閉ざす宗教をやめて開く宗教=霊性へ

2015年02月24日 | 仏教・宗教

 *以下は、2001年10月22日、桜美林大学での礼拝説教に若干の訂正を加え、「アメリカの同時多発テロとそれ以後の状況へのコメント」という副題を付けて『サングラハ』誌に掲載したものです。

 原理主義的宗教の問題をどう考えればいいのか、10年以上たった今でも基本は同じだと思っていますので、ブログの読者のみなさんにも改めてお読みいただいて参考にしていただきたいと思い、さらにごくわずかの訂正・増補を加えて転載することにしました。



 共通にある聖戦思想

 最近起こったアメリカでの多発テロに関わって、キリスト教とイスラム教の問題について、いろいろな方からコメントを求められます。とても複雑な問題なので、わずかな時間で語り尽くすのは難しいと思いますが、ここでポイントだけお話ししておきたいと思います。

 よくあるのは、「アメリカはキリスト教国なのに、どうして報復するんですか」という質問です。これは、「キリスト教の根本精神は愛であるはずなのに」という疑問です。それに対して私は、まず「キリスト教国だから報復するんです」と、意表をつくような答えからすることにしています。

 ご存知かどうかわかりませんが、イスラム教だけでなく、ユダヤ教とキリスト教にも、その一部として、はっきりと聖戦思想が含まれているのです。

 例えば典型的には、『旧約聖書』の六番目に『ヨシュア記』というのがあります。ヨシュアは、有名なモーセの後継者で、実際にイスラエルの人たちがカナンの地(今のパレスチナ)に入っていくときに、宗教的・軍事的指導者だった人です。彼はまさに軍事的指導者でもあったわけで、その侵入する際の戦いを指導し、それに勝ち抜いていくわけです。そして古代のパレスチナ人たちを殲滅しながら今の地に入っていくのですが、その際、侵入していくことが宗教の名、神の名において合理化されているのです。

 『ヨシュア記』の前にある『申命記』に「主はモーセに言われた。これがあなたの子孫にあたえると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である」(三四・四)とあります。つまり、神さまがこの土地をくれると我々に約束したのだから、そこに入って行くんだ。それを邪魔する人間たちを殺すのは、神の名においてOKなんだ、という論理がはっきりと現われているのです。

 『ヨシュア記』には、例えばエリコという町を滅ぼしたときのことが、以下のように書かれています。私たちのイメージからすると、聖書にこういうことが書いてあるというのは驚くべきことですが。

 「角笛が鳴り渡ると、民は鬨(とき)の声をあげた。……。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声を上げると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに到るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(六・二〇-二一)。

 神の名において、こういうことが行われる、という思想が、『旧約聖書』――それはまずユダヤ教の聖典でもあるわけですが――の中に、一ヵ所や二ヵ所ではなく、あちこちに書いてあるのです。

 私はキリスト教絶対主義的な立場にいたときには、「聖書にどうしてこんなこと――戦争=殺人を認めるようなことが書いてあるんだろう?」と、疑問で疑問でなりませんでした。キリスト教絶対主義の立場を離れて、諸宗教をできるだけ公平に見るという立場に変わっていったとき、これはもともとユダヤ教にある思想で、キリスト教もそれを引き継いでしまっていることに気づいたわけです。

 それからイスラムはご存じのように、通称マホメット――より正確な発音はムハンマッドのようですが――が創始者ですが、もともと彼は商人の出身で、やがてある部族の代表になり、そういう意味でいうと政治的・経済的・軍事的指導者だったわけです。もともとの出身地のメッカから追い出され、もう一度メッカの町に戻っていくときには、まさに戦争を行なって、戦争に勝利して、メッカに凱旋しています。そのことからもわかるように、イスラムにももちろん聖戦思想があります。

 しかし元に戻ると、聖戦思想のオリジナルは、まずユダヤ教にあります。それからキリスト教も引き継いでいる。それからイスラムも引き継いでいるのです。この三つの宗教が、例えばパレスチナという場所でお互いに、神の名において自分たちは正しいのだ、と自己絶対化をしながらトラブルを起こすと、収拾のつけようがありません。

 そういう聖戦思想の論理でタリバンの人たちは、ユダヤ教国イスラエルを支援するキリスト教国アメリカに対しても、はっきり「イスラム教とキリスト教の戦い」というふうに自己主張をしています。

