木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

公約実現の財源は予算の劇的組み換えにある

2009年07月30日 | Weblog

政権選択の夏。
第一党になるであろうことが確実視されている民主党の政権公約をめぐって、自公旧体制から「財源批判」がかまびすしい。
まったく泥棒の居直りに聞こえる。自分達が国民の財を無駄遣いのし放題しておいて、財源云々とは落ちるところまで落ちたその性根。
今までの政・官・財の癒着の自公政権の予算の組み方からすれば、「そんな財源どこにあるんだ」ということになるが、税金を誰のためにどう使うか、これからどういう社会を作っていくのかという政治の見通しを持つことが大事で、そのために政府予算を組み替えることが、次の政権に求められていることだ。
財界・大企業、それに奉仕する政府と行政から大多数の国民の幸福のために主権を取り戻すこと、それが民主党中心の政権にできるのかという危惧は当然あるが、今日本の行く道はそれしかない。
巧みにすりよってくる財界に民主党が取り込まれてしまいそうに成った時、それを大多数の国民の利益の側に引っ張り戻すのが社・共の役目だと思うので、この勢力を減らしてはならない。
財源ということで言えば、無駄遣いの点検はもちろんだが、この間下げてきた大企業の法人税や金持ち優遇の減税をやめ、軍事費を削るというところにぜひ目を向けたいものだ。


核兵器は核保有国にとっても厄介なお荷物。
日本の「非核3原則」は実は「2原則」だったということ、政府は公式には認めていないが今や明らか。
しかしこの「持ち込ませず」の部分、米ソ2大国の冷戦体制が崩壊した今、一方の大国であったアメリカにとっても軍艦に搭載して持ち込む意味は消滅しているという(軍事評論家田岡俊次氏)。
船に積み込まれた核は絶対事故をおこしてはならない。そのための安全対策への神経の使いようは大変なもので、核搭載しないというと乗組員は全員ホッとするのだという。
艦内で事故が起きればまず自分達が全滅してしまう。
被爆の恐ろしさをアメリカやソ連は被爆国である日本ほどにはわかっていなかっただろうし、今もわかってはいないと思うが、それでも通常の兵器とは明らかに次元のちがう兵器である認識はある。それもないのがインドやパキスタン北朝鮮といった新興核保有国か。
90年代に入って、つまりソ連崩壊後、アメリカは軍艦への核搭載はやめているという。今更積めといわれてもそのために訓練をしてないので無理なのだという。
オバマ大統領も「核の厄介さ」がわかっているので、小型の核がアメリカが言うところのテロリストの手に渡ることの危険を前に、「核兵器のない世界」を提唱するに至っている。
軍事攻撃・防衛は仮想世界でしか成り立たなくなりつつある。
田岡氏によれば「軍事タカ派」と言われる人ほど何もわかっていない場合が多いと言う。
現役の自衛隊将校に聞いてもダメだという。彼等は自分の部署のことしかわかっていない。
軍事・防衛費は軍需産業のためだけにある。ここを削減していくのが一番いい。
政治は弱い立場の人に目配りしてこそ政治といえる。強い人をさらに強くする必要などない。

