「唯識」には、「ただ心だけ」つまり「ものごとがどう見えるかはその人の心のあり方しだい」という意味があります。
それについて、わかりやすいのが「一水四見」(いっすいしけん)の譬えです。
餓鬼と畜生と人間と 天人はそれぞれに 一つの対象について見方が異なっているので それぞれの対象を成り立たせるということがある (『摂大乗論』第八章より)
同じ一つの水が、餓鬼には咽喉が渇いてたまらないのに飲めない、燃え上がっている臭い膿の流れに、魚という生物には住む世界に、人間には飲めるが下手をすると溺れて死んでしまういわゆる水に、天人には歩くことのできる透き通った水晶の床のように見える。
けれども、見方によってそれぞれ別の対象が見える・成り立っているので、どれかが唯一絶対に正しい見方というわけではない、という譬えです。
かつて、初対面の岩手県出身の若い人と話をしていて、私が「岩手ってとても雰囲気のあるところですよね」というと、彼は、謙遜というより、本気かなという調子で、「何もないところですけどね」と答えたことがありました。
「何もないところ」というのはよくある言い方ですが、いうまでもなく、本当に「何もないところ」などこの地上にあるはずはないので、これは、彼にとって「価値があると思えるもの」または「関心のもてるもの」は「何もない」という意味でしょう。
あるいは、都市的・近代的な価値のものさしで計ると、「価値があると思われている」便利な、にぎやかな、派手な、洒落た……場所はないという意味も含まれていたかもしれません。
「でも緑は多いでしょう」と私、「ええ、それはそうですが」と彼。
「自然は豊かですよね」、「そうですね」、
「私は賢治ファンのせいで、そういう目で見るからかもしれませんが、岩手の自然には独特の深い味わいというか雰囲気というか、そういうのがあるように感じるんです」、
「そうですか、そういうのは感じたことないですね」。
「そこらへんの道端の草木まで、何か賢治の童話や詩に描かれているような匂いというか、さわやかな空気というかがあるように感じるんです」、
「自分の故郷のことをそんなふうにほめてもらえると、うれしいです」、
「いや、ほんとうにいいところですよ。思い入れ・投影にすぎないかもしれませんが、私はそう感じるんです」。
たとえ思い入れでも、岩手の自然に「ポラーノの広場」のような空気を感じるほうが得だと私は思っており、相手が自分の子どもくらいの若い人だったので、つい説教オヤジになって、「せっかくなんだから、感じないと損ですよ」とやってしまいました。
幸い、彼は素直に「そうですよね」と答えてくれましたが。
見方を変えれば、見えるもの・対象も変わる。
見えるものが変われば、気持ちも変わる。
だとしたら、これまでの自分の見方にこだわっていないで、よりいい気持ちになれるようにものの見方を変えてはどうですか、というのが唯識と論理療法とコスモス・セラピーからの共通の提案です。