 アメリカのブッシュ大統領も最初、「これは善と悪との戦いである」という反応をしました。あれは明らかにプロテスタント原理主義的な発言である、と私は考えています。聞いたところでは、ブッシュさん自体、非常にファンダメンタルな、つまり原理主義的なキリスト教のクリスチャンであるようです。そのあとで、「十字軍」という失言もしました。これではまずい、というブレーンたちのアドバイスがたぶんあったのだと思うのですが、最近は建て前上は「これはイスラムに対する戦いでもなければ、アラブに対する戦いでもない」と、やっと少し頭の冷えた発言をするようになったので、私もいくらかホッとしています。しかし、本音は依然として善と悪との戦い、つまり、キリスト教的善とイスラム的悪との戦い、と思っているのではないかと思われてなりません。

 キリスト教の建前としてのイエスの言葉

 こういうことに関して、そういう聖戦を自己肯定するような論理がもともと宗教の本質なのだろうか、キリスト教の本質なのだろうか、というところを、原点だけ、どこまでも原則論ですが、考えてみたいと思います。

 原則論がどこまで貫かれるかは、一人ひとりのクリスチャンのいわば良心と国の状況しだいであって、もっとも本質的な原則論がいつも貫かれるとは限らず、それどころか実際のキリスト教の歴史を見ていくと、原則論が貫かれない場合のほうが多かったといってもいいようです。

 しかし、そこで皆さんにぜひ考えてほしいのは、現象としてのさまざまなトラブルを起こすものとしてしばしば自己絶対化するような宗教と、同じ名前がくっついていながらその宗教の中に含まれている普遍的な真理性をもった原則と、どちらがより宗教の本質か、ということです。

 それをどう捉えるかは皆さんにお任せしたいと思いますが、私は社会現象として実際には聖戦のところまで走ってしまうようなユダヤ教やキリスト教やイスラム教が、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の本質ではない、と捉えています。そしてそれぞれどの宗教の中にも、世界の普遍的な平和に向かう志向というか、その原理というか、それはあると私には読めます。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つにわたって述べていると時間がありませんので、キリスト教の原則論のところだけ、皆さんが十分ご存じのところですが、状況が状況ですので再確認しておきたいと思います。

 キリスト教の何よりもの建て前は――建て前というと、建て前と本音のどちらが本当かという話にもなるのですが、私は建て前というのは人生でとても大事なものだと思っています――やはり教祖(神学的に救い主と言わないで、宗教学的に教祖と言っておきます)イエスが言ったこと、行なったこと、これがキリスト教の最高の建て前です。

 聖書の中にいろいろなことが書いてあります。『ヨシュア記』のようなことも書いてあります。しかしキリスト教がキリスト教であるためには、イエスの言葉を原点にしなければなりません。これが絶対的な建て前であるはずです。そのイエスがなんといっているか。

 「あなたがたも聞いているとおり、目には目を、歯には歯を、と命じられている」。やられたらやりかえせ、が常識だというのです。「しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書五・三八-三九)。

 こんなことを国際政治のなかで実行できるかどうかという社会政策論の問題があります。しかし、キリスト教国がほんとうにキリスト教国であろうとするのならば、この建て前を守ってほしい。例えばブッシュさんも大統領就任のときに聖書を手において誓ったわけです。だからこそ、私はこの建て前を守ってほしいと思うわけです。皆さんはどうでしょうか。

 これは、本来できるとかできないの問題ではないはずだ、という気がします。できないのだったらキリスト教徒をやめたほうがいい。キリスト教徒であるのならば、教祖の言葉に忠実であるということを、リーダーであればあるだけやらなければいけない、やってほしい。私なんかがいってもなかなか大統領のところまでは届かないとは思いますが、もし私がキリスト教という立場にいて、それに忠実であるならば、いかなる状況にあってもこの原則論は貫きたいと考えます。

 これまたよく、「あなたが、もし大統領だったらどうしますか?」と問われますが、私は、法的な意味での処罰は徹底的にやることを宣言したうえで、しかし国民に向かっては「我々の多くはクリスチャンなのではないでしょうか。イエスはどう言っているでしょうか。いま報復すべきときでしょうか。報復は報復をもたらすだけです。だからいま我々はこの痛みに耐えましょう」と、メッセージを送りたいと思います。今からでも遅くない、ブッシュさんにもそうして欲しいのですが、残念ながら、そうはいかないでしょうね。

 イエスの言葉に戻りますと、「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し敵を憎めと命じられている。しかし私はあなたに言っておく」――イエスはそういっています――「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(五・四三-四四)と。

