豊田真由子の暴言・暴行の音声録音の衝撃
パワハラが横行する世の中だが、文章ではなく、実際の現場録音を聞くとさすがにショックを受ける。
こうした暴言を吐き、暴行をしている者は世の中にいっぱいいるとは思うが、建前上国民の負託を受けてという立場の人間であるから、離党で済ます問題ではない。直ちに辞職し、表舞台から去るべきだ。
秘書だった男性は傷害罪で警察に訴えていて、ここまで事が世の中に知られてしまえば「もみ消し」は無理だろう。
新聞の社説では秘書にとって議員は絶対的立場とあったが、そうだろうか。選挙活動から始まって日頃の政治活動もスタッフのサポートがあってこそ回っていく。同志ではあっても召使ではないだろう。
議員になったとたん、「先生」などと呼ぶのもおかしい。
豊田議員は日常的に当たり散らしていたらしいが、この暴言・暴行の直接の引き金は支持者へのバースデーカードの宛名や住所がちがっていて、そのお詫び行脚の後の怒りの爆発だったようだが、支持者にバースデーカードを送るという活動も本来の政治活動とは言えない。
暴言・暴行の当事者は「心身症」だとして入院してしまったようだが、確かに病的ではある。議員失格であることを本人及び周囲も認めるしかない。
無能な使えないオヤジ秘書だと馬鹿にし切っていたのだろうが、しっかりICレコーダーに録音されて、週刊誌にもちこまれてしまった。落選した時候補者が口にする「この結果は私の不徳のいたすところ」の典型になった。こんなことが起こるのも今の日本の選挙制度が原因だ。小選挙区制度は風が吹いた方に大量の当選者を生み、しかも政治資金が豊富な側が勝利してしまうのだから、資質も経験も足りないのに国会議員になってしまい、信頼に値するスタッフも確保できず、イライラが募って、精神に変調を来たし、とんでもないことを仕出かす結果になる。
だいたい今の安倍政権下で自民党から選挙に出ようと考えること自体、権力とか名誉への野心でしかない。またそんな候補にすり寄って支持者だの、後援者だのという側も利得を得たいからだ。
この政治風土、日本国民があまり疑いもなく長年つちかってきたものだ。
「テロ等準備罪」という名の「治安維持法」成立
国内外からの危惧と批判に一切耳を貸すことなく自公・維新の数の力で押し切った。
これから公安警察のやりたい放題。今までは違法とされた捜査・逮捕が何の縛りもなくできる「警察天国」が出現する。
今でさえ、捏造・冤罪・隠ぺいの巣窟の感がある警察組織。
それにしても国会内だけの活動では数の力で押し切られるのは目に見えていた。
今更だが、反対する野党の国会議員は街頭に出て、もっともっと訴えるべきだった。
戦争協力の児童文学作品を掘り起こした『戦時児童文学論』・山中恒
「あったことをなかったことにはできない」とは文科省前次官の前川氏の至言だが、戦時中、多くの童話作家たちはせっせと翼賛童話を量産した。しかし戦後は一転、あったことをなかったかのようにそれらの作品は抹消し、平和に資する作品に転向した。
1931年生まれの山中氏は、当時大家であった、小川未明、浜田広助、坪田譲治らの戦時中の作品を掘り起こして、そのご都合主義的な作品を解説・批判している。
それらの作品の基本はまず日本の中国大陸への侵略を「蒋介石が悪いことをしているので、それをおさえるために日本の軍隊が中国へ出かけて行って戦っているのだ」とする。戦後に生まれて子供時代を過ごした者からすると、「なんでわざわざ中国まで出かけて行って戦争しなきゃいけないんだ」と思うが、明治維新以降日清・日露・第一次世界大戦と常に朝鮮半島や中国大陸で戦争するのを経験しているので当時の人はそれを当たり前と思っているので、子供から大人まで書いている作家たちも疑問に思わない。
もう一つの柱は「銃後美談」というもの。父や兄が戦地行ってしまって、残された家族はその留守を守って生活に苦労するが、子供は母を助け、けなげに働いたりする姿を描く。
戦後になっても戦争を加害の事実としてではなく被害の大変さにすり替えて疑問を持たずに今日まで来た日本人にはとても好まれるストーリーである。
