三法印の第二は、「諸法無我(しょほうむが)」です。
諸法の「法」とは、「存在・もの」という意味です。
原語(のカタカナ表記)は「ダルマ」で、漢訳ではだいたい「法」と訳されていますが、いろいろな意味があって、慣れていないと混同しがちです。
まず「真理」、それから「規範」、そして「存在」などが主なところで、ここでは「存在」という意味です。
ですから、「あらゆる存在は無我である」ということになります。
「無我」という言葉はかなり一般的な日本語になっていますが、これまであまりにもしばしば誤解されてきた、と筆者は考えています。
その誤解を正すために、筆者は丸々本1冊本分書く必要があると思ったくらいです。
詳しいことはその本(『自我と無我』PHP新書)を読んでいただくことにして、簡略にポイントだけお話しておきます。
「無我」の言語は「アナートマン」で、接頭辞「ア=非・無」+「アートマン=我」です。
問題は、この「アートマン=我」で、これは「自我」という意味もないことはないのですが、むしろ「実体」という意味のほうが主です。
「アートマン=我=実体」と考えていいでしょう。
そして、「実体」というのはまた、英語のsubstance の訳語でもあり、これらの4つの言葉はほぼおなじ意味だと思っていいでしょう。
ですから、この句の全体を現代語訳すれば、「すべての存在は非実体である」ということになります。
さて、実はこの「非実体=無我」こそ、ブッダの教えの核であり、後の大乗仏教まで一貫したもっとも仏教的だといってもいいほど重要なコンセプトなのです。
「非実体=アナートマン」というふうに否定された対象の「実体=アートマン」は、漠然としたコンセプトではありません。
「実体」とは、
①それ自体で存在することができる。
②それ自体の変わることのない本性・本質をもっている。
③いつまでも・永遠に存在することができる。
という3つの性質があるもののことをいいます。
ゴータマ・ブッダは、この世のすべてのものは「縁起」・つながりによって存在するのであって、それ自体で存在している、存在できるようなものは何もない、と洞察しました。
仏教では世界一般の話もさることながら、重点は人間にありますから、まず人間についていえば、親なしに自分だけで生まれてきて、空気も水も食べ物もなしに生きられるような人間は一人もいません。
他の物についても、おなじことが当てはまるでしょう。
だとすると、この世界には「実体」の第1の条件を満たすものはないといってよさそうです。
そして、この世のすべてのものは変化していく・「無常」な存在ですし、他との関わりで性質も変わりますから、変わることのない本性がある、とはいえません。
例えば私は、両親にとっては「子ども」であり、妻にとっては「夫」であり、子どもにとっては「父親」であり、学生にとっては「教師」であり……というふうに他との関わりで属性が変わります。
例えば水は、魚にとっては棲みかであり、ヤゴにとっては棲みかですがトンボにとっては落ちると死ぬところであり、人間にとっては泳いだり、飲んだりすることはできても、ずっとそこにいると溺れて、窒息死する場所であり……というふうに、他との関わりで違った性質になります。
というふうに、この世界には、「実体」の第2の条件を満たすようなものはなさそうです。
そして、いつまでも・永遠に存在している、できるものは、この宇宙にはないようですから、「実体」の第3の条件を満たすものは何もないのではないでしょうか。
つまり、「諸法無我」とは、そういう「実体」の3つの定義が当てはまるようなものはこの世界にはないという意味で、人間の自我だけではなく、すべての存在が「実体ではない」という意味なのです。
そして「諸法無我」というコンセプトは、さまざまなもの(者・物)が、いろいろなつながりの中で一定期間、ある性質をもって存在し、やがて消えていくけれども、その時その時にはありありと現われることを否定しているわけではないのです。
実際にありありと現われる形・象、つまり「現象」としての「現実」は認めるのですが、それは先にいったような3つの定義・条件を満たすような「実体」ではない、というのです。
さて、ここでみなさんには、自分の好きか嫌いかを置いて、考えてみていただきたいのです。
先の3つの定義・条件を満たすような「実体」は、この世界のどこかにあるでしょうか?
もし、「ない」という答えを出されたなら、「諸法無我」という仏教の洞察を、哲学的な命題として普遍的だと認めたことになります。
もし、「ある」という答えを出したいのなら、3つの条件を満たすものがこういうふうにあることを実証しなければなりませんが、それは無理なように私は思いますが、いかがででょう?
