
私たち普通の人間の心は、心の奥底から表面まですべて物事をばらばらに分離したものとして捉えます。
「分別知」です。
そして、言葉を話すことは口のカルマ、考えることは心のカルマで、カルマは種子になり、マナ識を通ってアーラヤ識に溜まり、やがて芽生えてマナ識を通って意識に浮かんでくるという循環をしますが、この循環はすべて分別知の悪循環になっています。
この悪循環を断たないかぎり、分別知から生まれる煩悩を断ち切ることはできません。
煩悩を根本から断ち切るためには、分別知の悪循環を断ち切る必要があるのです。
六波羅蜜の第5、「禅定(ぜんじょう)」はそのための方法です。
ここで具体的なことを詳しくお話しすることはできませんが、大まかなポイントだけ話しておこうと思います。
ご自分のことを振り返ってみてほしいのですが、人間はだれでも朝起きてから夜寝るまで目がさめている間中、心の中にいろいろな言葉やイメージがめぐっているのではないでしょうか。
そういう心中での言葉やイメージのことを仏教では「念」といいます。
それは驚くほどしっかりと自動化されていて、言葉やイメージをめぐらないようにするというのは、やってみるとほとんど不可能だと思うくらいに困難です。
私たちの心中では朝から晩までほとんどいつも、いろいろな言葉やイメージ、つまりばらばらの「雑念」がとめどもなく湧いては沈み湧いては沈み…と、めぐっています。
雑念をなくして「無念無想」になろうとしても、まず無理です。
雑念をなくそうという思い自体ある種の分別知による念・雑念ですから、雑念に雑念が重なり、雑念と雑念が葛藤して、心が混乱状態になるばかりなのです。
ところが、古代インドの瞑想家たちは、そういう念と念が葛藤する状態を超えるみごとな方法を発見したのです。
それは、直接念を押さえつけ、心を静めようとするのでなく、いわば念を生み出す心の裏をかくような方法です。
人間の心と体は、区別はできますが分離はできない一体のものです。
そして、意識的な心で、無意識的な心(つまりマナ識やアーラヤ識)をコントロールして静め、落ち着かせることは難しくても、体を静かにし、落ち着かせるならそれよりはいくらか容易です。
そこで、①まず体の姿勢を調えて、落ち着いて静かに坐ることから始めるのです。
それが、坐禅などの坐り方・坐法です。
さらに瞑想家たちは、人間の体の機能のうち意識的な心である程度コントロールでき、しかもそれが無意識的な心につながっているという特殊なものがあることを発見したのです。
ちょっともったいぶった言い方をしてしまいましたが、要するに呼吸です。
呼吸は、意識である程度コントロールできます。
そして、呼吸が浅く短いと、無意識を含めた心全体があわただしい気分になり、深く長いと、落ち着いた静かな気持ちになります。
②体の姿勢を調えたら、次に呼吸を、なるべく細くて長くて静かでなめらかになるように調えるのです。
実際にやっていただくとわかりますが、これは「いくらか容易に」と表現したように、すごく容易ではありません。
それどころか、かなり難しいことが実感できるでしょう。
それでも、直接、無意識の心を調えようとするよりは容易です。
③それからさらに、「無念」になろうという念を起こすのではなく、一つの念に集中する、いわば「専念」することで、心を静めていくのです。
それは、例えば特定の聖なる言葉・マントラであることもあり、聖なるイメージであることもあります。
どういうものを専念・精神集中の対象にするか、仏教を含む古代インドの宗教ではきわめて多様な方法が工夫されました。
こうした、心を静める手順は、禅では①「調身(ちょうしん)」、②「調息(ちょうそく)」、③「調心(ちょうしん)」と呼ばれています。
次回、この手順についてもう少し詳しくお話ししていこうと思いますが、ネット授業という枠で坐禅の指導の具体的なところまですることは難しいので、関心のある方には、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所のブックレット『サングラハ・実践の手引き』をお読みになり、時々開催している坐禅入門の講座に参加されることをお勧めしておきたいと思います。
研究所については、ブックマークのところでアクセスしてみてください。
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でも坐禅は、もっと深い感じがします。すごいテクニックですね~。
困ったことも少しは客観的に見れるのですが、今わたしの課題です。
ウスイツカサ
深いですね・・・。
極めるのは大変かもしれませんが、理論としてはとても納得できます。
レッツ坐禅!