政府の圧力に屈して、屈してというそういう自覚すらあったかどうか疑問だが、「呪術的国体原理主義」がアジアの解放、聖戦というグロテスクな理屈を正当化させたと山中氏は考える。
60才以上の高齢者が子供の頃親しんだり、聞いたことのある童話作家で、戦時中にすでに創作活動をしていた者で翼賛童話を書かなかったものはいなかったのではというぐらいだ。
わずかに「トラちゃんの日記」などで知られる千葉省三は戦時中創作活動をやめてしまい、田畑を耕していたという。
今でも圧倒的に評価の高い宮沢賢治や新美南吉は早世したがために戦争協力の作品を書くことはなかった。
ただ宮沢賢治は「八紘一宇」を唱えた国柱会という宗教組織に一時所属していたことがあり、もう少し長生きしていれば「聖戦完遂」の波に飲み込まれていたかもしれない。
安倍政権下でファシズム体制が進められている日本だが、天皇のもとに一丸となってという拠り所がない。
安倍様のためにという人はこの日本に一人も存在しないはずだ。安倍の意向を背景に悪だくみをする輩は後を絶たないだろうが。
情報を得ることができなかった悲劇「満蒙開拓」
生協の企画で長野県の南部阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」に行った。
私の住む長野市からは遠く、なかなか個人では行けないところだが、一度は行ってみたいと思っていた。
元高校教師だったというボランティアガイドさんが適切なガイドをしてくれた。
長野県は全国で最も多くの開拓団を送り出し、敗戦による混乱と逃避行の中で俗に「八万人」と言われる犠牲の中心になってしまったわけだが、長野県が突出して多くの開拓団を送り出した背景にあるのは学校教師の熱心な勧め、市町村幹部の国からの要請に答えようとする強制に近い行動があったという。
昭和恐慌による不況、それまでの農村の経済を支えた繭価の暴落など苦境による背景はあるが、それは長野県に限ったことではない。
教師と役所という「おかみ」の権威に従う習性はいまだ県民の特性のように思う。
昭和初期、農村と都市との貧富の差は拡大し、持てる者、大企業や大地主による収奪は現代の「1パーセントの富裕層と99パーセントの貧困層」と表現される状況と酷似した状態にあった。
「作られた貧困」によって苦しんでいた農村の二・三男以下が「二十町歩の地主に成れる」という宣伝文句に惹かれ、思い切って満洲の地に夢を託したわけだが、ここにもうウソがあった。満蒙開拓とはいうが、全くの原野を切り開くのではなく、すでに中国人が耕し、住んでいる土地を安く買い占め、追い出した後に入っていったのだった。
満洲国を支配する関東軍にとって、多くの日本人を移住させることは、国境を接するソ連への備えとしての兵士、それは青少年義勇軍という形の動員であり、また満洲で育つ子供達を将来の軍の担い手としてみなすという意味もあった。
しかし敗戦の一年前ぐらいには開拓団以外で中国東北部に進出していた企業などの幹部は日本の敗戦を予測していて、家族などは日本へ帰す算段を始めていた。
しかし開拓団を送り出す農村の側にはそうした情報は知らされず、敗戦の年、五月に出発した開拓民もいたのである。
ところで、ガイドしてくれた元高校の先生は敗戦の年には中学生で、軍国主義教育に洗脳された軍国少年だったという。
森友学園の園児がわけもわからず暗唱させられていた「教育勅語」は、当時は行事の時に校長が奉安殿でから取り出し、壇上で重々しく読み上げるものであって、その間、生徒は頭を下げたまま顔を上げることもできなかったという思い出を語ってくれた。
戦後生まれの籠池はそんな体験もなく、安易に利用したのだ。
行きのバスの中で見たビデオでは生き残って日本に帰国できた体験者の方々が戦争反対を結びの言葉としていたが、今「戦争のもたらす悲惨さ、残酷さ」は当時と同じ形では出現しないであろうから厄介だ。
当時の人々もおそらくそうだったろうが、いつの間にか巻き込まれ、呑み込まれてしまうのだ。
憲法改悪、共謀罪、秘密保護法、と、もう巻き込まれている。