名張毒ぶどう酒事件再審却下。
この事件のことはよく覚えている。もう小学校の高学年になっていたから。
「和歌山のカレー事件」によく似ている。限定された集落で起こった事件という点で。
奥西被告は、おそらく激しい尋問に耐え切れず、一旦は犯行を自白するものの、その後は一貫して無罪を主張している。
明治末の「大逆事件」以来、警察・検察・裁判所は三位一体となって、国民に敵対してきたのだなという感想を持った。
この間、警察の見込み捜査による自白強要、検察の捏造調書の実態、そうした実情に目をつぶり、公正な裁きをして来なかった司法の現実が次々と明らかになる中での、開き直りの「再審却下」である。
一旦警察に「犯人だ」と見込まれれば、誤認であってもそれを覆すことは絶望的なのだ。
彼らこそ「犯罪者」である。
『愛と死のかたみ』という映画がテレビで放映されたので見た。
実はこの映画を中学生だった当時映画館に見に出かけている。
死刑囚の男性と文通をしていた女性が戸籍上の結婚をし、男性が処刑されてしまった後だろうと思うが、二人の書簡が出版され、話題になり日活で映画化されたという経過だったと記憶する。
二人が拘置所の面会室で会うというシーンだけ覚えていて、後は全く忘れていた。
死刑囚が長門宏之、女性は浅丘るり子だった。
長門宏之は、石原裕次郎や小林アキラといったヒーロー役ではなく、普通の、弱さや欠点をいっぱい持った青年の役が実に合う人だった。
62年の公開であるから、当然二人ともが戦争の傷跡を背負っているという設定だった。現実の二人もそうだったのだろう。
青年山口清は長崎の原爆で両親を失った原爆孤児で、児童施設で育ち、町のチンピラになっていって、金を借りに行った知人夫妻を殺害してしまう罪を犯した。
一方、女性のほうも戦争未亡人になった母が再婚した義父と折り合いが悪く、家を飛び出し、自活している。
心の拠り所を求めたキリスト教の教会で、清の手記に出会い文通を始めるのだ。
青年の受けた死刑判決も、青年の生い立ちや、知人夫妻の仕打ちを考慮に入れれば、情状酌量の余地はあり、彼がキリスト教の洗礼を受け、模範囚として生活をしていて、しかも支えてくれる伴侶の女性もいるという条件から、無期懲役に減刑、やがては仮釈放を夢見ることも可能というところまで行くが、有利な証言をしてくれるはずの知人が亡くなり、再審も却下され、ある日「処刑の日」を迎えるというストーリーだった。
確定死刑囚になると、とたんに面会や通信が一部の親族(親・兄弟・配偶者・子)に限定されるというが、この60年代必ずしもそういう風には描いていないが、戸籍上の結婚、あるいは養子・養父母という形式を取る例があるのは、愛情もそうだが、拘置所の規制への対応がまず現実の問題としてあるからなのだろう。
狭山事件、袴田事件も裁判所が過ちにきちんと向き合えば無罪のはずのものである。甲山事件は長くかかったが無罪判決が出た。
人生を奪う現在の警察・司法のあり方、どう変えていけばいいのだろうか。