大般若経の愉しみ 2

2010年01月05日 | 心の教育

 大般若経の六百巻というボリュームを読み続けることができたのは、一つには実にいろいろな気づきという愉しみがあったからである。

 例えば以下のような、ある意味でいえば大乗仏教の常識のような句からも気づきを得られた。


 若し菩薩摩訶薩、世世に一切の煩悩業障(ごっしょう)を遠離(おんり)し、諸法に通達し心罜礙(けいげ)無きを得んと欲せば、応に般若波羅蜜多を学すべし。
                               (大般若経初分学観品)

 もし菩薩大士が、世々に一切の煩悩やカルマの障害から遠く離れ、諸々の存在〔の本質〕に通じ、心を覆うものをなくしたいと望むなら、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである。


 それまでの仏教(部派仏教、大乗からいえば小乗)に対抗して大乗仏教が強調した人間像が、菩薩(ボーディサットヴァ、覚りを求める人)=大士(マハーサットヴァ、すべての人の救いを求める心の大きな人)である。

 もし菩薩が、前世で蓄積され現世へと伝わってきた煩悩・カルマの障害から離脱し、すべての存在の本質に通じ、明るい真理を見えなくさせ人生を真っ暗に見せる心の覆いを取り払いたいのならば、通常の分別的理性を超えた無分別の智慧の実践を学ぶべきだ、というのだ。

 つまりもっと平易で現代的な表現をすれば、もしかしたら遺伝的なものかもしれない、ついついすぐに悩んでしまうようなしつこい心の癖(ばらばらコスモロジー)をなくして、明るく悩みなく生きたいのなら、ふつうの知恵では足りない、もっと深い智慧(つながりコスモロジー)を学ぶべきだ、ということである。

 これは、まさにそのとおりと言うほかない。

 ところで余談のようだが読んでいてふと気付いたのは、上記のような「もし~ならば、~べきだ」という文章のパターンである。

 これは論理療法でいえば「条件付きmust」であって、裏返せば「もし~でないならば、~しなくてもいい」ということでもある。

 大乗仏教における「べき」は条件付きであって、強制的な義務ではないというところがとてもいい、と思う。

 仏教の話をすると、しばしば「悩みがあるほうが人間的でいいんじゃないですか?」という反論的疑問が出てくる。

 もちろん、もしほんとうに悩んでいるほうがいいと思うのならば、とりあえず智慧の学びはしなくていいわけだ。

 しかし、私は「ほんとうにほんとうだろうか?」と思うし、さらに「自分が悩むのはある意味で自由だけれども、人を悩ませるのは自由ではなく身勝手なのではないだろうか?」と思う。

 「煩悩」とは、自分の悩みというだけではなく、人を悩ませることをも意味している。

 人間が人間を悩ませ傷つけることのない世の中にしたいのならば(これも「ならば」という条件付きである)、やはり煩悩という心の悪い癖を治さなければ「ならない」のではないだろうか。


 若し菩薩摩訶薩、一切の煩悩の習気を抜かんと欲せば、応に般若波羅蜜多を学すべし。
                               (大般若経初分学観品)

 もし菩薩大士が、一切の煩悩の習気を抜きたいと望むならば、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである。


 自分をも人をも悩ませるという人間の心の性質(たち)の悪い癖は、心に染みついてなかなか抜き難い。

 その染みついて抜き難い心の癖を「習気(じっけ)」という。

 習気を心の奥底から抜き取り、心を根本的に浄化したいのならば、ふつうの知恵を超えた智慧を学ぶべきである、学ぶほかない、というのは、医療用語を借りれば「インフォームド・コンセント(情報提供をしたうえでの同意)」であって、強制ではないのである。

 大般若経の現代風にいうと第二章「学観品」には、こうした「もし~ならば、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである」という句がきわめて多数ある。

 この他にも心に響く句がいくつもあったけれども、今日はこのくらいにしておこう。




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