大阪府知事に橋下徹氏当選。
自公の推薦を受け、選挙を支えてもらいながら、「改革」を訴えるという、詐欺的手法だが、知名度と、度を越した弁舌で、「お笑い好き」の府民の心を捉えた結果だ。
小泉純一郎の「郵政民営化選挙」に酷似した現象だ。「改革」を訴えるフリをして、実は国民の金を掠め取る。立派な詐欺だった。
詐欺はだます方が一番悪い。しかしだまされるほうにもスキがあるので、成立する。
東国原宮崎県知事が当選した場合と同列視する意見もあるが、それは違う。
東国原氏の場合は、既存の保守勢力が担いだ候補を破っての当選で、今までのしがらみを嫌った県民の支持を受けた結果だ。
みじめなのは民主党だった。だいたい大阪の民主党は、直前の選挙まで自公との相乗りだった。
それが小沢民主党代表の「自民との相乗りはしない」との方針により、独自候補を立てただけだから、力が入らない。
幹部や夫人達も大阪入りして応援弁士になったが、今までの地方議会での民主党のあり方から考えると、しょせん、パフォーマンスにすぎない。
本当は、70年代の社共の統一候補が、対立候補としてのぞましいのだが、どうもこの護憲・平和・生活者重視を主張する両者が、共同行動を取ろうとしてないように見えるのは、日本国民にとって不幸なことだ。
地方の議員の実態を見ると、社民党のほうにより問題があるように感じるが。彼らは、自民・公明・民主と一緒に、議員の特権と、甘い汁のほうに吸い寄せられている。
社民党と共産党が歩み寄るためには、より度量の大きいほうが、一歩相手のほうに降りていく、というのが解決法だと思うのだが。
共産党側の決意(日本のこれ以上のアメリカの属国化を食い止める、人間らしい生活を普通の人に取り戻させるという使命感)に期待するしかない。
そうすれば、多くの無党派の人々がその周囲に集まるだろう。とこういう考え方は70年代的思考を1歩も出ていないことかしら?
橋下氏は選挙の終盤、乗りに乗って、選挙カーの上で、動き回りながら、意味不明なことを叫んでいたが、明らかにやりすぎだ。
これが頂点で、これから彼の首長としての評価は、さがることはあってもあがることはない。
そこへいくと、小泉氏や、田中真紀子さんは、なるほど不特定多数の街頭の聴衆をひきつける才能はあるが、決して「やりすぎ」てはいなかった。
そこが何十年も政治で食べて来た者と、テレビでもてはやされて、引っ込みがつかなくなったような、素人政治家との違いでは。
やりすぎると、目いっぱいになってしまって、次の手が打てない。だから出したくても、ちょっと手前でやめておくのが、彼らのやり方だったなあーと、テレビを見ていての、これは感想。
最近、大阪へは行ってないが、大阪と京都の違いは、もともと大阪発祥の大手企業が軒並み、本社を東京に移してしまっているのに、京都の中核企業は、本社機能と、核になる研究部門などは京都に残していて動かしていないという。
大阪人は東京への対抗意識を口にするわりには「ヘタレ」のようだ。
つい先日、大学センター試験が行われた。
この試験を受けるほどの人たちは、まあ、「教育格差」と言われる現在の日本にあって、上層部に位置するのであろうが、
少し前の信濃毎日新聞では、いわゆる偏差値の低いとされている高校ほど、授業料免除を受ける生徒の比率が高いという調査を報じていた。
いわゆる進学校に通うような生徒の家庭は、親の教育への関心も高く、成績をあげるための塾通いの費用を出せる余裕がある、その結果としての、上位校進学という厳然たる事実が、今更ながら明らかになったということなのだが。
収入の低い家庭では、その日をしのぐのが精一杯。とても子供の教育に関心を寄せる余裕がない。
その結果、学習意欲が低下し、わからなくなったからといって、それをすくい上げる塾とか、家庭教師に頼る余裕がない。
それでも高校へ行かなければ、まともな就職もできない今日、少子化で、高校の定員に余裕があるので、とにかく高校へだけはみな行く。
自分が高校時代の授業料がいくらだったか忘れてしまったが、公立高校の授業料はごく安かった、と思う。
その後、年々授業料は上がって、今はいくらなのか。
学生生活を送るには、授業料さえあればいいのではなく、その他もろもろの費用もかかる。
こうして収入格差が次世代の教育格差を生んでいく。
ところで、ここから私が言いたいのは、格差の上にいる人間が、いわゆる学校勉強をして、世の中に出て、その学校勉強が役に立っているかどうか、ということだ。
