木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

ずっと国民に背を向けてきた警察・検察・裁判所

2012年05月26日 | Weblog

名張毒ぶどう酒事件再審却下。
この事件のことはよく覚えている。もう小学校の高学年になっていたから。
「和歌山のカレー事件」によく似ている。限定された集落で起こった事件という点で。
奥西被告は、おそらく激しい尋問に耐え切れず、一旦は犯行を自白するものの、その後は一貫して無罪を主張している。
明治末の「大逆事件」以来、警察・検察・裁判所は三位一体となって、国民に敵対してきたのだなという感想を持った。
この間、警察の見込み捜査による自白強要、検察の捏造調書の実態、そうした実情に目をつぶり、公正な裁きをして来なかった司法の現実が次々と明らかになる中での、開き直りの「再審却下」である。
一旦警察に「犯人だ」と見込まれれば、誤認であってもそれを覆すことは絶望的なのだ。
彼らこそ「犯罪者」である。

『愛と死のかたみ』という映画がテレビで放映されたので見た。
実はこの映画を中学生だった当時映画館に見に出かけている。
死刑囚の男性と文通をしていた女性が戸籍上の結婚をし、男性が処刑されてしまった後だろうと思うが、二人の書簡が出版され、話題になり日活で映画化されたという経過だったと記憶する。
二人が拘置所の面会室で会うというシーンだけ覚えていて、後は全く忘れていた。
死刑囚が長門宏之、女性は浅丘るり子だった。
長門宏之は、石原裕次郎や小林アキラといったヒーロー役ではなく、普通の、弱さや欠点をいっぱい持った青年の役が実に合う人だった。
62年の公開であるから、当然二人ともが戦争の傷跡を背負っているという設定だった。現実の二人もそうだったのだろう。
青年山口清は長崎の原爆で両親を失った原爆孤児で、児童施設で育ち、町のチンピラになっていって、金を借りに行った知人夫妻を殺害してしまう罪を犯した。
一方、女性のほうも戦争未亡人になった母が再婚した義父と折り合いが悪く、家を飛び出し、自活している。
心の拠り所を求めたキリスト教の教会で、清の手記に出会い文通を始めるのだ。
青年の受けた死刑判決も、青年の生い立ちや、知人夫妻の仕打ちを考慮に入れれば、情状酌量の余地はあり、彼がキリスト教の洗礼を受け、模範囚として生活をしていて、しかも支えてくれる伴侶の女性もいるという条件から、無期懲役に減刑、やがては仮釈放を夢見ることも可能というところまで行くが、有利な証言をしてくれるはずの知人が亡くなり、再審も却下され、ある日「処刑の日」を迎えるというストーリーだった。
確定死刑囚になると、とたんに面会や通信が一部の親族(親・兄弟・配偶者・子)に限定されるというが、この60年代必ずしもそういう風には描いていないが、戸籍上の結婚、あるいは養子・養父母という形式を取る例があるのは、愛情もそうだが、拘置所の規制への対応がまず現実の問題としてあるからなのだろう。
狭山事件、袴田事件も裁判所が過ちにきちんと向き合えば無罪のはずのものである。甲山事件は長くかかったが無罪判決が出た。
人生を奪う現在の警察・司法のあり方、どう変えていけばいいのだろうか。


