木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

「宮中祭祀」という重荷

2009年04月30日 | Weblog
豚ウィルスから新型インフルエンザへ。
今世界中はこの新型感染症に対する対応に追われている。以前の鶏インフルエンザも新型肺炎サーズもやはりこの春先、ゴールデンウィークの時期に流行のピークを迎えたように記憶しているが、黄金週間などと言って、国内外を大量移動する習慣は日本だけかもしれないが。
我が地元長野では7年に1度の「善光寺ご開帳」でにぎわっているが、さて人々はどうするか。
私はゴールデンウィークにどうしてもどこかへ行かなければならない境遇じゃないので、それに人ごみは嫌いだし、家に閉じこもっていますが・・・。
今、CSの「朝日ニュースター」を見ている。「ニュースの深層」という番組で、京都産業大の所功教授が出演。「昭和の日」にちなんで、現在とこれからの皇室のありかたについて話をした。
特に私達国民が一般的に知るところの「公務」、さまざまな行事に出席して、「お言葉」を述べる、あるいは先般の「園遊会」のような行事を主宰して、各界の功労者と言葉を交わす、などなどとは別にいわゆる「宮中祭祀」、これが大変な労力と時間を要する天皇夫妻の仕事であることを語っていた。
明治以来、皇室の生活は西洋式に変わった。が、古来からの祭祀行事は今日まで延々と殆ど変わることなく続けられているのだ。
主役は天皇であるが、皇后もこれに付き合う。何時間もの正座を余儀なくされる行事もある。
普段の生活が洋式の上に、すでに70の半ばを迎える高齢であるからこれは負担だと、すでに高齢の域にある所氏も言う。
皇室の生活にこのようなことがあることを美智子皇后だって、最初は知らなかったのでは?もちろん言葉では知っていただろうけど、実態は現実となって「開けてびっくり玉手箱」の世界だったと思う。
まして雅子妃は・・・。
雅子妃の心の病いの核心は、外国生活をふんだんに送った人には信じられないような「宮中祭祀」という「皇室の務め」ではないだろうか。
今は天皇夫妻がこれを殆どになっていて、皇太子夫妻がこれを代行する場面は少ないようであるが、年間を通じては皇族方が参加しての「宮中祭祀」もあるであろうから、これをやがて主にになっていく立場になるかと思うと、もう絶望的気分に落ちたことであろう。
この意味での「宮中改革」がないと雅子さんの「病い」は癒えることはないだろう。
先日の記者会見で天皇は「これからの皇室のあり方は、次の世代の考えに任したい」という意味の発言をしたように思うが、それは多分、これらの次世代には理解しがたい「宮中祭祀」を念頭に置いた発言ではと思う。
皇室はかくて実に「ねじれた存在」だ。
表向きは欧州の王室風の生活だが、中に入ると古代からの「祭主」としての務めがある。
生まれながらに皇族である天皇や皇太子は、これらの務めを淡々と果たすこともできようが、外から皇室入りした妃にとっては驚きの世界だろう。
少し前、政治コント集団「ザ・ニュースペーパー」の公演を見たが、天皇夫妻結婚50年ネタとして感謝状の場面があった。
天皇からの感謝状「この50年、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、よくついてきてくれた。深く感謝する」というもので笑えた。
これが大方の国民の見方だろう。
ちなみに秋篠宮夫妻がやや能天気に見えるのは、皇族としての公務の重圧が立場上、皇太子夫妻より格段に軽いためと思われる。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予断捜査と裁判員制度

2009年04月24日 | Weblog
和歌山カレー事件と裁判員制度。
「和歌山カレー事件」の最高裁判決が出た。林真須美被告に「死刑」の判決が下された。
しかし、この事件には確たる動機が不在だと言われてきた。
林被告はこの新興団地で、地域の約束事などを無視する「目障りな存在」ではあったが、しかしそれだけで、夏祭りのカレー鍋に致死量の砒素を入れて殺人を犯すというのは動機としては飛躍のしすぎだ。
それに林被告は逮捕されてから一貫して無実を主張している。警察に逮捕されると、そんなことに初めて遭遇した人は、警察の「攻め」に抗しきれずウソの自白をしてしまい、その後一転して無罪を主張する場合が非常に多いのに、彼女はその罠に落ちていない。
彼女が犯人だと考える人たちはこれをしたたかと見るだろうが、一方やっていないからやっていないとがんばれるのだろうという見方もできる。
状況証拠だけのこの事件で、最終的に死刑が確定しても、法務省は死刑執行はできないでしょうね。
誰かが「夏祭り」のカレー鍋に砒素を混入させた、それは事実だ。何のために?多分、嫌がらせのために。殺人までは考えていなかった?誰が食べるかわからないのだから。そこの住人が食べるのだろうけど。
この中毒事件が発生した時、医療関係や保健所の対応が適切でなかったとも言われた。
砒素中毒だといち早くわかれば、犠牲になった人は死なずに済んだのではという論文を読んだ記憶がある。
「夏祭り」を疎ましく思っていた人たちがいた。新興住宅団地の帰属意識を高めるために始まったものだろうけど、地域の役員になった人にとってはわずらわしいと感じる人もいただろうし、これから役が回ってくる人の中にもそう感じる人もいただろう。
かつてはシロアリ駆除の仕事をしていたものの、その時は夫のほうは無職で、妻は保険レディではあったが、地域で一番目につくような大きな家に住んでいた林一家。後に保険金詐欺は認めたこの夫婦を「胡散臭い人たち」と、テレビのワイドショーを通じて日本中の人たちが思い、私もそう感じた。だけどカレー鍋に毒物を入れて殺人を犯すというところに行くには飛躍ある。
こんな事例の場合、裁判員に選ばれた素人は、ワイドショーやプロの司法関係者の巧みな誘導に乗って、重大判決を下してよいのか。
裁判員は一審判決にかかわるだけというが、一審判決を尊重するというのが司法の慣例だという。よほどの新証拠がない限り、最初に出た判決は覆さない。お互い同僚や先輩の間違いを指摘したりするのは避けたいし、避けるというのが、組織の中で生きる人間の習性でもある。そうしない者はその組織の主要な局面から排除されていくのだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者の政治参加のために何が必要か

