ひたすら属米の道を。TPP交渉参加へ。
今日の信濃毎日新聞の1面トップは野田総理が8日にも参加を決定し、APECで表明するという記事だった。
これだけ国民の反対や疑念や拙速だという懸念が多い政策を、大多数の国民の不安には耳を傾けず、説得も試みず、ただアメリカと亡国・売国の財界トップの指示にだけ従って決めるというわけだ。
昨日・今日と二日に渡って、長野県の農業関係の団体、医師会、生協関係、その他が「TPP反対の全面広告」を打った。
今朝のTBS「サンデーモーニング」のコメンター陣は、毎日新聞論説委員の岸井某以外は拙速なTPP参加表明に懸念を示す布陣だった。
先週のフジテレビの朝のワイドショーには『TPP亡国論』の著者、京大大学院准教授の中野剛志が出演して、とかく両論併記的な結論に持っていこうとするテレビ局側に対して、攻撃的にこれに反論した。
この態度に賛否があったようだが、正論を言う側に攻撃性がもっとあってよいと私は近頃思う。
紳士的に振舞う必要はない。相手が紳士どころか、卑劣な大泥棒ないしはその加担者なのだから。
TPPに関しては、農産物の関税ゼロによる日本農業壊滅がクローズアップされているが、アメリカの要求は農業にとどまらず、医療、金融、その他のサービスに関して「アメリカのルール」を押し付けるものになっている。
全面広告では8項目に渡って、その影響を挙げている。
①地域医療の崩壊②地方経済の疲弊③失業者が急増④狙われる日本企業⑤日本農業が壊滅⑥世界の食・環境悪化⑦デフレ不況深刻に⑧食の安全行政が後退と、これでもかの悪影響ばかりでいいことは何一つない。
これだけの悪影響に関してTPP推進派による反論や、TPPに加わることの明確なメリット、ビジョンへの言及は皆無といっていい。
ただ「乗り遅れるな」という言葉しか聞こえてこない。
遅れを取るなというという時に引き合いに出す韓国、アメリカとの2国間のFTA協定を結んだが、これがTPPに近いアメリカ一方的有利な内容ということで、今韓国では大反対闘争に発展する様相だ。
今や野田総理をはじめとして民主党政権のトップは従米からさらにすすんだ属米状態にある。
なにゆえこうまでしてアメリカの召使になりたがるのか。
アメリカの言いなりにならないと、首相にさせてもらえないし、逆らうとすぐ首を切られる、ということになっているらしいのだが。
しかし日本のため、国民のために働くのが政治家、とりわけ国会議員のはずでは?
政治的使命を全うしようとしたがために、引き摺り下ろされたり、あるいは命の危険を覚悟してなるのが政治家というものだと思う。
その覚悟なくして議員になりたがったり、ましてや首相になりたいなどと手を上げないでもらいたい。
さてこれだけ日本の政治屋達に睨みが利く「アメリカ」はさしずめ大暴力団というところか。
しかし近頃その大組織も「しのぎ」に陰りが見えてきた。そこで下部組織に更なる上納金を求めてきたというのが「TPP構想」ではないか。
「アメリカルール」は地球を不幸にする。
自国には国民皆保険の制度もなく、それを作ろうとすると大反対が起きる国と同じグループに入るわけにはいかない。
そして大暴力団アメリカの大親分達の横暴と強欲には、下部の組員も音をあげはじめ、大親分の牙城「ウォール街」に連日デモをかけ、「我々の富を独り占めするな」と正当な叫びを上げ始めている。
アメリカ東部は時ならぬ「10月の雪」に見舞われているようだが、デモ参加者達は「雪も雨も嵐も関係ない。デモは続ける」と語っていた。
前回のブログで、中村敦夫さんが提唱した環境政党「国民会議」を取り上げてみたが、中村さんは国政の前に各地域で環境政党なり、環境を第一テーマにする議員を増やし、その影響力を国政の場に、と2段階構想的な考え方を持っていたようだが、それからほぼ10年。地方議員や首長の劣化は相変わらずで、議会は住民の声には耳を傾けず、首長と馴れ合った「○○議会村」を固く守っている所が多い。
私の住む長野市はその典型で、市民会館建て替えより優先すべきことがあるではないかという、市民の声は無視。
今日、市民会館の脇を通りかかったら回りは工事用の塀で囲まれ、取り壊しが始っているようだった。
震災以降、あまりに遅く、非効率な国や県の対応を待っていられないと、立ち上がる人々が被災地を中心に出始めているが(市民による放射性物質の測定など)、その活動を通じて「自覚的政治勢力」になっていくのはこれからなのだろう。
国政選挙における「1票の格差」が裁判などを通じてクローズアップされているが、人口に対する1票の格差だけを問題にするのはどうなのか。
それだけを追求していると極端な話、人口の多い都市の議員が圧倒的多数を占めることになってしまう。
格差を言うなら、選挙制度とセットで論じなければ。大政党である自・民は議員定数削減を言う時、すぐ比例部分の削減を策動するが、その根拠は何か。「比例削減なら選挙区割のややこしさがなくて、少数政党は無視していい」というだけのことで、民意の無視、民主主義の破壊にほかならない。
アメリカの惨状を見よ。
アメリカには共和・民主の2大政党しかないように見えるが、実は共産党もある。議席がないだけ。
弱肉強食的経済活動が勝手気ままにできる、したいという意味においての自由主義社会であるアメリカの国是は「反共産主義」。
FBIの潜入捜査官が誰が知りたければ「共産党の集会」にいけばいいという。メンバーの3分の1ぐらいがFBIのスパイだとか。
日本の共産党もこうしたスパイによる内部かく乱に常にさらされてきた歴史があるため、その警戒の習い性が外部から見ると「意固地・独善・猜疑心が強い」と映り、「言っていることは正しいと思うけど、でも・・・」と嫌われてしまう。
ジレンマだ。では「物分りのいい、社民党に近い政党」に変わるのがいいのかというと、それでは共産党ではなくなってしまうのでは?
