大般若経の愉しみ 1

2010年01月04日 | 心の教育

 去年の春先、テレビで、『大般若経』全六百巻の百巻ずつが入った箱六つを棒につるして前後二人ずつ計十二人でかつぎ、集落の家々をめぐり、縁側から土足で座敷に上がって家の中を通り抜けて、一年の無病息災を祈るという年中行事が報道されていた。

 箱つまり『大般若経』の下をくぐると病気にならないと信じられていて、お年寄りだけではなく若い人もくぐっていた。

 心安らぐ「日本の原風景」の一つという感じがして、こういう習わしをまだちゃんと残している地方があるのだな、とうれしい気がした。

 今年もまた同じように続けられるのだろうか。

 ただ、失礼ながら、かついでおられた方もくぐっておられた方もその『大般若経』に何が書いてあるかはおそらくあまりご存知ないのではないかと思った。

 そういう私も、かつてはまったく知らず、去年の暮、約三年かけてようやく読了したところなのであるが。

 般若経典自体に、それを尊重するだけでも様々な利益があると書いてあるのだから、昔の善男善女が素直な心で信じたことに不思議はないし、また実際、いろいろ霊験あらたかな体験談も伝えられているようだ。

 先祖からの習わしを習わしとして伝えることも、とても大切なことだと思う。

 しかし、縁あって読む気になって読み進み、自分なりに理解できるようになると、これはただ習わしとしてかたちを伝えるだけでなく、やはり中味も読んで理解したほうがもっといい、ぜひそうすべきだ、『大般若経』はそれだけの大変な英知・真理の言葉が秘蔵されているすばらしい古典だ、と思うようになった(すでにおわかりの先達には笑われそうな再発見である)。

 『わかる般若心経』(水書坊、後『よくわかる般若心経』と改題しPHP文庫、現在絶版)の原稿執筆をきっかけに『金剛般若経』『善勇猛般若経』『八千頌般若経』(いずれも中公文庫に現代語訳あり)なども読み、おもしろい、というと適切ではないかもしれないが、大乗仏教空思想の深さ・すばらしさに改めてさらに興味が深まり、かなり長い『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳、昭和新纂国訳大蔵経)も半年以上かけて読み、その勢いで、あまりにも長いので一生読むことはないだろうと思っていた『大般若経』(玄奘訳、国訳一切経)もとうとう読む気になった。

 そして読みながら、読んでも読んでもちっとも終わらない、しかしおもしろくてしかたない、だからいつまでも終わらなくていいと思うような、大長編の名作を読んでいるような感銘を覚えながら、やがて結局読み終えた。

 最初の章(「初分縁起品」(しょぶんえんぎぼん)に、実に壮大で美しいシーンが描かれていたのを、私訳でご紹介してみたい。

 少し長いのだが、意識的にイメージしながら読むと、どこかの仏教遺跡の洞窟などにありそうな荘厳かつ絢爛豪華な壁画のような絵が心に浮かんでくるだろう。


 この時、世尊は獅子座におられ、光明はことさらすばらしく、威徳は堂々として、全宇宙(三千大千世界)およびその他あらゆる方向にあるガンジス川の砂ほどにも多い諸々の仏の国土、シュメール山、輪囲山など、およびその他の龍神の天宮あるいは浄らかな住まいの姿を覆い隠してしまうのは、あたかも秋の満月が星々を光で包んでしまい、夏の太陽の光が様々な色を奪ってしまうようであり、四つの大いなる宝に満ちた山々の王者妙高山が他の諸々の山に臨むとその威光が際立って勝れているようであった。

 仏は、神通力をもって元の目に見える身体を現わされ、この全宇宙の生きとし生けるものすべてがみなことごとく見えるようにされた。

 その時、この全宇宙の数え切れない数の清浄な住まいに住む天人たちから、下は欲望ある世界の四大王衆天たち、およびその他の人間や人間でないものたちまでみな、如来が獅子座におられて、その威光の輝くことは大いなる金色の山のようであるのを見て、歓喜し躍り上がり、かつてないことだと感嘆し、それぞれ種々無量の天の花、香り、髪かざり、塗る香料、焚く香料、粉の香料、衣服、飾りのついた冠、宝の旗、覆い、音楽、諸々の宝、および天の青い蓮の花、天の赤い蓮の花、天の白い蓮の花、天の香る蓮の花、天の黄色い蓮の花、天の真っ赤な蓮の花、天の金のなる樹の花、および天の香る葉、ならびにその他数え切れない水や陸に咲く生花を持って、仏のおられるところにお参りし、仏の上に撒き散らしてさしあげた。