 これをやれれば、アメリカはほんとうに二一世紀の世界のリーダーになる資格があるのです。これをやってくれたら……です。それができないのなら、リーダー面するのはやめてほしい、と思います。

 日本は「和」の国

 それから少し脱線しますが、日本という国は平和憲法の国です。平和憲法の国に戦後になっただけではなく、じつは日本の初めての憲法はすでに聖徳太子の『十七条憲法』というかたちで制定されて千四百年近い歴史をもっています。その聖徳太子憲法の第一条には「和を以て貴しとなす」という言葉が記されています。千数百年来、日本国の理想は平和です。小泉さんには、その日本の首相の行動と発言としては、非常にお寒いもの、寂しいものを感じてしまいます。

 日本も「アメリカと友だちです」とか「自衛隊を派遣します」とかいっていますが、その前にきちんとブッシュさんに、「あなたはクリスチャンなんじゃないですか? あなたの国は、基本的にキリスト教徒が圧倒的に多い、ある種のキリスト教国なんじゃないですか? だったら、その建て前をきちんと重んじたほうがいいんじゃないでしょうか。我が国は和の国ですから、私はその建前を重んじます」と、忠告するのがほんとうの友だちだと思います。いちばん大事なときに付和雷同するのは友だちではありません。やってはいけないことをやっている友だちを止めるのが友だちではないでしょうか。

 もっとも、いまの日本の友だち感覚は、友だちがどんな倫理的に悪いことをやっていても、その人その人だから、といって止めないのが友だちのようです。悪いことをやっていたら止めるのが友だちだ、と私は思うのですが、どうでしょう。日本がアメリカの友だちならば、やっぱり止めるべきです。しかもアメリカはキリスト教国です。

 日本もアメリカも、みずからの原点のところからもう一度考え直してほしい。建て前はとても大事だ、というのはそういう意味です。

 自己絶対化を超える原理

 元に戻って、敵を許すなどということがほんとうに成り立つための根拠というもの、つまり争いをやめる根拠はなんでしょうか。ユダヤ教が自分の宗教を絶対と信じ、キリスト教が自分の宗教を絶対と信じ、イスラムも自己絶対化する……と、これでは平和がやってくるわけはないのです。しかし、そういう宗教の自己絶対化を超えてゆくものが、宗教自体のなかに含まれています。キリスト教の場合は、イエスのなかにその原点がはっきりと出てきています。それを示す言葉が次のところです。

 つまり、報復をしない、敵を愛することが可能になる思想的・宗教的原点は、「あなたがたの天の父の子となるためである」(五・四五)というところにあるのです。

 私ははっきりと言ってしまって、白い鬚の光輝く超能力のおじいさんがどこか高いところにいて六日間で天地を創造したなどということは、これっぽっちも信じてはいません。しかしながら、我々が生きているこの宇宙を生成させた――科学の用語では創発、イマージといいます――大きな何かの力というものはある、と認めざるをえない。それは、たんに宗教的にではなく、科学的にも哲学的にも、きわめて合理的に認めざるをえない、と考えています(これに納得していただくには、私の本をしっかり読んでいただけると幸いです)。

 そういう普遍的な、いわば宇宙の原理を「神」と呼ぶのだと認識し直すと、それに対する直観と認識は、ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にも、もちろん仏教にもあるのです。
 イエスは、それを「天の父」という言い方をしています。自らを超えた、すべてを覆う全体者……哲学的には「全体」という言い方をしてもいいと思います。科学的には、物理的な次元だけではなくてそれを含みながら超えている、「コスモス・宇宙」といってもいいと思います。その全体者やコスモスのなかに包まれた部分、あるいは宇宙の一部としての我々は、それにふさわしく生きなければならない。つまり、ここに普遍的原理がはっきりと示されています。

 そういう宇宙的な原理というか神は――ここはとても大事です――「悪人にも善人にも太陽を昇らせる」のです。この場合の「悪人」「善人」とは、たんに法律的・倫理的な善人・悪人だけでなく、宗教的に信じる人と信じない人という区別がされているときの「悪人」と「善人」です。もっとはっきりしているのは、正しい者、正しくない者というのはユダヤ教の律法を守る人、守らない人という意味です。

 ところが、神というのは、そういうふうな宗教的な意味まで含んだ善人にも悪人にも、正しい人にも正しくない人にも、同じように太陽を昇らせて雨を降らせる。つまり、事実として、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも太陽は昇るのです。同じように雨が降るのです。

 私たちは、毎日毎日生きている。この生きていることはエネルギー活動であり、私たちが生きているということは一〇〇パーセント太陽エネルギーで生きているということです。ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も。

