今日で2月は終わり。春3月に向かいます。我が家でも紅梅がさきはじめました。
今年は雪が少なく落ち葉焼きがもうできます。農家の人は果樹の剪定作業に精を出します。
「モーニングショー」はチャットGptの話題。チャットはしないのであまり興味ありませんが。結論としてはやはり考えるのは人間ですから基礎的な知識や教養は学校や本で身につけておかないと応用ができません。ゲストの先生はそれは認めていました。なんでもいきなりということはありません。積み重ねです。義務教育程度の知識は必要ということ。
最近午後は「ミヤネ屋」を見ています。統一教会やその他新興宗教の問題をよくやるので。今日は「エホバの証人」こちらも「統一教会」とよく似ています。ただ統一教会ほど多額の献金は求めません。しかし信者の親が子供の生活を宗教的観点で縛ることは同じです。それがどう考えても世間一般の常識とかなりずれています。こうした宗教に入信する人はいろんな不幸や悩みにつけこまれて宗教の道に入るようですが、相談する相手や場所がないことがこうしたものがはびこる一番の理由のよう。それを提供できない社会におおいに問題があると私は感じています。
滋賀の強殺無期懲役で服役中死亡。「死後再審」開始高裁認める。(信毎2月28日)。
1984年滋賀県日野町で酒店経営の女性が強殺され手提げ金庫が奪われた事件で犯人とされた阪原弘(ひろむ)さんは無期懲役が確定し服役中に死亡したが、遺族が再審を請求し、大阪高裁がこれを認めた。この背景には「無実に足る新証拠」の存在があるが、この決定を見てやはり思い起こすのは福岡の飯塚事件である。こちらは登校中の小学生の女の子二人が強姦され殺害された事件で、犯人とされた九万三千年さんは「無罪」を主張するも死刑判決を受け、あろうことか執行されてしまった。
この事件については以前にも投稿したが、無罪を主張している人を確たる証拠もなく死刑に処してしまったことは、警察・検察・裁判所の永久に消えない過ちだ。
阪原さんの「無罪判決」が出ることを願う。
「宮沢賢治と小川未明」のカルチャー講座に行きました。ほぼ同時代に生きた二人。ただし賢治は昭和8年37歳で亡くなりますが、未明は戦後も行き抜き昭和36年79歳で亡くなっている。
戦前社会主義運動にも近づき、プロレタリア文学的な小説も書いていた未明。但し時代の厳しい流れにあって、「戦争賛成」に転向していった。賢治は昭和8年に亡くなっているし、しかもまだ無名だったので時代への向き合い方はわかりませんが、国柱会という「世直し的な」結社に参加したりしていたのでもしかしたら「聖戦思想」に傾いていったかもしれません。文化人の多くが当局の圧力もあったかもしれませんが、「天皇制軍国主義」に賛同し、翼賛的な作品を書きました。
軍国主義に迎合できない作家はこの時代沈黙することでやりすごした。農山村に引っ込んで自分や家族の食べるための農業をして生きた文学者もいます。
賢治の作品は死後多くの人に愛され、特に「銀河鉄道の夜」は映画にアニメに漫画に歌にとそのモチーフは数多く作品化されています。この前書きましたが、「赤旗日曜版」のいまむらまさゆきさんの絵は猫が主人公ですがほんとかわいい。
ところで多くの作家が戦争賛成になだれ込んでいった背景はやはり「天皇制」にあると私は思っています。「天皇制」に明確に反対したのは政党で行くと共産党だけで、個人では個人主義と言うか「個」を明確に持っていた人だけだったように思います。こうした集団主義は戦後も人々の間に根付いていて、何かの折に個人への圧力となって顔を出します。
今日は今年になって初めて庭でフキノトウを採取。夕食に天ぷらにするつもり。よくフキみそと言いますが私は野草はてんぷらが一番好き。薄い衣でさっと揚げる、これが一番。
羽鳥モーニングショーで、つくば市で昼夜構わず大音量で軍歌や演歌を流して歩く高齢男性の話題をやっていた。推測するに筑波学園都市の開発で農地を売りお金には困っていない。ただ誰にも相手にしてもらえなくて「俺は寂しいんだ」という心情をこういう形でしか表せない。家庭菜園ぐらいの農業はしているのだろうか。作物を育てていればこんなにイラつくことはないような気がするが。
NHK党と言うふざけた党のガーシーと言うこれまたふざけた議員が国会に出席しないで海外にいるという問題。議員報酬は税金ですし、自身の主張も発しないという、辞職勧告をして国会から放逐すべき。ふたいけんとっけんなど適用する以前の問題。私はつくづく「日本の選挙制度」の不備を感じる。これを直そうとすることを邪魔しているのが自民党。選挙制度を公明正大にすれば自民党はたちまち政権の座からすべりおちますから、本当に連中は政治の場から放逐すべき。