一番わかりやすいのは、官僚というか、役人の仕事だ。
農業、医療、社会保障、治山・治水など、役人が机上で計画を立てた事業で、うまくいっているものがあったら教えてほしい。
ことごとく、実際の現場で裏切られ、その底の浅さが露呈する事例ばかり、のように思えるのだが。
なぜか?実際に現場で仕事をしている人たちの意見に謙虚に耳を傾けないからだ。
まれに軌道に乗っているものがあるとしたら、それは、珍しくも役所の担当者が、現場の意見に沿って、計画を軌道修正した結果だ。
なぜ、こうした「机の上仕事」の好きな、というか得意な人たちは、かくも傲慢なのか。
学校の勉強などというものは、できないよりできたほうがいい、知識はないよりあったほうがいい、という程度のものだ。
たしかに普通の人ができないような、専門的技術を持つことは(例えば医師の仕事など)、できないよりできたほうがいい、というレベルではないが。
私は、まず男も女も人間として、生活者として自立することが一番の基本だと思う。
掃除や洗濯、炊事といった家事をしない者に、役所で環境やゴミ担当をさせても、現実と合わない政策が出てくるばかりだ。
家事はともかく、全ての現実を体験することができないからこそ、現場で、汗を流して、どろやほこりにまみれて仕事する人の意見を尊重すべきなのだが。
進学校に通い、偏差値の高い大学に進学し、それでエリートになっても(その間、生活に関わる日々の仕事を親が引き受けているような状態では)、半人前だということを自覚しなくては。
そうすると、日本の半分ぐらいの男達は、半人前ということかな?近頃エリート女性と言われる人にも、そういうの増えたような気がするが。
そういう私が、特別生活者として優れているわけではないが、とにかく自分のことは自分でやってます。あったりまえ。
では、勉強はできないままでいいか、というとそんなことはない。
勉強のできる、口の上手い奴にだまされないようにするための知識は必要だ。
だまされない人が多くなると、エリートだなんて、威張っている一部の人間は真っ青ですね。
そうならないように、懸命に暗躍しているわけですが。
先週の国会は、衆院の再議決で「新テロ特措法」を可決した。
インド洋上でのアメリカ軍その他への「給油活動」が再開される。
国際情報によく通じているジャーナリストや専門家、NGO活動家などは、この自衛隊による「給油活動」は殆ど知られておらず、これをもって、日本の国際貢献などと、誰も思っていない、と言うのに、与党の政治屋だけが、まるでこれがなければ、日本の国際舞台での明日はない、みたいな言い方をしてきた。とてもむなしく、白々しく聞こえはしたが。
今の、というか、戦後ずっとだが、政府与党は、「アメリカ絶対・追随教」という宗教にマインドコントロールされてきた。この呪縛を解くのは容易ではない。
これを解く努力をするより、「総入れ替え」をするのが一番。
アフガンニスタンで医療活動や灌漑事業をしてきた中村哲氏や、国連による平和維持活動の一環として、「アフガン軍閥兵士の武装解除活動」にあたった伊勢崎賢治氏などが、「日本が今求められているのは、アメリカの軍事活動に追随することではなく、NGOなどによる復興支援活動であり、給油延長は、対日感情を悪くするだけだ」と、体験上から提言しても、マインドコントロール組は聞く耳を持たない。
今年のNHK大河ドラマは、幕末の政治転換を扱った『篤姫』だが、あの時代、時代を切り開き、乗り越えたのは、幕府側の上級武士ではなく、外様の、とりわけ下級武士だった。今の自公政治、「退場の時」である。
しかし、それに変わる「新しい流れ」がまだできていない。ジレンマだ。
民主党は、「イラク特措法延長」採決を欠席してしまうような、党首とは決別しなければ、「政権交代」の意味はない。
自民党的政治の象徴でもある小沢一郎が、自民党外で活動する意味に、気づく時だ。
社会民主主義の流れに反対の民主党議員は、自民党に行けばいい。
世論調査を都合よく持ち出して言うなら、世の人々は、福田総理も嫌だが、小沢総理はもっと嫌、と思っている。
何か気まぐれで、信用できない、これが国民が小沢氏に持つ印象ではないか。
それにしても、小泉チルドレンとか言われて、バブル的に当選した議員で、次は選挙厳しそうだから、降ります、と宣言する議員が一人もいないところを見ると、議員て、よっぽど美味しい身分なのか?