2009年04月17日 | Weblog

先週、職場の「パワーハラスメント」に附いて書いたが、これはいわゆる営利企業だけでなく、数字や目に見える成果だけではかることを一番いましめなくてはならない「教育の現場」でも起きていることを「週刊金曜日」4月10日号で、ジャーナリストの平舘英明氏が報告していた。
新任の教師にとって一番必要なのは管理職や先輩教師のサポートなのに、待っているのは管理職と呼ばれる校長や教頭によるいじめである。年間指導計画とか週ごとの指導計画といった書類提出も待っていて、しかも何度も書き直しを命じられる。それがうまくできないと「無能呼ばわり」される。
担任した生徒に向き合うより管理職のおメガネにかなう努力がまず求められる実態が報告されていた。当然長時間労働となり、ヘトヘトになって、一ヶ月ほどで休養を余儀なくさせられてしまうケースも。
私もかつて小学校教育の現場にいたことがあって、今思い返してみても決して有能とは言えなかったが、それでも病気になることもなく、十年ほど勤めた。今、学校という職場は随分様変わりしているようだ。
平舘氏によると、89年に「初任者研修制度」が導入され、新採用教員の条件付き採用期間が以前の6ヶ月から1年に延び、その間に評価が悪ければ「自主退職」が強要されるという。評価を行うのは校長である。恣意的な評価に陥る危険をはらんでいる。
つまり、従順で、適当に要領が良く、いろんなことに疑問を持たず、目の前の課題をさっさと片付けていくタイプが「お気に入り」として評価されるであろうし、校長にとって「管理しにくいタイプ」は排除の対象になっていく。
また02年から導入された「指導力不足教員認定制度」が条件付採用期間制度の厳格な適用に拍車をかけているとも。
新採用教員の中から「指導力不足教員」を摘発することが教育委員会や管理職のノルマにさえなっている現実もあるという。
今、学校はいじめや学力格差、経済危機による家庭崩壊に直面する子供達の存在など、解決していかなくてはならない問題が山積し、それに対して知恵を発揮して行かなくてはならない時なのに、教師は疲れきって、あるいは自分の領域だけを守って、校長や教頭は教育委員会の顔色ばかりうかがうというのでは「お先真っ暗」。子供達がかわいそう。更に少子化が進むだろう。
この公立学校教育の現実と連動していることに「若者の政治離れ」という現象があると思う。
学校では政治の制度に附いては触れるが、政治の可能性やダイナミズムを語ることはない。宗教についても同様。だからカルト宗教にすぐ取り込まれてしまう。

政治に関心を持たない、政治に無知な若者は選挙に行かない。その結果、中高年が自分達に都合のいい政治ばかりして、若者にそのツケを回している現実。
ただ、自分の若い頃を振り返ってみると、私自身は政治に関心があったので、棄権するということはまずなかったのだが、政治に関心のない、いわゆるノンポリの人たちは、投票に行かなかったんじゃないかなと思うし、いわゆる過激な学生運動をするような人たちは「議会制民主主義ナンセンス!」と叫んでこれまた選挙などボイコットしていたと思う。
しかし今はそんなことしてると、とんでもない世の中にされてしまうので、若い人に投票行動を起こしてもらわないといけないのだが。
その場合、現在の選挙制度は、お金や権力を持たない普通の国民にとってまことに都合の悪い制度になっている。
国会議員選挙の小選挙区制度は既得権者に都合がいいし、公職選挙法もまた金持ちと既得権を持った者をひたすら守るものになっている。
「攻める」ことをしばるための法律だ。
地方自治体の首長や議員を選ぶ選挙もまた、どこかの知事が詐称した政治的に「完全無所属」な者にとっては、誰がどんな主張をしているのかよくわからないまま、それこそアッという間に投票日が来てしまう。
明治時代の帝国議会以来の既得権者の政治が、法律によってずっと守られ続けている。
それに風穴を開けるかもしれないのが「インターネットを使った選挙運動」だ。これを解禁させられれば、「将来ある若者ための政治」の実現が可能になるのでは。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