漫画家の松本零士さんの訃報が大きく取り上げられていた。「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」というタイトルは知っていますが読んではいません。
私の「漫画体験」は少女時代のそれこそ少女漫画と大人になってからの「カムイ伝」と「ベルサイユのばら」とこの前取り上げた「はだしのゲン」だけです。でも今「赤旗日曜版」連載の宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにした漫画は楽しみにしています。主人公は猫です。この絵がかわいい。ついでに日曜版には江戸時代の若い産婆を描いた「お悦さん」も愛読しています。私は出産の経験がありませんが、私の母は戦時中から戦後にかけて6人の子供を産みました。一人だけ幼い時に亡くしましたが後は無事成人しました。物のない時代にしかも設備の整っていない家でどうやって子供たちに食べさせ、着るものを用意したのかとこの年になって「私の母は稀有なひとだったんだ」という感想を持ちます。母の母は自分自身が早く母を亡くし、祖母に育てられ、母親から受け継ぐべき家庭生活の諸々をそれほど習得できなかったようなのですが、その分父がしっかりした人で、母は父を見て育ちとても尊敬していました。
こんな晩年になって自分の母親の偉大さを思い、でも今十分に親の愛情を受けられない子供の事件をなどをニュースでみると「私は恵まれていたんだ」という感想を持ちます。
使えない英語を学ぶ意義は?
「英語と日本人」江利川春雄と言う著書が信毎読書欄に紹介されていた。
学生時代英語は特に得意というわけではなかったが、大学受験には必須だったので、わからないながら勉強していた。
江利川氏によると語順もちがう、発音にも共通項がない英語を日本人が習得するにはよほど必要性がないと無理だという。確かに隣国の韓国のハングルは語順は日本と同じ、中国語は発音はむつかしいが漢字なのでだいたい意味は取れる。日本で暮らす大部分の日本人にとって日常生活に必要はない。ただ中学・高校、果ては大学で英語教育を受けると辞書が使えて、発音も近いものを習得している。読み書きは実は日本人の方が現地の人より得意だという。英語圏で暮らす人たちは他言語の国からやってくる人も多いのでとにかく話せる、相手とコミュニケーションをとることが大事で書くことは二の次になる。
会話、会話というが、話せる中身がないとあいさつ程度以上にはいかない。私は今、昔学生時代に使った英語の教科書で英文を読んでいる。ハングルもちょっと教室に通ったテキストを使って時間のある時に自学自習をしている。
もし英語圏の人と話す機会があれば知っている単語を並べれば何とか通じるとおもっている。
広島教育委員会、小学校の教材から『はだしのゲン』を削除で批判を浴びている。
なんでこういう余計なことを考えたりしたりするのか。現政府への忖度が過ぎる。
大体教育委員会と言うところは「ヒラメ体質」の上を目指す教員の巣食うところだ。
『はだしのゲン』は作者の中沢啓二氏が自らの被爆体験と当時の被ばくの悲惨を渾身の力で描いたもの。子どもたちはそれを全身でうけとめるはず。
私は大学を出た後、特に思い入れはなかったが、当時教員不足だった大阪で小学校教師をした。優秀な教師ではなかったが、教室の後ろの本だなに『はだしのゲン』と池田理代子さんの『ベルサイユのばら』を置いた。クラス全員が読んだと思う。
菅政権時に「学術会議」の数名の学者を「任命拒否」していたが、岸田政権もまだそのまま放っているよう。任命拒否された早大教授の岡田正則氏が任命に第三者を関与させるという政府方針を批判しています。そんなことをしたらそれこそ政権の気に入りの任命者が選ぶことになり、これは「学問の死」です。戦前の政府がそうでした。自民党政権と言うのはいったんは敗戦でアメリカに命令されて民主化のふりはしましたが、油断しているとすぐ国民を縛り付けようとする連中です。こういう連中はこの世の中から放逐しなければならない。
こういう連中が議員だけでなくあちこちにのさばっています。要するに「じじい」。