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戦略的小説作法=村上春樹

2009年07月22日 | Weblog

小森陽一が斬る村上春樹の『1Q84』。(朝日ニュースター)
私は村上春樹の作品に特に感心はしない少数派だ。なぜ村上の小説に入り込めないのか、小森氏の解説でよくわかった。
「1Q84」はバカ売れしている。この出版不況の時代に彼の本だけが200万部という売れ行きだ。
ブランド化した村上作品。村上作品を絶賛しない者は「もののわからない奴、文学を解しない奴」というレッテルが貼られそうだ。
今、アンデルセンの童話集を読んでいるが、「裸の王様」という作品は、まさにブランド化したものに人々が群がる愚かしさを突いている。
村上作品は①なぞとき②パラレルな関係がどこで交差するのかの興味③日本人が持っている負の歴史の記憶に働きかけ、それぞれの世代がなんらかの形で持っている罪障感に癒しを与えるという構造になっているという。
それでか、私は小説に癒しを求めていないので、村上作品にはまれなかったわけだ。
過去の歴史における悲惨な情況、例えば戦争の犠牲などは原因と結果がはっきりしているのに、それを文学的オブラートに包んで、それは人々の上にあたかも天災のように降ってきたもので、君にその罪はないのだよというところに導いていく。それで読者は安心する。
ほんとは今世界で起こっている悲惨な情況、アフガンにしてもイラクにしても、アフリカの飢餓や内戦にしても、ガザのパレスチナ難民問題にしても、私達一人一人に突きつけられた罪であり、刃なのに。
人は過去の罪を忘れたい、見たくないものは最初からなかったことにしたい、それは日本人読者だけではない。
村上作品は各国語に翻訳され、特にアジアでの人気が高い。
村上の文章はわかりやすいので、翻訳しやすいというのが外国で読まれる理由かなと思っていたけど、それだけではなかった。
これらの国の読者も過去の罪を背負っている。
中国でいえば、日本の侵略戦争の犠牲者、文化大革命、天安門事件の犠牲者、それらの犠牲者の上に立って、今の自分達の生活があるということを形はどうあれ意識せざるを得ない。その時、村上文学は過去の負の部分は全部忘れてしまいたいという願望にぴったりはまるのだという。
ビジネスマン作家村上春樹の戦略はことごとく当たって、今回の『1Q84』も前作から5年の月日がたっていて、村上読者の次回作への期待感が最高潮に達した時に出版され、しかもその内容は発売まで明かされず、とにかくそれを買って読まなければという気持に人々を駆り立てた。まさに電通なみの戦略が作者村上と出版社の共同作業でなされたわけだ。
今、最もノーベル文学賞に近い作家と言われている村上春樹。
イスラエルの文学賞を非難覚悟であえて受賞したのもノーベル文学賞への布石か。
村上作品を愛読するのは自由だが、崇めるのはどんなものか。
もしノーベル文学賞を晴れて受賞したとしたら、それは村上春樹の文学の勝利ではなく戦略の勝利だろう。

 

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誰にも苦にされない日本でいい

2009年07月15日 | Weblog
東京都議選は衆院選の前哨戦だと言われてきた。
そして結果、民主党の大勝、自民党の大敗、公明党は現状維持。共産党は議席を減らし、社民党は議席を取れず、生活者ネットのような地域・生活者密着のグループも伸びなかった。
しかしこの傾向が衆院選にそのまま持ち込まれるとしたら、国民は少し冷静に考えたほうがいい。
民主党と自民党で殆どの議席を占めると「憲法が危ない」。
第9条の改憲が可能になる国会情況になってしまう。私達国民が今望んでいることは年金を雇用をどうにかしてほしいということのはずなのに、気がついたら、そちらの方はどうにもならず、成果は9条の改定と、アメリカの核の持込を公然と容認する日本になっていた、ということにならないよう、投票行動を考えなくてはいけない。
民主党の候補もさまざまで、平和憲法を守るという立場の人から憲法改定、核の持ち込みも容認という人まで幅が広い。
政権公約や主張をよく読んでその立場をよく知ってから投票しないと後悔する。比例投票ではなんでもかんでも民主党は危険だ。
都議会でいうと、石原都政の与党は自公だったが、民主党も99パーセント石原都政に賛成してきたという。
しかし今回、都議選にあたっては新銀行東京の撤退、築地市場の移転凍結を公約にしたということなので、どこまで対決できるか見守らなくてはならない。
ところで、今日本は急速に世界からの関心を失っていると言う。
そしてテレビに出てくるような評論家達はこぞってそれを嘆いている。
「世界の関心は今や日本から中国、インドに移った」と。
私は「それが何なの、別にいいじゃん」と思う。
宮沢賢治の詩のように誰にも苦にもされず、コツコツと地味に自分達の生活を大事にすればいいだけではないだろうか。
日本は輸出大国だとよく言われているが、その輸出の中心を占める自動車や電気製品産業はこの間せっせと利益を溜め込み、それを働く人に還元せず、日本内部を疲弊させ、世界的金融危機が起きて、輸出が冷え込むと真っ先に「派遣切り」に走り、今度は政府を動かして、「エコポイント」のような自分達を助けさせる政策に平気で乗っかっていく。
そんな社会性のカケラもない企業がどうなろうといい。
経済成長を望まず、日本の国土を大事にする生活に転換するほうが、地球温暖化を防ぐための二酸化炭素削減目標を達成できる。

