
臨済宗で初心者に指導される「数息観(すそくかん)」という坐禅の方法があります。
足を組んで坐る「結跏趺坐(けっかふざ)」か、初心の間は片方の足だけもう一方の足の太ももに乗せる「半跏趺坐(はんかふざ)」で、まず坐り方が調うと、次にひざがしらと尾てい骨で逆三角形の重心に背骨を立てるという感じですっと上体を伸ばします。
それから、両手で卵型よりやや丸めという感じの「法界定印(ほっかいじょういん)」というかたちを作り、下腹部に軽く当てます。
次に、口を少しだけ開けて息を吐きながら上体をゆっくり前に倒していきます。
息をしっかりと吐ききりながら、体を倒しきったら、口を閉じて鼻から生きを吸いながら、ゆっくり上体を起こします。
(道場では、適当なタイミングの時に鳴り物が入るのですが、ここでは省略します。)
そして首筋を伸ばして正面を見、そのまま首筋が伸びた状態で、視線だけ1メートルほど前方に固定します。
すると、まぶたが下がるので、一見、人から見ると目を閉じているような感じになるので「半眼(はんがん)」と呼ばれていますが、目は閉じるわけではなくしっかり開けていなければなりません。
よくテレビドラマの武将などが目を閉じて坐禅しているシーンがありますが、あれは基本的には間違いです。
目は、一点を見つめるのではなく、ただきょろきょろしないように、一ヵ所に固定するだけです。
ここまでで「調身」ができたわけです。
続いて、おへその少し下あたり、東洋医学でいう「臍下丹田(せいかたんでん)」から吐いて、そこに吸うという感じで、ゆったりと呼吸をしていきます。
「呼吸」と表現されているように、吐くのが先で、吸うのは後です。
しっかりと吐かないとしっかり吸うことができません。
丹田に気合を入れて、なるべく長くて細くて静かで滑らかに呼吸するように、といわれています。
そして、呼吸を数えていきます。
吐く時に「ひとー」、吸う時に「つー」と数え、「とお」まで数えたら、また「ひとー、つー」に返ってこれを所定の時間繰り返します。
呼吸を調えるのが「調息」ですが、数息観では、呼吸を調え数えることに集中することで同時に「調心」を行なっていきます。
これは単純な方法ですが、決して容易ではありません。
「長くて細くて静かで滑らかな呼吸」は、やってみるとなかなかうまくいきません。
さらに、他のことを考えずそれだけに専念することも困難です。
呼吸は乱れ、気は散り、足はしびれて痛くなってきて、「なんで痛い思いをしてまで、こんなことをやっているんだろう? おれには坐禅なんて無理なんじゃないか? こんなことをやったって、効果があるんだろうか?」などなど、いろいろな雑念が湧いてきます。
そこで学んだことを思い出すことが必要なのですが、雑念はすべて分別知です。
分別知が悪循環しているかぎり、煩悩は浄化できません。
煩悩を浄化したいのなら、そういう疑問-雑念は放っておいて、「ひとー、つー」と集中していかなければなりません。」
生まれてこの方ほとんど分別知だけを熏習してきたマナ識やアーラヤ識が、短期間で浄化されるわけはありませんが、気長に続けていると、ごくわずかずつですが変化していきます。
何年も何十年も経って振り返ると、ゆっくり、しかしじっくり確実に心が昔より爽やかになっていることが実感できるのです。
こういう話をすると、多くの方に「もっと即効性のある方法はないんですか?」と聞かれます。
私は、「すぐに効いてすぐに効き目がなくなる方法と、すぐには効かないが効き目が持続する方法と、どちらが好きですか?」とお答えすることにしています。
実は、コスモス・セラピーというかたちでかなり即効性のある方法も工夫しているのですが、私のところで学ばれる方には、最終的にはやはり坐禅をすることをお勧めしています。
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今は朝太極拳をしています。
太極拳は動禅だそうですが
ただ気持ちがいいものですから、
人と言う乗り物はおもしろいですね、
使い方でもっと楽しめるようですね。
ウスイツカサ
「継続は力なり」と、小学校・中学校の時教室に書いてありましたが、これはどの分野にも共通な真理なのですね。
継続を努力していきたいです。
当初、絶対自分には無理だと思っていたんですが、やはり鍛錬で坐れるようになるんですよね。
今では結跏趺坐じゃないと気持ち悪い感じがします・・・。
先生の長年にわたって培った深い坐禅には、及びも付きませんが、少しづつ近づいていきたいと思います。