どのような人が知られるべきものの相に悟入できるのか。
大乗〔の教え〕を多く聞く熏習を持続し……それゆえに功徳と智慧という二つの糧が得られる。
諸菩薩はどのような状態で唯識の瞑想に悟入するのか。
対象的な認識により、教えとその意味内容に似て現象する相を意言分別(心の中の言葉による分別)することによる、大乗の真理の相(法相)が生まれる状態においてである。……
どのようにして悟入することができるのか。……
教えと意味内容を対象として、シャマタ(言葉やイメージを消す瞑想)とヴィパシュヤナー(言葉やイメージを使う瞑想)を絶え間なく、敬意をこめて修行し、怠ることがないからである。
(『摂大乗論現代語訳』第三章より)
かつていろいろな仏教書を読んでいてどうしても解けなかった疑問が、唯識に出会った時、まさに氷解という感じに解けたという体験については、何度も書いたとおりです。
上の個所も、そういう思いで読んだところで、どのようなプロセスで覚っていくことができるのか、きわめて明快に語っています。
なるほど、こういう手順をきちんと踏んでいけば、覚れる=心の奥底まで爽やかになれるだろうな、と納得したものです。
まずアーラヤ識には、生まれつき真理の種子が備わっているわけではなく、真理のことばを聞かなければ、覚ることはできないのですが、幸い私たちはすでに聞いています。
では、一度聞けばすぐ覚れるのかというと、そうはいきません。「多く聞く熏習を維持」することが必要なのです。
これは臨床的に実に的確で、特に洪水のように膨大な情報を次々と処理し使い捨てていくことに慣れている現代人には非常に重要な指摘です。
私たちは、唯識のことばも情報の一種として「なるほど」と頭でわかって処理終了にしがちですが、それは熏習されたことではないのです。
(残念ながら人間の心の深層は、パソコンのメモリーのようにキーボードをちょんと押すだけ記憶されるようにはできていません。)
まして、頭・意識でわかったことは、深い無意識・アーラヤ識が変容したことでもありません。
繰り返し繰り返し聞くことによって、ようやくアーラヤ識に染みていくのですが、さらにそれを維持しなければならないというのです。
アーラヤ識は、迷いの種子でいっぱいで、一度や二度、覚りの種子を蒔いたくらいでは、負けてしまって芽が生えない、変容しないわけで、まず芽が生えるまで、何度でも蒔き続けなければなりません。
そして次に、繰り返し聞いてしっかり覚えたことを自分の心の中のことばで明快に考え、正確な真理のイメージを描けるところまでいかなければなりません。
聞きっぱなしではなく、納得し自分のことばになるまで思索するわけです。
そしてそこでも終わりではなく、さらに言葉やイメージを使う瞑想法と使わない瞑想法(あるいは集中的瞑想と拡散的気づきの瞑想)の双方を「絶え間なく、敬意をこめて修行し、怠」らなければ、やがて必ず覚れるというのです。
この修行のプロセスは、「聞・思・修(もん・し・しゅう)」とまとめられますが、「この手順を手抜きしないで続ければ覚れる」という指示を真っ直ぐ受け止めて、学びを進めていきたいものです。