今日は「麒麟が来る」の再放送を見た。
明智光秀がなぜ主君を討ったのか、今まで謎だったが、池端俊作の脚本はそのあたりの光秀の心境によく迫っていると思った。
この時期の信長はあまりに残酷に人々を殺してしまい狂気に陥っていたという気がする。
光秀は苦労人で年も確か信長より上。主君の危うさを感じていたであろうし、公家との付き合いもあり、天皇と対面する機会もあったのではとドラマは描いている。
才覚はあるが無教養な秀吉とは違う。教養のある人間は「逡巡」つまりためらいというものがあって、そのために一瞬の好機を逃してしまったりする。
天下を取った秀吉だが晩年朝鮮侵略に乗り出す。この過ちを修復したのがこれまた苦労人徳川家康。
朝鮮通信使を招いて厚遇した。朝鮮との友好に務めたのだ。これを歴代の徳川幕府も踏襲した。
これをまたひっくり返して朝鮮侵略に乗り出していったのが明治新政府。特に長州。
この流れを未だ引きずっているのが自民党政権。
新しく駐日韓国大使になった姜昌一(カン・チャンイル)氏は「私の役目は21世紀の朝鮮通信使だ」と言っている。
無恥・無知の反朝鮮・韓国の日本のマスコミや政治屋とは格の違いを感じる。
日本メディアとのオンライン記者会見で、平安時代の歌人藤原顯綱が詠んだ「梅の花 かばかりにほふ 春の夜の やみは風こそうれしかりけれ」の歌を紹介。冬のような冷え込みが続く日韓関係も、そろそろ梅が咲き誇るような春に備えるべきだと力強く説いたと信毎は伝えている。