以前、親の跡を継いで、後援会の求めで議員になったものの、とても自分には向かないと2期目の出馬をしなかった人が、いたけれど、それ以外で、そういう人を、後にも先にも聞かない。
国会議員を「世襲のおいしい職業にしてはいけない」。
テレビのコメンテーターの一人が、「今、外国の新聞に日本のことは記事にならない」と嘆いていたけど、私はそんなことはどうでもいいと思う。
あやしげな格付けもどうでもいいと思う。
ヨーロッパから見れば東の果てで、人々が安心して、身の丈にあった生活ができれば、それでいい。
少し前、『朝を呼ぶ口笛』という、吉永小百合、映画初出演、という作品を見た。
50年近く前の映画だ。小百合は主役ではない。
主役は、職人の父親がケガで思うように働けなくなり、朝の新聞配達をしながら家計を助ける少年だ。
小百合は、この配達少年を励ます役だ。
高校への進学を目指してがんばっていたところ、今度は母親が、病気で入院してしまう。
進学のために貯めていたお金を、母の入院費に回すことを決意した少年は、高校進学を断念して、工場で働くことに決める。
それを知った、仲間達が少しづつお金を出し合い、少年は再び高校進学をめざすことに。
「貧しさの中の連帯」、50年代、60年代はこういう傾向の映画がたくさん、というか、大部分を占めていた。
私の小学生時代、『にあんちゃん』という、九州の三池炭鉱地帯に暮らす、在日朝鮮人の少女、安本末子の手記がベストセラー本になった。
映画、ラジオドラマにもなり、映画も見たし、ドラマも熱心に聞いた。
エネルギー政策の転換で、炭鉱は不況。大量解雇の嵐の中、安本一家をはじめ、炭鉱労働者たちは、その日の食事にも事欠くことも。
そんな時、同じ炭鉱住宅の長屋暮らし、お互いの生活状況は手に取るようにわかる。
隣のおばちゃんが、夕食に呼んでくれる。遠慮しながらもその日の食にありつくことはできた。
貧しいけれど、食べるものがなくて餓死する人はいなかった。
ところが今、世の中全体には物も食べ物もあふれているのに、「おにぎり、食いたい」と、メモを残して死んでいく人がいる。
資本主義が高度に発達して、豊かな消費社会になればなるほど、人は分け合うことは忘れ、連帯を忘れ、バラバラに切り離されていく。
長屋暮らしにプライバシーというようなものはない。だから、人々は鉄のトビラをピシャッと閉めれば、自分達だけの干渉されない空間になる、団地生活にあこがれた。
そして、隣の住人が、今まさに餓死せんとしている状況にも気がつかなくなってしまった。
「貧しくても、お互いに助け合って」とか「貧しくても愛さえあれば」というようなことを言いたいのではない。
だけど、どんなに豊かになっても、そこに矛盾はある。だからお互い助け合うことは忘れてはいけないのだ、と思う。
政治学者の山口二郎は、「政治とは富の再配分」だと言っている。
どんなに才覚のあるがんばりやも、一人で仕事や事業を成し遂げることはできない。
自分が得た利益を社会に還元する精神を持たねば、だが、掛け声だけで、そうする人は、おそらく少ないだろうから、制度として、それを確立する。それが「政治」ということだろう。
小泉元総理の秘書官だった、飯島勲氏は、長野県は駒ヶ根の出身。
小泉氏の秘書は退いたが、その息子、信次郎を後継ぎにするべく暗躍し始めている。
世襲議員が占領する日本の国会。封建時代に戻ったようだ。
3世議員の小泉純一郎、麻生太郎、安陪晋三、この中の誰一人として、まともな人間とは私には思えない。