七〇年代あたりに比較すると衰退してしまった共産党だが、それは社会主義諸国の90年前後の崩壊の影響と活動家の高齢化によると思うのだが、こんにちまでに培ってきた組織力とか調査力、分析力、献身的精神などを、国民の側の政治勢力構築へ協力するフェロー的立場になれば、というのは夢想だろうか。
これも佐高氏が書いた物にあったエピソードだが、政府関係の事務局だったかの職員の各党に対する評価。
公明党員は「頭は悪いけど仕事は力惜しみせずやる」
共産党員は「頭はいいし、仕事もできる」
そして社会(社民)党は「頭は悪いは、仕事はしないは」と散々の評価。
佐高氏自身は高校教員時代の組合活動以来の社民党員かシンパか知らないけど、その彼にして社民党はほめるところがない。
特に地方の社民党はどうしようもない。だけど普通の人を一番反映しているのがこの党なのではないか。
佐高さんもダメ亭主を見放せない世話女房みたいな気持で、社民党と行動を共にしているようだ。
このエピソードを書いた時点では民主党はまだ誕生していなかった。
自民党の評価は覚えてない。評価に値しないということだったかしら。
新しい政治潮流をいかに。
民主・自民以外の第三極、それも国民の側に立った社会民主主義の勢力をいかに増やし、政治の世界に影響力を持つようにするにはどうすればよいのだろうか。
今まで私は社・共にそれを期待してきたが、悪制である「小選挙区制」のために影響力は選挙のたびに激減してきた。
しかし少ない影響力ながら、この間の原発やらせ問題で、電力会社のウソや経産省も関わったやらせをあばいてきたのはこれらの政治勢力、特に共産党の議員達であったことは忘れてはなるまい。
しかし今現実問題としてこの社共で政治の決定に影響を持つ勢力を国会の場に構築することに展望が見えない。
それよりも日本の、そして世界の将来を見据えた政治勢力を作り、その流れに社共も否応無く合流せざるを得ない状況を作っていくほうが合理的なのではという気がする。
具体的には環境政党=緑の党構想だ。ドイツには国民のための政党として、歴史と経験を積んできた「緑の党」があるが、日本でも元参議院議員で俳優の中村敦夫さんが立ち上げた「国民会議」があった。
正確な年は忘れたが、「さきがけ」の候補として参議院議員に当選した中村氏が、「さきがけ」解党後、みずから立ち上げた政治パーティーだ。
再選をめざして出した冊子「21世紀宣言」ー日本合州国構想ーが私の手許に残っている。
前文で「自立した個人の結集をめざす民権政党である国民会議は脱イデオロギー、国民主権の未来型政党である」と宣言し、中央集権、官僚独裁の縦割り行政に代る地域主権の住民や自治体政治家の連合体を目指すとしている。
多国間を駆け巡るマネーゲームを批判し、原発や石油エネルギーに代るエネルギー(太陽光発電や風力発電など)の開発に全力を上げることをこの10年ほど前の具体構想で示している。
軍需産業の廃止を訴え、「日米安保条約の10年以内の発展的解消」も言っている。
左派イデオロギーには距離を置く立場にしてこの現実認識だ。
今の自・民の何が何でも「日米安保同盟」の思考停止とは対極で、社共勢力も乗れる政策である。
日本国憲法に関しては「憲法の実現」という立場だ。世界で最も崇高な理念を掲げた「日本国憲法」であるが、日本の実態を見る限り、憲法の理念とはかけ離れた官僚主義が横行している。だから国民会議の立場は「護憲」ではなく「実憲」なのだ。
日本の財政赤字の理由を官僚と政治家は口を開けば、社会保障の膨張のせいにして、それを打開する手だてをすぐ消費税に頼ろうとしているが、赤字を作ったのは官僚組織とそれと結託した政治家達だ。これらを野放しにしたままでは「財政赤字」は永久に、それも天文学的に増えていくだけ。
国民会議の構想では外交や防衛、研究開発といった、直接納税者がその恩恵が見えにくいものは「国税」として「応能負担」、つまり払える能力のあるものが負担し、その税が直接生活者のサービスにつながるものは「応益負担」とし、州税(県税)・市町村税とするのが望ましいと提案する。
