このネット授業で、かつて、ものごとがどう見えるかはかなりの程度見方しだいだということを学びました。
それは、地震-津波-原発事故そして復旧・復興の遅れ、不確実な収束、放射能汚染についても言えることだと思います。
特に放射能汚染について、心配のあまり絶望的な気分になっておられる方が少なくないようなので、ここで意識的に希望を持つために復習をしてみたいと思います。
①事実あるものごとは、目を開ければ見えるが、目を閉じれば見えない。見えないとないような気がしてくる。
②事実あるものごとは、目を開けていてもその方向を見ていなければ見えない、その方向を見れば見える。
③事実あるものごとは、見る距離によって見える大きさが違ってくる。近づけて見れば大きく見え、遠ざけて見れば小さく見える。
3・11の後、放射能の危険さについて、私たちはいやおうなしに目を開かれ、そちらに目を向けさせられ、特にあまりにそのことに目を近づけて見過ぎて、他のことが見えないという状態になっているのかもしれません。
十円玉を親指と人差し指で持って片目をつぶり、開いている目のすぐそばまで近づけて見ると、視界は十円玉でいっぱいになり、まるで世界が十円玉だけで出来ているように見えてくる、というワークをやりました。
私たちは、放射能についてそういう状態に陥っているのではないでしょうか。
世界中が高濃度の放射能だらけで、すぐにでもみんなガンになりそうで、もう何の希望もない、と見えているのかもしれません。
その気持ちは私もほんとうによくわかります。
しかし、学んだように、視界=世界ではありませんでしたね。
不幸中の幸いと言うべきでしょう、福島原発のすぐそばを除くと、確かに汚染はされているのですが、まだ「ただちに健康に害のある量ではない」という状態で、「やがてガンになる確率が高くなる」危険(0.1%から1%くらい?)はありますが、「すぐに全員がなる」のではなさそうです。
あえて言うと、絶望するのは放射能の危険を過大視しているためであって、もちろん心配をし、できることはしなければなりませんが、ここで子どもや自分の人生が終わるわけではなく、そういう意味で未来はまちがいなくあるのであり、したがって希望を持つこともできるという、他の面、より広い面を見ることも忘れないでおきたいものです。
そして何よりも、私たちは生きているかぎり、愛されたり・愛したりすることができます。
たとえ放射能に汚染されても、病気になっても、愛されたり・愛したりするという体験をすることの可能性はこれからも生きているかぎりなくなりません。
ただちに命にかかわるような量でないかぎり、放射能が愛の可能性を汚染したり破壊したりすることはないのです。
愛されたり・愛したりする未来への希望を捨てる必要はまったくありません。
そして、時間があると思うとかえって気がゆるんで大切な人への心づかいがなくなりがちで、時間が有限だという覚悟があってこそ人への思いが深くなるということもあります。
愛については、時間は長さよりも質が大切なのではないでしょうか。
愛されることも愛することもなく長く生きるよりは、短くても深く愛され・愛する人生のほうがいい人生だ、と私は考えます。
もちろん、深く愛され・愛する人生が十分な長さあったほうがもっといいに決まっていますが、残念ながら人生は私たちの100%思いどおりになるようにはできていないようです。
だとしたら、私たちは許された人生の長さの中で、愛され・愛する体験をしながら、悔いのない、せめて悔いの少ない人生を生きる努力をするほかありません。
特に大人は、子どもたちのために心配するあまり絶望して、子どもたちまで絶望させることのないよう、できるかぎりの愛情を注ぐ努力をしていきましょう。
人との出会いはすべて「一期一会」であり、子どもと親との出会いも「一期一会」です。
その思いを忘れず、大切に、丁寧に、思いを込めて大事な人とつきあっていきたいものです。