対話は続く。
舎利弗須菩提に語らく、『若し三昧菩薩に異ならず、菩薩三昧に異ならず、 三昧は即ち是れ菩薩、菩薩は即ち是れ三昧ならば、菩薩云何が一切諸法、是れ三昧と知るや。』
須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と
シャーリプトラがスブーティに語った、「そういうふうに菩薩と三昧が一体だというのなら、菩薩はすべての存在がまた三昧なのだと知ることができるだろうか」。スブーティが答えて言う、「もし菩薩が三昧に入ったなら、その時には次のような思いはない。『私はこの教えによってこの三昧に入った』と。こういうわけで、シャーリプトラよ、この菩薩はもろもろの三昧において知ることも思うこともないのである」と。
最後の「知らず念ぜざるなり」とは 「認識したりイメージしたり思ったりはしない」ということである。思考もイメージもまったく消えている状態が三昧であり、それが菩薩ということなのであり、それが般若波羅蜜ということなのだ、と。
つまりほんとうに瞑想状態になっていたら、「これこれの事柄や教えや真理によって三昧に入ったのだ」といったことは考えない。智慧つまり般若波羅蜜と三昧と菩薩はまったく一体のものなのであり、まったく一体という時には、実はもはや思考が完全に働いていない。私とは別に、外に存在すると思っている一切諸法もまた三昧状態すなわち一体であるから、そこではまったく「知らず念ぜざるなり」「都て分別の念無きなり」という状態なのだ、と。
私たちはどうしても分別をしている状態でいろいろなことを思うので、「三昧」とか「般若波羅蜜」「菩薩」と名詞で語られると、それぞれが別のものだと思ってしまうし、まして「一切諸法・すべての存在」と言われると、私とはまったく別に多様な万物があると思ってしまうのだが、そうではなく、それらがすべて一体だといわば体感することがサマーディなのである。だからサマーディはまさに菩薩そのものであり般若波羅蜜そのものなのだ、と。
次は、シャーリプトラが聞き、スブーティがまた答える。
舎利弗言はく、『何を以ての故に、知らず念ぜざるや。須菩提言はく、『諸の三昧所有無きが故に、是菩薩、知らず念ぜざるなり。』
いちおう相対的に区別すると「諸の三昧」つまりいろいろなタイプの瞑想法があるのだが、どの瞑想も「所有無き」ということが根本・基本である。この「所有(しょう)」は所有(しょゆう)という言葉の語源である。所有とは、「実体的に持つことができるもの」「実体的存在」のことで、つまり実体という意味である。「有(う)」だけでも実体という意味であるが、特に把握し獲得するというニュアンスが所有にはある。そういうことができるような意味での存在はない、あらゆる事柄について実体的な把握ができない、というのがほんとうの姿なのだと覚ろう・覚る・覚っているのがサマーディであり瞑想であるから、当然、個別の実体的なものを認識したりイメージしたりはしない。もうまったくそういうことがなくなるのがサマーディである、と。
私たちはなかなかそうした純粋なサマーディに入れないし、もちろん日常のいろいろなイメージや言葉が巡っている状態は全然サマーディではない。
そこで、入り口のところでいろいろな工夫をし、深めていくわけである。最初の入り口として「ひとー、つー」と呼吸を数えるとか、呼吸と数を数えるのにある程度集中できるようになったら、次は「無」という言葉と呼吸にひたすら「むー…、むー…」と集中する。
しかし、それができるようになっても、そこにまだ「無」が残っている。そこで、その「無」もやめてひたすら心の眼で呼吸を見つめるのであるが、そこでもまだかすかに「見ている私」と「見られている呼吸」という微妙な二分法残っている。さらに、もう言葉がないのをあえて言葉にすれば「ただ坐っているだけ」というか。しかし、ただ「坐っている」と言うと「立っている」や「寝ている」とやはり分別されているので、あとで日常意識に戻ってその瞑想のことを語るとしたら、いわば「ただあるだけ」「ただ存在しているだけ」というふうになるだろう。
といってもそれは実体ではないので、ふつうの意味で認識をするとかイメージ的に捉えるということでない。しかしもちろんのこと、うっとりとしているわけでもなければぼんやりとしているわけでもなく、ましてや意識を失ってしまっているのではない。
さとりは「悟り」とも表記するが、むしろ「覚・目覚める」と表記するほうが適切だと筆者は考えている。寝てしまっていたら目覚めにならない。はっきりと目覚めているけれども、そういう言葉が働かずイメージが働かない状態で、あえて言えばすべての存在と自己との一体性を実感している。
しかしそれもすべて言葉で言っていることで、だから「一切の存在と自分があって、一体化する」といった表現になりがちだが、ほんとうはもともと一体であることに気づくだけなのである。
ここまで、「ほんとうの瞑想とはこういうことですね」と二人でブッダに代わってやり取りをしているわけである。すると、そのやり取りを仏さま・ブッダが聴いていて、褒めて言ってくださった。