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*写真は、近所に咲いていた寒桜
ここが仏教の一番の難関だと思っています。
私も仏教は、実体を否定するところに独自性と普遍性があると考えます。
ですが、いわゆる「霊魂」と呼ばれる存在を実体視する僧侶が、少なからずいます。確かにそのように扱ったほうが、先祖儀礼、法事、葬儀、あの世観が説明しやすい。だがそれは、やはり仏教ではないのです。
霊魂なるものの存在を、究極科学的に立証することは不可能だし、かりに存在しても、文中の三つの条件を満たすような、実体的存在ではないと考えます。
霊魂という存在が極めて不確かである以上、それを説く必要がある場合には、あくまでも霊性的仏教に導く、神話的コスモロジー(方便)として伝えていきたいと思っています。
世界・宇宙は、やはり縁起です。
実体がゴロゴロしてる宇宙は考えられません。それになんとなく美しくない(感覚的ですが…)。
一水四見の例え、分かりやすかったです。
長々と失礼しました。
有り難うございました。
アンナは一応、クリスチャンで今日もクリスマスのお祝いをしてきましたが、最近思うのは、やはりいろんな宗教的教えは、究極的に同じことを言ってるだけじゃないかということなんです。聖書の教えもヒンズーの教えも、仏教の教えも、同じことを違った側面から言い表してるけど、同じことなんだという感じがしてきました。改宗しろとかさせなきゃというのは、なんか変ですね。
しかし、習慣からいわせてください。笑
JOY TO THE WORLD!!
お寺の幼稚園でクリスマスを祝われたそうですね。すばらしい!
誰一人実体としての自分にこだわる必要はない、支えあい、愛し合えばいいというのが、「諸法無我」の人間における現われですからね。
>annna さん
そういうわけで、おっしゃるとおりだと思います。「縁起-無我-慈悲」は、「アガペー(神の絶対愛)」と「アッラーの恵み」と同じことですよね。
「実体」の3条件
①それ自体で存在することができる。
②それ自体の変わることのない本性・本質をもっている。
③いつまでも・永遠に存在することができる。
を満たしているから。そうすると、私や、色々な物体もエネルギーという実体を抱えている(エネルギーの塊)から空ではないのでないでしょうか。お釈迦様の時代には、"エネルギー不変"という概念は無かった(そんな科学が無かった)から止むを得ないと思います。
でも、未だに「すべての存在は非実体である」とを言うのはおかしいのではないでしょうか。勿論、質量もエネルギーの一種です。又、エネルギーは形式を変え、分散したり、集中したりします。でもトータルのエネルギー量は変わりません。私はお釈迦様の教えは正しいとおもいつつ、この事で非常に悩んでいます。良きご指導のほどをお願いします。(初めてで、要領不案内のため、ダブっていればご容赦ください)
とても重要なご質問有難うございました。
とても重要なので、ご質問をその答えを読者のみなさんと共有したく、本文記事でくわしくは書かせていただきます。
ただ一つだけ、ここでお答えしておきますと
阿含経などを読んでみても――私の解釈では――仏教においては教えはどこまでも方便だ、と思います。
それは、「縁起」や「空」といった仏教の基本的教えでさえそうだと思われます。
ですから、とりあえず空というコンセプトが私たちの知るかぎりのほとんどすべてに当てはまるということで納得し、後は空体験をしてマナ識、アーラヤ識の浄化を進めていく、という修行実践にとりかかることが肝要かと思いますが、いかがでしょうか。
のところで、よくできた四諦の教えも無である即ち方便であるという岡野先生の説明に、ショックを受けたことを思い出しました。
「こだわれば仏教でさえも迷いの元になる、言葉による教えは最後のところでは、言葉で表しきることはできない「空」ということを、仮に示しただけです。その言葉・教えではなく、それが示している縁起=空といううことを自分で体験することが大切なわけです」という説明に、そのときは納得しました。ただ空の体験はまだまだのようで前途遼遠に感じます・・・。
「前途遼遠」と入力しようとして、「前途良縁」と誤変換されました。意味ある誤変換のような気がします。
ちっぽけな理想ともいえないような理想では、ちょっと努力して実現したら、もう目的がなくなってしまいますが、遥かなる理想を目指す気になった、つまり覚りと良い縁ができたら、それは怠けがちな自分をすごい力で引っぱってくれる、と思います。
「前途遼遠」と感じられたこと、おめでとうございます。
今日は眼瞼下垂症の手術の日で無事終わりましたが、
1週間程度パソコン作業は自重しなければなりませんので、しばらくは休養期間です。
新年おめでとうございます。
「諸法無我」について検索していて、このブログに出逢いました。
詳しい解説を、ありがとうございます。
ところで、疑問に感じるのは、お釈迦様の言葉を素直に「諸法無我」と漢訳してものが、
いつの頃からこういう不自然な解釈になってしまったのでしょうか? という点です。
お釈迦様は、「法(ダルマ)」については、「真理法則」とか「宇宙法則」という意味で用いていらっしゃるようですが、
『諸法』の場合は、この世の様々な法則を含む観念一般を意味するものとして用いていらっしゃるように感じています。この点は、お釈迦様とともにヨーガ修行なさっておられた彌勒仏さんも弟子たちに解説なさるときに同様に用いていらっしゃるように感じています。
「諸法無我」を素直に理解するなら、「諸々の法則や観念には、我(我真)は無い。よって、諸々の観念や法則は実体(実相)ではない」という意味であろうかと感じます。
では、「実体(実相)」はどこにあるのか?
