夫婦別姓について
私は夫婦に限らず
家族で姓が違うことが
普通になったらいいのになあと思っています。
というのは様々な事情を見てきているから。
子供のいない高齢の叔母のために
40過ぎて養子になった甥。
叔母の姓になった。
妻や中高生の子供の姓はどうする?
姓が変わっても「なんで?」ときかれるし
甥と姓がちがっても「どうして?」ときかれる。
公的な資格を伴うビジネス。
住民票に記載の氏名を
使用しないといけないお仕事。
姓が変わることによってお仕事の場で
「結婚した?」「離婚した?」「養子になった?」
とたずねられる。
なんでそんなプライベートを
晒さなければならないのか。
家族であっても姓が異なることが
当たり前であれば
本来必要のない申し開きをしたり
言わなくていい事情を話したりしなくてすむ。
もちろん今までどおり
家族で同じ姓を選びたい人はそうすればいい。
でもそうしない人がいてもいい。
選択肢が多い方が自由だし幸せですよね、
と思っている。
でも、そこにものすごく抵抗感を覚える方
というのがいらっしゃる。
ネット上でそういう方の意見を読むと
「家族の一体感が失われる」とか
「長い日本の歴史に逆らう」とか
あまり説得力があるとは思えず
自分が別姓を強制されているわけでもないのに
なぜそこまで抵抗感を感じるのかが
理解できずにいた。
前回「不倫遺伝子」で触れた
中野信子さんと内田也哉子さんの対談集に
その答えと言える記述をみつけました。
同じ土地で16代続く農家の御子息である
本木雅弘さんが也哉子さんと結婚して
内田姓になったことに関しての話題で
本木さんのご両親がすごく悲しんで
也哉子さんは「姓」の重みが
それほどのものだと初めて知った。
それについての中野さんの考察。
農家の方というのは作物が育つ土地と自分は
切っても切り離せないものという感覚を
持っている方が多い。
農家の方にとって家(姓)を継ぐというのは
土地を継ぐことと同じなので
そこが途切れると感じることは
すごく痛みを伴うものだったのではないか。
なるほどなあ。
そのシステムが今の生き方にあわなくなっている、
たくさんの不便をかこつ人がいる、
という頭で考える理屈に対して
理論では説明できない
無意識の刻まれた深い感覚として
抵抗感を覚えているということなのか。
中野さんは脳科学者なので
なぜそう感じるのかも説明している。
他の人と一緒にいるとなぜ安心を感じるのか。
それは生存確率が上がるから。
一緒にいた時間が長くなればなるほど
それはその人と生き延びられたという実績になり
脳ではオキシトシンが働いて
その相手との「絆」を感じさせて
生存確率を上げようとする。
場所についても同じで
そこに長くいられたということは
そこで生き延びられたという実績が
脳に刻まれている。
何代も続いているということは
その年月を
自分が実際に経験したものではないけれど
「ここに長くいられた。
ここにいるのが一番安全だ」
と無意識に思わせる仕掛けがどんどん強まる。
東京の人は
いろいろなところから流入してきた民なので
どこへ行っても一緒でしょ
と考えているところがあり
土地を基盤に生きている農業の民とは
ちょっと感覚が違う。
「姓」というものにこだわる人たちの感覚が
言語化されるということは素晴らしいと思いました。
別姓を望む人にもそれに抵抗を感じる人にも
明確な理由が与えられることで
お互いの理解が進み
よりよい解決策に向かっていける気がしました。
(別姓推進派は
よくわからないけどなんかイヤと言われても
説得のしようがないし
別姓反対派は
もし別姓が選択できるようになったとして
なぜ自分がそこに抵抗を感じるのか
理解しないままそれが決まってしまうと
ただもやもやした感情が残り
未来へ向かえないと思いました)
中野さん、すばらしいな。
少なくとも自分は
反対する人の気持ちがわかるようになりました。