爾時、仏讃じて言はく、『善い哉善い哉、須菩提、我が説けるが如く、汝無諍三昧を行ずること第一なり。此義と相応せり。菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を学すべし。禅那波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀那波羅蜜、四念処乃至十八不共法も亦是の如く学すべし。』
学ぶときにはこの三昧と同じように、決して知的なあるいはイメージ・情感的な把握の仕方をしないで、実体はないのだと目覚めるというふうに修行しなさい。般若波羅蜜を学ぶときに、「般若波羅蜜があって、それを私が獲得する」という思いになったら、それはもう学び方が間違っているのだ、と。
毘梨耶は訳すと精進で、「私が精進する」と思ったら、それはほんとうの精進ではない。
羼提波羅蜜は忍辱で、「私があいつのやったことを我慢する」、つまり「私」と「あいつ」というふうに分別して思っている間は、ほんとうの忍辱にならない。
尸羅とは戒律で、「私がこの戒律を実行する」と思って実行する戒律の仕方は、ほんとうの学び方ではない。
檀那波羅蜜は布施である。サンスクリットではダーナといい、それが漢訳されると檀那になる。転じて布施をしてくれる人のことも指すようになり、そこから転じて女性の世話をしたり店の人を世話する人を「檀那」と呼ぶようになったようだ。今の若い女性にパートナーのことを「うちのダンナ」と言う方がいるようだが、それも「檀那」からきていると思われる。そういうふうに、日本語ではいろいろな仏教用語が俗化している。それはともかく、「私が誰かに何かをしてあげる」というふうに分別して思っている間は、ほんとうの布施ではないということである。
つまり、六波羅蜜それぞれすべてを、自己と他の完全な一体感の中で実行するのがほんとうの学び方で、そういう学び方をするともはや心の中に対立がなくなり、もちろん他との対立もまったくなくなる。それを「無諍三昧」といい、すべてものと一体になってしまうと、心理的にも現象としての人間関係にも、葛藤・争いがまったくなくなってしまうという。
スブーティを、ブッダは「おまえは一切のもの、自分自身とさえも争わないというサマーディを実践することにおいて、わが弟子の中でも最高だ」と誉め、「おまえの言うとおりだ」と言う。
ここでは長くなるので「四念処乃至十八不共法」の解説は省略することにする。
ともかく、菩薩が修行をするとき、ふつうの人のように「私が勉強して~を獲得する」「~を自分のものにする」といった学び方をするのでは、そもそも学び方が間違っている。学ぶ人と学ばれることの分離感があるかぎり、それはもう仏教の学びではないのだという。
しかし、仏教についてもふつうの教養の学び方をしてしまうと、「私が知らないことがあって、それを私が勉強して、私は知識を獲得し、私は前より偉くなった」というふうになってしまう。
しかし、仏教の学びは本来そうではなく、妄想から離れて自分の本質に目覚めていくのであり、獲得するのではなく、目覚めていくだけなのである。もともとそうなのだから、今までと違って偉くなるというのではない。しかし、あえて偉いと言えばもともと偉い。宇宙と一体であるから、宇宙的に尊いと言ってもいい。けれども他者とすべて平等であるから、実はもう偉いも偉くもない。もともとそういうことなのだと気づいていくだけなのであって、獲得をするという学び方では、そもそも学び方が違うのだ、と。
舎利弗仏に白して言さく『世尊、菩薩・摩訶薩是の如く学するを般若波羅蜜を学すと為すや。』仏舎利弗に告げたまはく、『菩薩・摩訶薩是の如く学するを般若波羅蜜を学すと為す、……』
スブーティがそう言われたので、シャーリプトラが確認のために「つまりこういうふうな学び方がほんとうに般若波羅蜜・智慧を学ぶことなのですね」とブッダに聞いて確かめる。
もうまったく一体平等、差別なしだから、「私が何かを獲得する」「私が何かを誰かにしてあげる」「私が誰かのしたことを我慢する」といった差別・分離に基づいてするのではない学び方こそ、ほんとうの般若波羅蜜を学ぶことなのだということが語られていて、般若経典の要点というかエッセンスが、こういうところに現われている。
この一切と平等だという三昧あるいは智慧が、最初に述べた慈悲となって働きはじめる。しかし、菩薩にはレベルとしては初心から最上級まであって、観音菩薩も菩薩であり、私たちも本気で修行を始めたらいちおう菩薩なので、レベルの差は驚くほど大きいのだが、それはともかく、初心の菩薩はここを目指して、自らの本質に、そして宇宙の本質に気付いていくのだ、と。獲得するのではない。三昧とは、気づけば気づくほど、般若波羅蜜と菩薩と一切諸法と一切衆生と、すべて一体なのだということに、深く深く気づいていくことである、と。
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