汚染水浄化技術の一歩前進

2011年07月11日 | 原発と放射能

 吉岡斉『原子力の社会史――その日本的展開』(朝日選書、1999年、品切れ中)によれば、「……放射性廃棄物処分施設(高レベル、中低レベル)についても、一九七〇年代半ばすぎに検討が開始されたばかりであった。次々と発電用軽水炉が運転を始め、現実に大量の廃棄物を生み出すようになってから、廃棄物の後始末について検討されるようになったのである。ようやく一九七六年一〇月八日、原子力委員会は「放射性廃棄物対策について」という基本方針をまとめた。そこでは、高レベル放射性廃棄物について、二〇〇〇頃までに見通しを得ることを目標に、調査研究と技術開発を進めるという方針が示された。」(186頁)とのことです。

 しかし、2010年を過ぎても、見通しは得られていないようです。

 「放射性廃棄物」の「処分」についてさえこんな状態ですから、「放射能汚染の除去」の技術開発がもっと遅れているだろうということは簡単に推測できます(今後もう少し調べてみますが)。

 しかし、それでも良心的な科学者・技術者による努力は少しずつ進んでいるようで、少し希望が見えます。

 一昨日の朝日朝刊によれば、京都大学によって、原発の汚染水の浄化について、現在使われているフランス・アレバ社のものより、時間も経費も浄化後にも残ってしまう放射性廃棄物の量も少ない優れた技術が開発されたとのことです。





 メンツや既得権益で無視されることなく、ちゃんと評価され、ちゃんと使われることを願わずにはいられません。

 それにつけても、今からでも、大急ぎで、放射性廃棄物の処理技術、汚染の除去技術、特に体内汚染の除去技術、放射線による障害の治療技術、特に遺伝子レベルでの治療技術などの調査研究と技術開発が進められる必要がありますし、人材と費用を投入すれば必ず進むでしょう。

 私たちは、科学技術以前の世界に戻ることはできません(できるものなら戻りたいような気もしますが)。

 だとしたら、科学技術によってもたらされたマイナスを解決・解消するには、それを超える真に人間全体のいのちの持続可能性に向けた科学技術を進歩させるほかありませんし、それは可能なはずです。

 政治不信によって政治の汚染が浄化されないのとおなじく、科学・技術不信によって科学・技術による環境汚染が浄化されることはない、と思われます。

 次世代の子どもたちへ――「科学ぎらいにならないで、新しい科学で古い科学を超えていこう! きみたちなら、できる!」