これらの構想を掲げて参議院比例区に十人(比例立候補の最低必要立候補者数)を立てて戦うも中村氏(東京地方区?)をはじめとして当選者を出すことができなかった。どころか比例立候補者が誰も法定得票数に達しなかったため、供託金1人600万円はすべて国庫に没収。
私はこの構想こそ、自・民・公ではなく、さりとて社共にもためらいがある中間層が賛成できるものだと思ったが、少数政党として、マスコミ=テレビの政策論議の場に呼んでもらえず、広く国民に知られる機会がなかったことも大きな要因となって、国会に政治勢力を送ることができず、おそらく没収された供託金6000万円の大半は中村氏が借金をして調達したものと思われ、今はその借金を清算することが中村氏の最後の務めなのだろう、その後彼の政治的発言は聞こえてこない。
少数政党、少数意見は徹底的に国民から隠し、判断の材料を与えない。これが権力とマスコミの作戦だったが、インターネット時代に入って、「求めよ、されば与えられん」という環境になった。
国民の側の本気度・真剣度が試される。「知らなかった」ではバカを見る。
今週の衝撃は「ウォール街を占拠せよ」という格差社会アメリカに抗議する大規模デモと、小沢一郎の政治資金をめぐる一連の判決や公判開始、そして沖縄密約判決か。
「富める1パーセント」への怒り。 検察からバトンタッチの裁判所。
今回の格差社会への抗議デモの特徴は貧困層やマイノリティーだけではなく、基本的には「中間層」を形成するはずの学歴もある若者達が抗議の中心を占めていることだと思う。
「アメリカンドリーム」に毒されてきた人々もようやく気づいて行動を起こしたのだと、そんな印象がある。
規制のない「金融資本主義」の行き着く果てを最もはっきりと体現しているのが今のアメリカだ。
新聞記事によれば、ノーベル賞経済学者のジョセフ・スティングリッツ氏もニューヨークの抗議会場に現れ、現在の状況を「1%の1%による1%のための政治」と批判した。
1%の富裕層、ウォール街に巣食う「金融詐欺師達」が99㌫の人々の富と生活を奪い平然としている。
抗議デモに加わった若者達は大学を出ても職がない。なのにウォール街の金融機関は公的資金を受け、リーマンショックから息を吹き返し、経営トップは「そんなにもらってどうするんだ」と思うような高額報酬を手にしている。
多額の学費ローンを抱えた大学院生は「多くを求めるつもりはない。朝目が覚めるたびに家賃が払えるか、食事はどうするか、そんな心配をしたくないだけ」と言う。
教育への公的援助が少ないアメリカでは(これは日本もそうだけど)、高額の大学授業料を払うためローンを組む学生も少なくない。それは卒業後の安定した就職が担保になるわけだが、その職がない。
彼らはオバマ政権に期待した人々でもあった。
しかしオバマ氏は当選後、妥協的な人事と政策を繰り返し、強欲なウォール街を抑えられないできた。
市民派とみなされてきた政治家がリーダーとなって、その依拠すべき市民を裏切る結果になるのは日本の菅総理も同じだった。
オバマ大統領も菅総理もトップの座に就いてから中途半端に経済界に擦り寄って妥協した。その結果、国民の支持は失い、社会状況も最悪になっていった。
市民派の彼等がやるべきだったのは、徹底して富裕層ではなくそれ以外の国民の側に立った政策を進めることだったのだがそれはできない。
なぜなら二人とも「2大政党制」の申し子だからである。
「2大政党制は民主主義の墓場」という至言はまさに今のアメリカや日本の状況を見れば、行き場のない人々の気持そのままで、単なる言葉のあやではなかった。
アメリカに広がった抗議行動は次どう展開していくのかそれが問題だ。
日本の場合も震災・原発事故を受けてまだなお既得権の亡者達を退場させられないでいる。
退場させたくても「小選挙区・2大政党制」が邪魔をする。
自民・民主を退場させる新しい政治潮流を作らなくてはどうにもならない。
小沢一郎氏の政治資金をめぐる「虚偽記載事件」。
小沢氏も古巣の自民党議員もこうした政治資金の回し方を伝統的にしてきたと思う。
だからこの資金の原資がどこからきたのかどうかということより「狙い撃ち」をしたんだなと思う。
そして「沖縄密約判決」では「密約」は存在した。しかしそれを示す「文書」は国=外務省が存在しないと言っているのだから存在しないのだと片付けて済ましている。