ということになりますが、
お釈迦様が2600年前に他界なさる直前に、弟子たちに遺言なさった言葉が、「大般涅槃経」という経典となって残されているようですが、
この中に、わたしはあなたたちに今までいろいろと法則について述べてきたが、
●これらの法則もすべて方便である旨と、
●自分が他界した後、「我(真我ないし神我)などというものは存在しない」と言う者たちが現れるであろうが、あなたたちは決してそのような説にみみを貸してはなりませんよ。
それらは、いかに巧妙に論理的に組み立てられていても、それは魔の教えだからですよ。
という旨を言い残されていましたね。
これは、諸々の聖者の方々、イエスさん、あるいはお釈迦様を指導なさってこられたお釈迦様の内なる神さま(真我ないし神我さん)や、シヴァ神さんや、ヴィシュヌ神さんや、クリシュナ神さんの教えと同様、
「悟りと解脱」は、
真我(ないし神我)を目指して、神我の助けを借りて、神我の中で達成できるものだからですよね。(バガヴァッド・ギ-タ-)
実体(実相)である神我ないし真我を抜きにして、悟り解脱を求めるなら、
実体のない「空」の中を延々と彷徨うことになるからですよね。
大乗仏教が、新興宗教として誕生した当初は、既存の上座部仏教との対抗上、自己の優位性をことさらに主張するため、
◆「般若心経」の中で阿羅漢(アラハット=如来によって仏陀の悟りに到達した者)にわざわざ「空」を説くなどという蛇足を内容に付け加えたり、
◆「諸法無我」の解釈を、途方もない拡大解釈する、
といった方法をお取りになったのでしょうね。
でも、本来は、真理は真理として厳然として存在しているものであり、
仏教とさんたちや、仏教学者さんたちの解釈いかんによって左右されるものではありませんよね。
ですから、解釈がどうかとか、学説間の論争がどうとかいうことには、わたしはまったく興味はありません。
ただ、内なる神さまからのインスピレーションに導かれた、わたしの直感と、瞑想体験とをすなおに感じて味わいたいと思っています。
本来、真理は、簡明で美しいものでしょうから、
神々のことがよくわかり、神々の考えが解り、想いや考え方や言葉や行為が神々のように進化すれば、その魂さんはやがて神々となり、
その魂さんが、神さまのことがよくわかり、神さま(内なる神さまや父なる母なる神さま)の想いや考え方が理解でき、その魂さんの身・口・意の行いが神さまのようになれば、自然と真我に到達し神我(最初の神の子であるキリストないしクリシュナないし絶対者ブラフマン)が顕現するのでしょうね。
長文を個々までお読みくださり、ありがとうございます。
岡野様、そして御縁あるすべてのみなさまに、
神さま、宇宙の聖母さま、如来さん、菩薩さん、天使さん、魂の先輩のみなさんから、
祝福がたくさんたくさん注がれますように。
そして、そうあることを神さまに感謝します。
ありがとうございます。
クリシュナ☆(*^-^*)☆
コメント有難うございました。
クリシュナさんにも、神さま、仏さま、天地自然、ご先祖さまの祝福がありますように。
どうぞ、よいご修行をお続けください。
私も及ばずながら、修行を持続する所存です。