本(『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣)でも書きましたが、実のところ、この第八条は全十七条の中でもっともうまく読み取れないところでした。
一読すると、まるで「役職はサービス残業当たり前」という話のように感じられるからです。
人間を大切にする心を持っておられる太子も、さすがに勤務時間に関しては労働基準法のない時代の意識しかなかったのかな、と。
八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公事盬(いとま)なし。終日(ひねもす)にも尽くしがたし。ここをもって、遅く朝(まい)るときは急なることに逮(およ)ばず。早く退(まか)るときはかならず事尽くさず。
第八条 もろもろの官吏たちは、朝早く出仕し夕方遅くに退出せよ。公の仕事には油断する暇はない。一日すべてでも終わらせがたい。だから、朝遅く出仕するならば、緊急のことに間に合わない。早く退出するならば、かならず仕事を成し遂げられなくなるだろう。
しかし、繰り返し全条を読むうちに、この条は例えば第五条の「それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。…ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず」や、第六条の「人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。…民に仁なし」、そして直前の第七条の「それ賢哲、官に任ずるとき…官のために人を求む」といった文脈で、菩薩的リーダーへの勧告として読む必要があることに気づきました。
菩薩の衆生への慈悲、士大夫(したいふ、儒教でいうエリート、士・さむらいの語源の一つ)として民への仁を志とした人間にとっては、生きることは使命を果たすことであって、楽をすることやもうけることや地位を得ることのためにあるのではありません。
そういう意味で、生きることは働くことなのです(それはもちろん過労死しない程度の最小限の休養も必要ないということではないでしょうが)。
さまざまな苦しみ・問題を抱えている数え切れない数の民たちのための公・大きな家の仕事には、切りも終わりもありません。
「終日(ひねもす)」、朝早くから夜遅くまで一日中取り組んでも、まだ時間が足りません。
まして、朝気の向いた時間にゆったりと出てきたり、気が向かないから夕方早く帰ってのんびりしようなどと思っていたのでは、民たちのための緊急の「事」・事態への対応がどんどん遅れ、手遅れになりかねません。
可能なかぎり、力の及ぶかぎり働き続ける覚悟がないのなら、リーダーにはならないことです。
本当のエリートとは、民たちのために働くように選ばれた者なのですから。
「きみたちがエリートであるということは、勤務時間自由の特権階級ということではない。時間の許すかぎり、力の及ぶかぎり、力尽きるまで、民のために働く覚悟をせよ」というのが太子の言いたかったことなのではないでしょうか。
この個所は、ふつうの人(凡夫)に対する強制的な就業規則ではない、ということに注意して読む必要がありました。
これは、菩薩への布施と精進の勧告なのです。
この条をそう読めた時、「私もどこまでできるわからないけれど、精一杯そうしたい、そうありたい」と熱い思いが湧いてきました。
まあ、でも、論理療法を学んで以来、「ありたい」と「あらねばならない」とは区別して考えるようになっているので、あくまでも「ありたい」にとどめて、無理はしないつもりですが……。
でも、有限な人生、自分で自分に納得のいく生き方はしたい、と思うのです。
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そう読むと、すごい熱いメッセージの条だったのですね。
勤務時間が終わったのに仕事が片付かなかったりするとなんだかすごくあせってしまう現状なのですが、それだけに太子の勧告、耳が痛いところです。