周りの環境や母親の身体は区別され始めていますが、心の中のイメージやシンボルや感情と外界との明確な区別は十分にできていません。
そういう段階にある子どもは、例えば、歩きながら月を見て、「お月さまが自分についてきている」と思います。
大人には、月との距離が非常に離れているために自分が動いても見える角度がほとんど変わらないだけで、自分についてきているわけではないということがわかっているのですが。
その子に、「君はこっちに向いて歩いてる。だけど、○○ちゃんは反対に歩いているね。そうすると、お月さまはどちらについていってるのだろう」という質問をすると、混乱して答えが出せません。
それは自分と月と友達をそれぞれ別の存在として十分に区別・差異化できていないからなのです。
自分と外界が混同されている状態では、世界は自分の感情や自分の欲求に対応してできていると感じられ、外界は自分の思いどおり・欲求どおりになるはずだ、私がこう思い、そしておまじないをすると世界はそうなると思っているのです。
ピアジェは、「この段階は、人類の発達段階とも対応しており、ほぼ呪術段階に当たる」と言い、すべてを自分との直接的なつながりがあるものと考えるという意味で、きわめて「エゴ中心的な思考」をしている、と指摘しています。
この段階では呪術的な思考をしていますが、だいたい6歳までに次第に「私にはできないが、私より力のあるパパやママならばできる。パパやママにもできなくても、神さまなら世界を思いどおりにできる」つまり「神さまのようなものによって世界が動かされている」という神話的な思考の段階に移行していきます。
移行段階の子どもがとても可愛いのは、例えばイスにつまずいてワーンと泣いた時、お母さんが「悪いイスね。ぺんぺん」とイスをたたいて見せ、それから子どもの足をなでながら、「痛いの痛いの飛んでけ」と言うと、それで気が済んで痛いのが治ってしまうことです。
大人は、ただの子どもだましだと思うかもしれませんが、大人自身がかつてそういう段階を体験してきたからそれができるわけです。
もう一つ可愛いのは、子どもたちの住んでいる町の近くに小さな山と大きな山があり、子どもたちに、「どうして大きなお山と小さなお山があると思う?」と聞くと、「大きなお山は大人が登るため、小さなお山は子どもが登るためにあるの」と答えるという例です。
つまり、自分の内面の世界と世界の構造が直接的・癒着的につなげられており、そこに神話的な意味づけがされているという意味で、ここでも「エゴ中心的な思考」がなされています。
ここでテーマに関連して重要なことは、ここまでの発達段階では、子どもはエゴ中心的に外界・環境と一体化あるいは混融した心理状態にありますが、けっして理性的でエコロジカルな認識をもっているわけでも、非常に複雑に文明化した世界の中でこれからエコロジカルに持続可能な社会をどうすれば構想できるかということを考える能力をもっているわけでもないということです。
私自身、かつて「童心に帰る」ことや「自然に帰る」ことへの強い共感をもっていましたので、大人が童心、すなわち子どものような自然と一体化した心に帰っても、そのことによって自然と調和した社会システムを創り出すことができるようにはならない、ということへの気づきは衝撃的でした。
とはいっても今でも、童心に帰ることや自然に帰ることには大きな感性的な価値や癒し効果があり、大切にしたいことだと思っていますが、もう一方、「環境問題」を本当に解決したいのなら、それだけでは不十分だということも認める必要があると考えています。
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