
家の近くに、自然に近い状態を残した公園があります。
なかなか気持ちがいいので、よく散歩に出かけます。
今日も何か写真のいい素材がないかと探しましたが、さすがの湘南でも、真冬ではほとんど花はありません。
落葉樹は、もちろんみんな枯れ枝を天に向って伸ばしているばかりです。
自然に近いといっても、やはり公園なので、伸びすぎた枝は刈られたり、大きくなりすぎた木で切り倒されてしまったものもあります。
隅の方に束ねられたり、適当な長さに切られたりして、積み重ねられていました。
もうかなり前、おそらく秋口のころに作業したのでしょう、少し朽ちはじめているところもあります。
……「空とは何か」という見出しなのに、何を言っているんだろうと思われる方があるかもしれません。
でも、これは「空」の話をしようとしているのです。
去年の春、比較的いいデジタルカメラを買ったので、うれしくていろいろな物を撮ってまわりましたが、この公園の雑木林の新緑もとてもよかったので何枚も撮ったものです。
芽吹きのころはとても初々しく何ともやわらかな緑でした。
5月の新緑のころは、鮮やかで爽やかで、明るい日の光にキラキラと輝いている様子はうっとりするほどでした。
しかし梅雨を過ぎて、鬱陶しいほど繁っていきました。
そして、少し鬱陶しいなと思っていると、造園業者の方たちが、ちょっとやりすぎではないかと素人目には見えるほど、あっさりバッサリと剪定をしてしまいました。
そして秋、落ち葉が始まり、日1日と林はまばらになって、木の根元には色づいた葉や、少し茶色になりかかった葉などがしだいに厚く積もっていきました。
今、落葉樹の枝にはほとんど葉はありません(異常気象のためらしく、今年はちゃんと落葉せず、みすぼらしいかっこうで枝に残っている葉もありますが)。
さて賢明な読者のみなさんは、私が話をどこに持っていこうとしているのか、見抜いてしまわれたかもしれません。
そうです、例は何でもいいのですから、葉っぱの話でもいいのです。
……だが、1枚もなかった枝先に、また次の春には新芽が芽吹いてきます。
やがてそれは広がって、新緑の若葉になり、濃い緑の葉になり、紅葉や黄葉になり、それから落ち葉になり、やがて朽ち葉になり……最後は土に帰っていきます。
「葉っぱ」と呼ばれるものに、変わることのない「新芽」とか「若葉」とか「紅葉」とか「落ち葉」とか「朽ち葉」という「本性」があるとは言えませんね。
腐葉土になってしまえば、もう「葉」という性質さえなくなっていくんですからね。
葉は、そういうふうに「変わることのないそれ自身の本性をもったもの」ではありません。
葉もまた、「無自性だから空である」というほかありません。
でも、ここで暗くならないでください。
いま枯れているように見える枝の先には、もう花や葉のつぼみが付いています。
世界の本質が空だから、花も葉っぱも散っていきますが、今年の春も間違いなく、あの枯れ果てた冬の景色がウソだったように、鮮やかに葉は芽吹き、美しく花は開くでしょう。
無自性=空だからこそ、世界にはダイナミックで生き生きとしたいのちの働きがあるのです。
私は、冬枯れの様子も嫌いではありませんし、でもやはり花咲く春を楽しみに待っています。
空なる世界は、美しく変化していく世界なのだな、と思うのです。

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「万法ともにわれにあらざる時節」、つまり万法が「空」なることを覚っても、決して無感情、無感覚になるのではない。
物事に執着することはなくなるものの、それでも花は美しく、雑草が茂り過ぎればうっとうしくも感じる。
だからと言って、これは凡夫の感じるような好悪の感情と同じではない。
この世の事象について、凡夫とは比較にならないほど、深く生き生きと感じられる世界を体験するのではないかと思いました。
ありがとうございました!
こんな古典が日本にはあるなんて、それだけでも日本はすばらしいと思います。
これからもご一緒に学んでいきましょう。
私の気づいていない、取り上げていない名セリフがあったら――きっとあると思います――ぜひ、みなさんにも紹介してください。
「放てば手に満てり」、実に美しい言葉ですね。
『正法眼蔵』は哲学的な詩集のようだ、と思うことがあります。