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沖縄米軍基地撤去に原発廃炉

2012年05月20日 | Weblog

沖縄復帰40年。
70年代前後、社会変革運動のスローガンの一つは「沖縄を返せ」ないしは「沖縄奪還」だった。
沖縄は日本復帰を果たしたが、このスローガンにこめられていた思いとは「米軍基地のない沖縄を返せ」であり、アメリカにひざまずくことのない日本を取り戻すことだったはずだ。
それはこの40年まるで果たされず、むしろ「日米同盟深化」の名の元にアメリカの軍事戦略により深く組み込まれるに至っている。
沖縄の米軍基地は何のためにあるかと考えると、それはもうアメリカ自身の、中国と太平洋地域に睨みを利かせるためだけでしかない。しかも日本の金で。
今NHKで江戸時代末期の琉球の置かれた状況を描いた「テンペスト」というドラマを再放映しているが、ドラマとしての荒唐無稽さはあるものの、この時代は薩摩の力の前に悩む琉球がある。
そして明治時代に入ると日本国に強引に組み込まれて「皇民化」が施されていく。その究極が太平洋戦争末期の沖縄住民の地上戦の犠牲だ。
沖縄に派遣された日本軍自体、自分達が捨石として送られてきたことをよく承知していて、避けられないであろう死を予感して、軍の幹部達は首里近辺の遊郭に入り浸り、果ては壕にもそうした女性達を連れ込んでいたという。
最前線の戦場に慰安婦がいたのと同じ構図だ。
そして沖縄で「鉄の暴風」と言われたアメリカ軍の攻撃に逃げ惑い、のたうって多くの人々が犠牲になっている時に、長野県の松代では象山、舞鶴山、皆神山などの麓に東京から天皇以下大本営、政府機関を移転させるべく、地下壕が昼夜敢行で掘られていた。
沖縄を捨石として松代の地下壕は掘り進められていた。労働者は植民地朝鮮から連れて来られた男達である。家族と共に仕事を求めてやって来た人達もいた。
松代は江戸時代真田十万石の城下町で、そうした史跡も多く残っているのだけれど、それ以上に「地下壕の案内を」という依頼が多い(私は町案内のボランティアをしている)。
沖縄と松代は一つの線上にある。

沖縄米軍基地と原発立地。
この二つも同じ構図の上にある。迷惑で危険な施設。しかしそれに依存して生活を立てている人々がいる。
しかし沖縄の場合、日本政府からの補助金は一部の利権屋だけが甘い汁を吸う構図になってしまっていて、健全な経済活動を妨げているという。
基地の存在が沖縄の発展を邪魔している。
原発立地自治体も一基だけでは済まず、二基、三基と原発誘致にはまり込んできた。
原発廃炉の町のその後
原発で働いて来た人達の次なる雇用を考えなければならないが、22年前廃炉になった東ドイツのルブミンという町のその後を伝えたドキュメンタリーを見た。
ここは事故で廃炉になったわけではないので、長いタービン建屋を利用して今は大型のパイプの解体や溶接、修理などが行なわれる工場になった。
その上、北に開いた港があって積み出しも便利。
放射能汚染物質の問題があるから簡単にはいかないだろうけど、廃炉に舵を切れば雇用は創出できる。
「原発廃炉産業」、そして原発にかわるクリーンエネルギー産業、これで生きる道を見出していくことを考える時期に入ったと思うのだが。

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国家=国民の税金を食い尽くす「新自由主義」に鉄槌を

2012年05月12日 | Weblog

フランス大統領選、ギリシャ総選挙で示された民意。
EU体制の中で進められる「緊縮政策」では国民の生活は行き詰る。
経済成長(それは必ずしも今までどうりの拡大政策を意味しない)を促し、雇用を生み出す政策を政府が積極的に打ち出し、富裕層への優遇税制を改め、投機マネーに規制をかける、とごく常識的な主張をした社会党のオランド候補がサルコジを制した。
ヨーロッパのことはよくわからないが、この20年、世界はソ連とその影響下にあった社会主義圏の崩壊で、グローバル化の名のもとに「弱肉強食」の元祖資本主義に回帰し、社民主義や共産主義の強かったフランスやイタリアからそれらの勢力を駆逐した感があったのだが、人々がようやく正気を取り戻し、反撃に出た。
フランスとドイツが主導するEU体制に残るために厳しい緊縮策を取らされたギリシャでも「もうこれ以上耐えられない。EU離脱も辞さない」という主張の急進左派政党が第2党に進出した。
日本のマスコミの論調はおおむねこの両国の選挙結果に否定的であるが、厳しく指弾されなければならないのは「英米型の投機資本主義」、「グローバル資本主義」ではないだろうか。
IMF(国際通貨基金)の言うことを「神の託宣」のように考えるのはどうなのか。

99パーセントを餌食に延命をはかる「新自由主義」
新自由主義的資本主義は「国家的規制からの自由」を主張するとされているが、その実態は極度に国家に寄生している。
国家がその公的権限によって集めた租税を、その分配過程において私企業が入り込んで暴利をむさぼるという構図だ。
アメリカでは対テロ戦争に投じられてきたぼう大な戦費は、その多くが軍事関連業務の民営化によって生まれた市場に吸収されてきた。
この受益者達にとってイラクやアフガンに健全な民主主義が根付こうが根付くまいがどうでもいいことである。取るべきものは取ったのである。
これらの戦争はアメリカ国民に何の果実ももたらしていない、どころが「戦費」と言う形で、本来福祉に向けられるべき税金が奪われたのだ。
これら新自由主義・新帝国主義のプレイヤー達にとって、国家は徴税能力に利用価値があるだけで、運命を共にする祖国ではない。彼らは税金を巧みにあるいは強引に収奪することにのみ関心がある。
しかしこれは見方を変えると「新自由主義的資本主義」がその醜い姿を人々の前にさらし、断末魔の叫びを上げているということでもある。
最後のとどめの鉄槌を下さなければならない。でないと私たちの明日の命はない。(白井聡・多摩美大非常勤講師の「週刊金曜日」記事を参考)