 仏の神通力によってもろもろの花飾りなどが渦を巻いて舞い上がり合わさって花の台になった。

 その量は全宇宙に等しく、天の花の蓋いが垂れ下がり、宝の下げ飾りや宝石をちりばめた旗がめくるめくほどきらきらとして、実にすばらしかった。

 この時、仏の国土の荘厳な美しさはまるで西方の極楽世界のようであった。

 仏の光は全宇宙のすべてのものを照らし大空はすべて金色に染まった。

 あらゆる方向のガンジス川の砂ほどにも多い諸々の仏の世界もまたそのようであった。

 その時、全宇宙の仏の国土、その中の諸々の人々は、仏の神通力のためにおのおの仏が自分の真正面に坐っておられることを見て、全員がこう思った、

 「如来は、私一人のために説法してくださるのだ」と。

 そのように四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天、梵衆天、梵輔天、梵会天、光天、少光天、無量光天、極光浄天、浄天、無量浄天、遍浄天、広天、少広天、無量広天、広果天、無繁天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天も、また仏の神通力のためにおのおの仏が自分の真正面に坐っておられることを見て、全員がこう思った、

 「如来は、私一人のために説法してくださるのだ」と。


 シーンを鮮やかにイメージできて、色彩豊かなきらびやかさに幻惑され感嘆するかもしれないし、あるいは「こんな現実性のないたあいもない空想なんてなんの意味があるんだ」と思うかもしれない。

 読み方・感じ方は多様だろうが、筆者は、神話的表現方法をとおして語られている中味がより重要だと感じる。

 それは、誰にでも当てはまるという意味で「普遍的な」真理の言葉というものは、にもかかわらず、それを聴き理解しえた者にとっては、まるで「私のため、私一人のために語られた言葉」であるかのように感じられるということである。

 原漢文では「如来独り為に説法したまう」となっている。

 真理は誰にでも当てはまるはずのものだが、ただ平たく誰でもいい誰かに当てはまるというのではなく、誰でもない「他ならぬ私」に当てはまるもの、「かけがえのないこの私」にこそ当てはまるものでなければならない。

 特に宗教的真理はそうだ。

 外側のものごとに関する真理はともかく宗教的真理は、他と取替えのきかない他ならぬこの私すなわち「実存」に響いてくるものなのだ。

 よく知られている「みだの五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という親鸞聖人の言葉もそのことを示している。

 鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』の序品にもほぼおなじようなシーンと言葉があり、いっそう端的に「仏独り我が為に法を説く。余人のためならず(仏はただ私一人のために法を説いてくださる。他の人のためではない)」となっている。

 しかし、あえて『大般若経』を紹介したのは、場面設定として、全宇宙に存在する神々や人間、その他数え切れない生きとし生けるものをあげながら、しかも「其の中の諸人、仏の神力の故に、各各に仏の正しく其の前に坐したまえるを見、咸(みな)謂(おも)えらく、如来独り為に説法したまう」といっているところが、表現として実に的確だと思うからだ。

 「空」や「般若波羅蜜多」というある種抽象的な概念ではなく、具体的な姿に現われた人格的な仏が、他の誰でもなく私という人格に、一対一で真正面から向き合ってくださり、聴衆一般でも他の誰でもなく私一人のために真理の言葉を語ってくださっている、とそれぞれ一人ひとり全員に感じられるのが、ほんものの説法が語られ、聴かれるということなのである。

 筆者も「大般若経独り占め」という気分で学びながら、やがて独り占めするのはあまりにもったいないという気がしてきて、人に紹介したくなった。

 これも、物書きのカルマというものかもしれない。




国訳一切経 (和漢撰述部 経疏部 17)

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