4世となったら、さらに「化け物だ。人間じゃない」。
それなのに、飯島氏は信次郎を持ち上げ、「若いけど、私は彼に人間として負けた」と、こんなみえすいたことを、テレビで全国に発信する輩は、鉄の心臓を持った、これまた、まともな人間じゃない。
神奈川のこの選挙区の選挙民の覚醒を期待したい。
地域で人を区別するのは、間違っているとは思うが、それでも言いたい。
「飯島勲は、長野県の恥」。
2008年、元日の新聞(信毎)1面の記事は、長野県内の「ヒートアイランド現象」についてのものだった。
さわやかで、涼しい、というイメージの信州も、都市部では、郊外にくらべて、1、2度気温の高い、「ヒートアイランド現象」がすすんでいることが、調査で明らかになった。
そうだろう。私の住んでいるところは、長野市郊外の農村集落だが、近頃、敷地内に大木を持つ家が減ったし、土の部分は、駐車のためにコンクリート敷きにしている家が多くなった。
我が家は敷地が広いので、大木も切らないし、車の駐車のためには、バラスを敷き、それ以外で、歩くところは踏み石にしてある。
それぞれの家にはそれぞれの事情があり、口をさしはさむものではないが、できるだけ、涼しく過す工夫を、みんなしなくなったなあーという感想を持つ。
21世紀は、地球温暖化を食い止め、資源のムダ使いをなくし、「持続可能な社会」を作ることが、国を超えての課題になる世紀だ。
最大の環境破壊、資源の無駄遣いである「戦争なんかしてる場合じゃない」。
オバマの勢いは続くか。
その意味で、最大の「戦争国家」「軍需産業国家」、アメリカも変わらざるを得ない世紀に入ってきた。
イラク戦争に一貫して反対し、「アメリカは変わらねばならない」と、人々に呼びかける、黒人系大統領候補、オバマが、民主党の指名を受けるための、最初の党員集会、アイオワで勝利したのは、その兆しが、アメリカにも芽生えているということだろう。
未来を生きねばならない、若い人の支持が集まっているという。
これに対して、当選すれば、初の女性大統領になる、ヒラリー・クリントンは、第3位と苦戦している。
有能であり、経験も豊かであるが、それだけに「変革」するというイメージを、若い、未経験なオバマに譲ってしまっている。
夫のクリントン元大統領が、すっかり主役を降りた気楽さで、大きなカカシ、木偶の坊然として、そばに付き添っているのが、おかしい。
よけい間延びした印象を与えている気がするが。
誰が当選しても、イラク戦争、パレスチナ政策の大転換を決断しなくては、アメリカも地球も破滅だ。
アングロ・サクソン系白人の持てる男性が、今までのアメリカの最高リーダーだったが、その価値観は、21世紀には通用しない。
一方、わが国日本では、永田町あたりで徘徊する政治屋の考えることと、国民の願いとは相変わらず乖離している。
何かといえば「ねじれ国会」「ねじれ国会」と、それが悪いことのような印象を振りまくのに躍起になっているが、ねじれているからこそ、法案を通すには、ていねいな論議が必要になり、数の力で、官僚言いなりの、国民無視の法案を、まるで儀式のように、通してしまうことがなくなる、という意味で、「ねじれ」多いに結構。
安陪でたらめ内閣の時に通ってしまった法案、ひとつ、ひとつ廃案にしていくのが、これからの真の政治家の仕事だ。
その意味で、「大連立」など国民はのぞんでいない。世論調査もはっきりそう出ている。
これがわからない政治家も「古い体質」と言わねばならない。
小沢一郎は、古い政治家。あまり信用するのは危ない!