 それから私たちの身体は約七〇パーセントが水でできているそうですが、この七〇パーセントの水はまさに雨の恵みです。この雨の恵みは、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも注いでいるのです。

 そういうふうに私たちは、みんな等しく宇宙のいわば一部であり、そういう意味での神の子であり、そういう意味で太陽の恵みを誰一人例外なく受けています。水の恵みを誰一人例外なく受けている。そこに普遍的原理があると思います。そこに、あらゆる宗教とイデオロギーを超えて人類が結びつきうる、あるいは結びつかなければならない原点があると思います。そういうふうな、すべての人が連帯しなければならない原理を、イエスははっきりとつかんでいます。だから、目先は敵に見える人も同じ宇宙の子、神の子だから愛さなければいけない、というのです。

 攻撃をしかけてくるのは、ほんとうはお互いに神の子だとわかってないからです。誤解に基づいてやっているわけです。それに対して、その誤解をきちんと解くべく、誤解させた自分の側の原因もなくすべく、努力をする必要があるのであって、仕返しをすることは、その人と自分との人間としての普遍的な連帯を破壊するだけです。

 もう一度いいますと、人間がすべて一つに連帯しなければならない、いわば宇宙的根拠ははっきりとあります。みんなが同じ太陽エネルギーをもらって、みんなが同じ水を身体の七〇パーセント持っていて(じつは身体のなかの元素はみんな同じです)、それどころか生物学的にいうと、私たち人類はたぶん同じ一人のミトコンドリア・イヴという女性から生まれたのではないかという学説もあったり、いま地上に存在するたぶん二五〇〇万種くらいの生物はすべて四十億年くらい前に発生したたった一つの命から枝分かれし、進化して、多様な生命になっているといわれます。これが、生物学のほぼ定説のようです。そういった科学的な見地からいっても、いわば人類はもともと一つなのです。もともと一つなんだ、ということをしっかり認識し直したら、これは連帯せざるをえないのです。しなきゃいけないのです。

 閉じる宗教から開く宗教へ

 しかし、古代的・神話的な、自己閉鎖性をもった宗教のなかでは、その気づきと、自己絶対化の傾向が両方併存しています。これを私は宗教学的には、「閉じる宗教」と「開く宗教」〔あるいは「霊性」〕と呼んでいます。ほとんどの宗教のなかに、同じ「宗教」という名前がついたもののなかに、自己絶対化し閉ざしていく宗教と、それから人類の普遍的なつながりあいに向かって開いていく宗教の要素が併存・混在しています。

 二一世紀初頭にいる私たちは、閉じる宗教はもうやめにしましょう。しかしながら、開く宗教は、まさにそれがないと、そこへの気づきがないと、人類が平和にやっていく原理が見つかりませんから、あらゆる宗教のなかに「開く宗教・霊性」を発見しながら、「あなたのところにもあるんだね、私のところにもあります。あ、あなたのところにもあるんだね」という確認をしながら……それぞれの個性を捨てる必要はありませんが、しかしそれぞれの個性のなかから普遍性に向かって開いていくところをしっかりとつかむ、というふうに私たちはありたいと思います。

 そういう意味で私は、イエスの原点に全面的に合意するという意味ではキリスト教をやめていないのですが、閉ざす宗教、ましてや聖戦思想に走るような宗教としてのキリスト教からは全面的に離脱しています。

 イエスの原点に忠実な存在という意味なら、キリスト教徒という立場は私は捨てていません。みなさんも特定洗礼を受けているかどうかは別に、たぶん心の底にまったく同じ願いを共通に持っているだろうと信じますので、そういう私の願いとみんなの願いを象徴的に、宇宙に向かって、あるいは自然に向かって、神に向かってでも仏に向かってでも、言葉はどうでもいいのです、自らを超えた大いなる者、何者かに向かって、我々の願いを捧げるという意味での祈りを、一言だけご一緒したいと思います。

 祈り

 「天と地との、すべてのものの、創造主である父なる神よ、いま世界のなかであなたの子どもたちがまったく無駄な争いをしています。どんなに無駄な争いであるかを、一人ひとりにあなたが教えてくださいますように。そして、あなたの愛と平和への教えさとしを私たちがみずからのものとし、また多くの人のものとすべく、日々を精進することができますように。一日も早く世界全体に豊かさと平和とがやってきますように。あなたがお力をお与えください。そして、私たちが努力を続けられるよう励ましてください……」


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