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活動家を増やせ

2009年07月09日 | Weblog

反貧困・連帯社会の創造」という見出しに魅かれて「情況」という雑誌を買った。
かつて60年代、社会党系の先鋭部分の運動をになった経歴の人たちが主宰・編集しているようだ。
新左翼系の学生運動をしていた青年達がその後どのような道をたどったかというと、やはり多くは社会体制の中におさまってその後の「大人の人生」を歩んだわけだけど、先鋭部分で活動していた人達は、そういった体制秩序からは外れて、今で言うフリーターのようなことをしながら、それでも人脈があるのでたどりついた先の一つが「生協運動」だった。
「生協」と一口に言ってもその成り立ちはさまざまで、この雑誌の7月号で語っている人達は東京とその周辺で活動した人たちだ。
そういえば大学のいわゆる購買部というのか、食堂なども含めて運営していたのは生協だった。この生協の理事会は必ずどこかの政治党派が主導権を握っていた。生協・学生自治会の主導権を握れば、それはその党派の資金源になる(本来の目的からすればそれは私物化ということになるのだが、他人の悪は厳しく糾弾しても自分達のそうしたルーズさは闘争のためと言い訳するご都合主義が党派を問わずまかり通っていた)ので、学生運動の一つの分野として生協活動をする学生達がいて、その経験がその後、さてこれからどうやって生きていけばいいのかという際に役に立ったようだ。
今思えば学生運動に夢中になるような青年たちは情熱的で行動力があり、また有能な人も多かった。
ただ、自分の主張を曲げない、強引な一面がどうしても裏表になっているので、多数派の理事達と意見が合わず、追放されたり、自分から身を引いたり、紆余曲折を経ながら、それでもこの号に登場した人たちの考え方は「連帯」であり「理不尽な資本の側の横暴は許さない」という正義感だ。
この雑誌には年末から年始にかけての「日比谷派遣村長」として、私達の前に鮮やかに登場した「ネットワーク・もやい」の湯浅誠氏のインタビューも掲載されている。
彼のスローガンは「社会活動家をふやせ」だ。
今これだけ貧困と無権利に痛めつけられながら、暴動も大規模なデモも起こらない、なぜだとよく言われる。それは持たざる側の戦い方のスキルが喪失し、切断されているからなのだ。文句を言いたいのにどうしたらいいのかわからない。それで結局、個人テロのような鬱憤晴らしに走ってしまう(秋葉原事件、大阪ネットカフェやパチンコ店放火のような)。
冗談で湯浅氏は「私は火炎瓶の作り方を知りません」と言った。インタビューする側の編集者は「私は知ってます」と答えていた。
「連帯」「伝承」が失われた社会、それが今私達この日本社会の現実だ。
人は学校で、例えば大学なら先輩からキャンパスに立てる看板の作り方、書き方を伝授され、今のようなパソコンやコピーの無い時代、ガリ板で切るビラの作り方を教わり、職場なら労働組合の会合で、社会の矛盾に附いて学習するといったように引き継がれたものがあったからこそ、資本や政府の横暴と対峙することが可能だった。
このように後退してしまったのは多数を占めるはずの働く側の油断であり弱さだった。
今、政権交代論議が盛んだが、今の枠組みで政権交代しても「貧困」の問題を直ちに解決することはできない。むしろもっと巧妙に大企業・財界側が自分達の利益を主張してくる可能性が高い。
その時、彼等の論理に真っ向から対峙できる市民・労働者が育っていることが必要だ。湯浅氏らに政治の舞台へという要請は強いものがあろうが、「戦える活動家を増やす」というこの考え方が「急がば廻れ」で功を奏するのではないだろうか。