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低線量被曝と被曝労働こそ原発の本質

2012年05月06日 | Weblog

独占と過当競争の行き着く果て。
ゴールデンウィークの初日、金沢から東京に向かっていた高速バスが防護壁に衝突し、7名もの死者と重軽傷者を出した。
運転手の居眠りが原因だ。実態を知れば知るほどひどい状況が明らかになっていって、こんな状態で運転されていると知っていたら、おそらく乗車する人はいなかっただろう。
背景には2000年以降の小泉・竹中コンビの「規制緩和政策」により、それまでの免許制から一定の条件を満たすことによる届出制になり、
バス会社以外からの参入が可能になって、競争が激化したことから、低価格を競い、安全がおろそかになったことがある。
新聞広告にも東京までの高速バスの宣伝がよく掲載されているが、新幹線の半分ぐらいの料金である。
短時間で行きたいのと、発着時間が合わないので利用したことはないが、今の時代「安さ」でこちらを選ぶ人は多いだろう。
周囲の人達と話をすると「安い」ということがすぐ話題になる。私は何もわざわざ高いものを選ぶつもりはないが「適正価格」というものがあるだろうといつも思う。
特に旅行代金や食べ物などは注意した方がいいと思っている。みんな世の中を信じすぎる。とはいえ中・下流の一般の人達の所得が減っているので、安さに飛びつくのもやむを得ないのだろう。
安さの理由は人件費の削減と安全軽視だ。激安を求める風潮は事業者及び労働者、そして消費者両方の首を絞める。
2007年、大阪の吹田市で、スキーバスの事故があり、一人が死亡した。過労運転による居眠りが原因だ。これを受けて、国交省は670キロ、9時間を越える運転には運転者を二人用意するよう指針を出した。
しかし、それまでバス会社は労組との協定で、500キロを目安にすると自主的に決めていた。それが国交省通達で崩れてしまったのである。
ましてや後発参入組は労組もない零細事業者や無権利で人を働かせるブラック企業も含まれている。
現場の感覚で決めていた500キロ。国交省の基準は机上のデータから割り出した数字だ。
運転手は言う。夜と昼、天候、体調、渋滞があるかないかでも違うので、国交省の基準はギリギリ何とかという最高値の数字だと。
役人はすぐ数値を持ち出す。しかも自分で実体験したわけではない。
それを押し付ける傲慢な、現場の人の意見に耳を傾けないタイプの人間が上の地位にのぼっていくシステムになっている。

過当競争が悲劇を生むのと裏表で、「独占」もまた腐敗の果てに破局を招く。独占なだけにその影響力もまた甚大だ。
それが東京電力福島第一原発事故となって、日本国の住人、とりわけ福島の人達を襲っている。
北海道電力泊原発3号機が定期点検に入り、すべての商業用原発が停止した。
これだけの事故を起こし、終息の目途も立たないのだから「再稼働」はあり得ない。
原発事故でこれから起こりうる深刻な事態は「低線量被曝」の被害だ。
それとこれは事故前からある問題だが「被曝労働」。定期点検などで原子炉のある建屋に入って手作業で点検・保守する労働者の存在無しに原発稼働はあり得ない。
この被曝労働により健康を犯された無数の人々がいる。
「低線量被曝」の実態を人々に知らせ、そういう事態になってしまった時代をどう生き抜くのかを語るのが、自らも広島で被爆しながら患者の治療に当たった95歳の医師肥田舜太郎氏。
そして70年代から被曝労働のため健康を冒された労働者を取材し、写真と文章で社会にその存在を知らせる活動を続けてきた樋口健二氏。
この二人の行動と言葉ほど「核と原発」の反人間性を考えさせてくれるものはないが、詳しくは別の機会に。

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