福井県の池田町(池田町っていう町名は日本全国にいっぱいあるんですね。長野県にもあります)。では区長会による移住者の条例7箇条と言うのを勝手に決めて反発をくらっています。例えば玄関を開けていろいろプライバシーを聞いたりするのは地方のコミュニケーションの一つなのだから拒否するなとか、地域の公園や川の清掃にはきちんと出ろとかそのあとの慰労会なども欠席するなとか・・・。もちろん地域の仕事などは体と時間の都合がつく限り出るのが常識だとは思いますが強制するものではない。ましてや慰労会と称する飲み会などは苦手な人に強制してはいけない。
こんなところに移住しようと考える人はまずいないでしょう。もっともじじいはそのうち自然消滅しますが、次のじじい世代が待ち構えている。やはりここは女性が半々で加わらなければ同じことの繰り返し。
今日は雪だった。夕方少し雪かきをした。明日の朝冷えて凍ると道行く人が困るのでそこだけ。
外出の予定だったけどやめた。
トルコでは大地震。ここは地震地帯。隣国のシリアも。紛争はあるし踏んだり蹴ったりの地域だけど人々はここで生きていくしかない。イスラムの信仰の深いところでもある。
「羽鳥モーニングショー」少子化問題とLGBT法案の国会提出問題。この法案に反対しているのは多数を握っている与党自民党。保守派と言うが、この連中はただの馬鹿派の無知派。こんなものが国会議員の多数を占めているという日本はほんと恥ずかしい国。国民の多数も同レベルだということ。脳科学者の中野信子さんも言っているが、同性愛者は一定数存在するのは生物の摂理であって、それをおかしいだの気持ち悪いだのと言うのは学校の勉強をほとんどしてないということ。
少子化の一番の原因は子供を産んで育てる収入と環境がないということ。それと戸籍上の結婚制度にこだわって、「子育て支援」がそこからはみ出している人に届いていないことが理由。
とにかくバカな自民党議員を国会から追放すること。何度も言うがこれしか「日本再生の道」はありません。
西村賢太さん見直す契機に(信毎2月9日文化欄)
昨年2月5日急逝した作家西村賢太さん。まだ54歳だった。私はちゃんと西村さんの作品は読んでないのだが、その作家への道には関心を持ってきた。
中学生の時に父が性犯罪を犯しそこから西村さんの人生は暗転した。そんなことがなければ普通に高校にも進学し大学にも行ったかもしれない。中卒で肉体労働、主にその日暮らしの荷役作業員をした。履歴書を出す必要のない仕事だ。「苦役列車」と言う芥川賞受賞作品はその生活の中から生まれた作品だ。
ここで私は西村さんとはちょっと離れるが、重大犯罪を犯してしまった人の親族のその後が気になる。今までの生活をそのまま続けることはおそらくできないだろうし、引っ越さなけれならないだろう。
秋葉原で無差別に人を刺し殺人を犯した加藤智弘の弟はその後自殺してしまっている。
被害者とその家族はもちろん悲劇的ではあるが、」加害者の家族もまた過酷な運命をたどるのである。それでもこの世から犯罪はなくならない。人は生きていくがやはり生きにくいのである。
西村さんの一周忌にあたって遺族から提供された遺品の中に大正期の作家藤沢清造に関する資料が残されていて、それに関連する短編集「蝙蝠か燕か」が出版されるという。藤沢は石川県七尾市の出身で石川近代文学館にはその資料も残されていて、西村さんは生前ここをよく訪れていたという。
不遇の私小説作家は明治大正昭和前期のイメージだが、西村さんは期せずしてその系列に名を連ねた。
またまたこの画面に入るのに苦労しています。
今日は日差しもあり比較的暖かい一日でした。
友人から2冊の本を送られました。平野啓一郎氏の『死刑について』と小説『ある男』です。
『死刑について』は読み終わり、『ある男』に取り掛かっています。
愛知県で生まれ、父が物心つく前になくなったので、母の実家のある北九州で成長します。
京大法学部の学生の時に『日蝕』という中世ヨーロッパの魔女狩りが登場する作品で芥川賞受賞。
その後の作品は読んでいませんでしたが、今回贈られたので読みました。なかなか思想のある書き手だと思います。
私の関心は冤罪の存在です。平野さんのエッセーにもある「飯塚事件」は私の心の隅に常にあります。限りなく無罪に近いのに犯人とされた久間さんは逮捕から一年もたたないうちに死刑判決を受け執行されてしまいました。あってはならないことでこの一件だけでも「死刑」はあってはならないことと思います。以前にもこのブログで書きましたが、警察は犯人を知っていて、多分警察内部の幹部か地域の有力者筋ではないかと私は推測しています。
警察の捜査はいまだに極めてずさんで権力的です。警察組織の大改革が必要ですが自公政権での実現はまず無理です。冤罪をなくすためにも自公政権を追放し政権交代が必要です。