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投票行動の指標は自分は何層か

2009年07月02日 | Weblog

先週、自民党の古賀選挙対策委員長が宮崎県知事の東国原知事に国政出馬を要請。
これに対して知事は「自分を総裁候補の一人に加えるなら」と応じたと報じられた。
とんでもない勘違い男と不快感を示す人もいたが、麻生首相の見識のなさ、教養のなさを連日みせつけられては、「おれだって総裁になれる、首相にもなれる」と考えたとしても不思議ではない。
なにしろ知名度があれば知事に当選できるこの時代。
でも東国原氏は首相になったらすぐに総スカンを食って惨めに退場する。理由は麻生総理と一緒。麻生氏はおじいさんの威光といざとなれば金を出すだろうと思われていることと、当選回数が足りているという理由で間違って選ばれてしまったが、今やみんなに拒否感を持たれてしまっている。つまり「麻生さんの顔を見るのも嫌、声聞くのも嫌」と言う国民が増えているとは、自民党擁護の政治評論家の弁。
東国原氏も知事としてではなく、首相になれば更に露出度が増し、そうすると「あの顔見たくない」という人を増やすだけだろう。
犬顔小泉氏に騙されて、猿顔の麻生氏にあきれて、また猿顔か、もうたくさんというところ。
「自分に人気がある」と勘違いしてるところも麻生に似てきた。
もう少し控えめにして、地味に県政を運営していれば、評価は上がったと思うけど、調子に乗りすぎてる。露出すればするほどメッキがはがれていく。
今日の自公衆議院絶対多数を生んだ「小泉政権」とは何だったのか。
それは「政治とは何か」ということに全く無知な政治家がもたらした「狂い咲き政権」だったのではないか。
政治とは政府とは世の中の富の再配分をし、弱者を救済し、社会の公正・安定を保つのが使命である。
そうでなくて強者に都合のいい政策ばかりするなら、税金で議員を養う必要などない。
しかし小泉氏は「政治の使命の何たるか」を理解していないので、弱肉強食的な大企業中心、優遇の政策を財界や官僚や御用学者の言いなりに推し進めて恥じることがない。言い訳すらしない。
すると小泉氏に輪をかけて政治に無知な一部の人々が、小泉氏の「素人っぽさ」を自分達の味方かのように勘違いしてしまった。
なだれを打った様な「自民党大勝利」には小選挙区制という魔術も加わった。
小泉政権以降の自民党は大企業・財界のための政党だ。
かつての、農村や中小企業、自営業者の利益も代弁した幅広い自民党は今は民主党がになっている。
しかしこの2大政党では足りない。非正規労働者、母子家庭、女性、在日外国人、少数民族などさらに周辺の底辺に生きる人々の声を代弁する政治集団は必要だ。
公明党という政党は不思議だ。その選挙の手足になる創価学会員は多くが自民党政治では切り捨てられる層なのに自民党にくっついて影響下の学会員を上層部が騙してる。
ネット上の市民新聞に末端の学会員の選挙活動の様子が報告されていたが、それは数人でひたすら毎日「○○候補をお願い」とやって来るというもの。政策でもない、未来への理念でもない、ただただお願いなのだ。
お願いされる側はその執拗さにゲンナリするわけだが、こうした熱心な?集票活動の結果が地方自治体を含めた公明党の議席維持の成果でありまた限界でもある。
自分は社会の中で何層に当たるのか、細かい政治のことはよくわからなくても、それだけはよく考えて投票すれば、「間違った!」と言わずに済むのでは。

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