ここのところ、原発と放射能について、いかに危険だったのかということを改めて学んできわめて憂慮しているという記事ばかり書いていましたが、身辺の忙しさとあわせて、「こんなことばかり読んでも、読者は元気にはならないだろうなあ」という思いがあって、書く気持ちが停滞していました。
先日、NHKTVの報道で、避難勧奨地域の家庭で、お母さんや家族が食事などで集まるたびに放射能の話をしていたら、それを聞いていた小学低学年の女の子が「どうせ私に未来はないんでしょう?」と言ったという話が紹介されていました。
これは、この子一人のことではなく、こういう気持ちでいる子どもがたくさんいるのだろうと推測され、小さな子どもにこんな言葉を言わせるような状況に至らせてしまったということに、大人として深く深く胸が痛んでいます。
それもあって、大人として、もの書きとして、ただ危機の深刻さについて語るだけではなく、にもかかわらず希望はあるということももっと語らなければならないと思うようになりました。
確かに大きくて困難な問題があることは確かですが、それは「希望はゼロ」ということではありません。
人間には死ぬ瞬間まで未来はあります。未来があるかぎり、希望もあります。未来は未だ来ていないのですから、どうなるかはわかりません。必ずよくなるとは限りませんが、必ず悪くなるとも決まっていないのです。
未来があるかぎり、今よりよくなる可能性はゼロではない、ゼロではないものはどんなにわずかでも「ある」のです。
まず、「どうせ私に未来はないんでしょう?」というきわめて悲観的な疑問的な断定は、論理療法的な言葉を使うと「過大視」です。
大人自身が心配のあまりそのことばかり考え、過大視して、ついつい子どもが聞いているところでもそういう話ばかりしているのでしょう。
また大人もこうした状況の中で、何に、どこに、希望を見出せばいいのか、わかりにくくなっているのは、私もそうですから、気持ちはよくわかります。
そういう話ばかり聞いていた子どもがそういう気持ちになるのもよくわかります。
しかし、まず大人は自覚したほうがいいと思うのは、「かなり大きくて困難な問題はあるが、未来はあるし、希望もある」という事実だと思います。
危険と同時にどういう希望があるかについても、私の考えられる・言えることを、今後いろいろ書き続けたいと思っていますが、今日はまず以下のポイントについて書きます。
確かに微量でも放射能は危険ですし、特に内部被曝は危険です(前回の記事で紹介した『内部被曝の脅威』ちくま新書、参照)。
しかし、微量の内部被曝の場合の危険は、今日明日に死んでしまうという危険ではありません。ですから、おそらくまちがいなく、明日=未来はあるのです。
そのことを専門的には、「確定的影響」と「確率的影響」という言葉で区別しているようです。
今、子どもたち(および私たち)が曝されている危険は、「確率的影響」です。被曝量によって、将来ガンになる危険が0.1%とか1%とか増えるという危険なのです。
それはもちろん無視していい、気にしなくていいような危険ではありません。いろいろな面で、なるべく早く、なるべく少なくする最大限の努力をしなければなりません。
しかし同時に、だからといって全員が全面的に絶望するほかないような、「必ず」「すぐ」「みんな」ダメになるという危険ではないことをしっかり認識しておきましょう。
多くの子どもの場合、すぐに健康が害されることはなく、そういう意味で未来はあり、未来があれば、未来にいろいろと楽しいことをしたり、すばらしい体験をする可能性は確実にあるのです。
そういうことが理解できそうな子どもには、「確かに問題はあるんだけど、でも、未来はあるし、希望もある。これから、いろいろ楽しいことをしたり、すばらしい経験することは、きっとできるよ」と言ってあげましょう。
もっと深く理解できそうな子どもには、何が問題か、どうしたら解決できそうか、どういうことに取り組めばいいか、大人が理解できた範囲で伝えて、共有していきましょう。
そのためには、もちろん大人が必死になって、問題を理解し、解決法を学び、見出し、行動していく必要があります。
つまり、子どもに希望を持たせるには、まず大人が希望を見出す必要があるのです。
大人が希望を見出して行動すれば、子どもたちもきっと希望を共有してくれるはずです。
これからの時代は、取り組まなければならない問題が山積しているという意味で,
いわば戦いの時代であり、理解力と行動力のある子どもたちはこれから年下の「戦友」になってくれるでしょう。
そういう意味でも希望はあります。
「持続可能な国」は、大人だけが作って次の世代に与えるものではなく、若者や子どもと一緒になって創っていくものだと思います。
そういう理解がまだむずかしそうな子どもには、たとえ演技であってかまいません、大人が、自信を持って、自信ありげに、「なんとかなるから、私たちがなんとかするから、だいじょうぶだよ!」と言ってあげるべきではないでしょうか。