裁判所の怠慢であり暴走だ。
小沢氏秘書団の判決でも状況証拠だけで判決を言い渡している。
「俺たちが有罪だと決めたんだから有罪なんだ。つべこべ言うんじゃない」ということだ。
検察が大阪地検特捜部の証拠改ざん事件等で信用を落とし、身動きできないので代って裁判所が「検察の傲慢」を肩代わりしたかのようだ。
警察・検察・裁判所はどうせグルでしょ、と思うものの、裁判所がこれでは絶望するしかない。
原発の安全性を問う裁判でも裁判所は国の言う「安全だ」を追認してきただけ。その結果の最悪事故だ。
そしてそうした判決を下した裁判官の幾人かは東電や原子炉建設に関わるメーカーに社外取締役などで天下りしているのだ。
東日本大震災、特に福島原発事故から半年
を経て、感じることは権力を持っていない普通の人のまともさ、真面目さに比較して、政府・官僚、電力会社のトップ、その他財界を代表する人々、それらに飼われている学者・専門家の腐敗が極に達していて、しかも既得権益にしがみつくあまり、思考停止に陥っているという事実だ。
この夏、事故による原発の停止に加えて、定期検査中のもの、再稼働が延期されているものといった状況により「節電」が呼びかけられた。
私の住む地域では、夏の暑さを少しでもやわらげるための黒い遮光シートを窓辺に垂らす家が見られるようになった。去年にはなかった現象だ。
政府や地方自治体の対応が遅れているのに対して、民間ではそれを待っているのではなく、それぞれの現場で活動する姿には人々が危機の時に示す能力をまざまざと見る気がした。
被災地に食料を送る、それを入れるダンボールを提供する会社がある、といった具合だ。
『原発事故への道程』前・後編という番組がNHKEテレで2週に渡って放映された。
元通産官僚の島村武久氏の原子力政策研究会の会合で語られた会議録音を中心にして、戦後の原子力政策のそれこそ道程を振り返る番組であったが、前編を見終わって「原子力発電無責任体制」の過程が、そのまま「平洋戦争無責任遂行体制」と、そっくり重なるのにあ然とした。
あれほどの犠牲を自国及び他国民に強いた日本が戦後も「根本的に何にも変わっていなかった」という感想だ。
正力松太郎氏の暗躍は、この間新聞などでも明らかにされているけれど、この番組では正力氏がアメリカのCIA日本要員だったという事実をあえて抜いていたように感じた。
地震や津波を想定していないアメリカのGE製の「マーク1型」を「ターンキー契約」、建設から試運転までメーカーが責任を持ち、電力会社はキーを回すだけ、つまり運転するのみという「お手軽契約」で、すべてにコスト削減が優先されていた。
今回の事故は津波で電源が失われたことが事故を更に大きくしたわけだけど、福島第一原発の場合、30メートルの台地を海抜10メートルにまで掘り下げて建設された。これもコスト削減のため。
設置後もトラブル続き。「原子力は扱いにくい」が現場の認識だった。
それなのに原発はビジネスとして走り出した。
ビジネスとなれば他社に遅れを取るわけにはいかない。三菱、日立、東芝といった大企業が争って参入していくことになる。
戦慄の道程だが、後編の締めくくり、この政策研究会に所属したメンバーの結論は福島事故後も「原子力をエネルギーの中心とする信念に変わりはない」というのだから、これらのエリートと言われている人達の脳も心も腐っていると言わざるを得ない。
しかし人々の味方になって働く専門家も私たちは知った。
京都原子炉実験所の助教小出裕章氏は、今問題になっている放射能汚染された瓦礫や土は東電の本社に持っていけと言っている。
経産省にも保管してもらえばいい。
放射能汚染地の除染活動をしている東大医学部の放射線医学の教授児玉龍彦氏は、自分の専門を超えて除染の方法を模索している。
そのために汚染物質の保管方法や屋根の除染にあたっては住宅メーカーの知恵も借りるという話をしていた。
私はアフガニスタンで井戸を掘り、水路を作り、灌漑事業をしている中村哲医師に児玉さんを重ねた。
専門を超えて自分の学問と能力を人々のために役立てる。
腐敗した官僚や学者と何が分かれ道なのだろうか。