働く意義と良い職場

2009年04月09日 | Weblog
成果主義とか実力主義という考え方が職場に導入されるようになったのは10年ぐらい、あるいはもっと前からだろうか。
それが職場の空気をぎくしゃくさせ、「パワーハラスメント」という上司や同僚による暴言やいじめを横行させる原因になっている。
目に見える数字だけを追求、評価の対象としたために、その成果が表れない場合、焦って部下を締め上げるしか能のない上司がこうした態度に出る。同僚も自分のところに攻撃が向けられないよう、上司に責められている仲間を攻撃するということになる。
学校で起こるいじめの構図がそのまま職場に起こっているのだ。
こんな職場に入っていった若い人が、あるいは若くなくても新入社員が「すぐ辞める」のも無理からぬところもある気がする。
年を取ると、若い時の苦労話をあることないこと脚色して話す傾向がある。
よく職人仕事の場合、「親方は直接は何も教えてくれなかった。親方や先輩のやることを見て覚えた。教えてもらうと思うな、技は盗め」などとよく言われてきたが、これは王道ではない。
職人は営業社員と違って、口下手な人が多い。だから新人に仕事の手順やコツを要領よく教えることができない場合が多い。
面倒くさいので「やり方を盗め」などと誤魔化しているだけのこともある。
どんな職業でも丁寧に教えられたからといってすぐ身に付くわけではないが、ただ経験を積んでいくにつれて、「あの時教えてもらったことはこういうことだったんだ」と、早く気づくことができて、結果として上達が早いということになり、その会社なり職場の役に立つ。
だからすぐ辞めていこうという人により長い人生経験者が諭すという場面はあってもいいのだが、その過程がなくて成果、実力を問われれば、息苦しくなって「辞めて行く」という結果になる。
と、こんな風に考えていたら、NHK「クローズアップ現代」で雇用のミスマッチに附いて取り上げていた。
自動車工場や電機製品製造工場で生産ラインについて、単純工場労働に従事していたいわゆる「派遣労働」の人たち。その人たちが今回世界的金融発不況のために仕事を失って、かといって労働力の足りない介護や農業の仕事にスムーズにシフトしていけない現実がある。
農業の現場に雇われた元派遣労働者が、雪のちらつく戸外で一日中苗を植える作業で一日で音を上げたとか、泥に足を取られる現場に耐えられなかったとか、だから「派遣労働者には根性がない奴が多いんだ」と視聴者に思わせる内容だったが、しかしここでも職人と弟子の関係ではないが、「働く意義」を雇う側がよく説明する義務があると思う。
工場労働でも派遣労働者は物扱いされていたのだが、それでも室内だから風は当たらないし、雨雪も降ってはこない。製品の品質が大事だから適温で空調設備も整っているはずだし、時間通り働けば、少なくとも農業よりは安定した収入が得られる。
行き場のない、職場を失った人だからといって、やはり農業や介護の現場でも都合のいい労働力としてしか扱われなければ逃げ出すということにもなる。
「より良い職場」?そんな考えが甘いと一蹴するのではなく、「ベーシックインカム」と共に私達がこれから考えていくべきことだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベーシック・インカムと派遣・下請け・外部委託

2009年04月05日 | Weblog

北朝鮮の人工衛星なのか、ミサイルなのか、に附いてどう考えるのかということを自分なりに持っていなければならないのだが、私にはどう考えていいのかわからない。
北朝鮮の核問題やミサイルについて、なぜか全然関心が持てない。

ベーシック・インカムという考え方。
労働と関係なく全ての人に無条件で保障する所得。
「派遣切り」だ「派遣村」だと社会問題になっている今の時代だが、まともに職に就けない人たちが増加する一方、そういう人たちに対して、「努力が足りない」、「すぐ辞める」という批判が必ず浴びせられる。
経営者とか勝ち組と言われるような「成功者」からだけでなく、普通に働いている人や、過去の比較的いい時代に働き盛りだったリタイアー世代からもこうした批判が聞かれる。
それは部分的にはそういう事態もあるかもしれないが、私はこうした批判には組することはできない。
人間が労働力として、資本の奴隷になる生き方から逃れたいという気持が「根性のない若者」の根底にあると思う。
今やその気分は若者だけのものではないが。
いつも明るく前向きに、周囲の人間とのコミニュケーション能力にも優れ、その場の空気を読んで融通を利かせる、そんなことを当たり前のように求められてもどれほどの人がそれに答えられるだろうか。
求める側は、自分がそうでなかったことは忘れている。
そんな「労働市場から撤退する自由」それを保障するのがベーシック・インカムだ。
その財源はというと、所得税、消費税、環境税などが考えれるという。
個人に保障するので、いわゆる所得控除の中の人的部分(配偶者控除、扶養控除等)は必要がなくなり、この部分は財源に回る。
こんなことをしたらみんな怠け者になって働く人がいなくなるという風に考えるかもしれないが、しかし人は生活が保障されていれば、自分らしい、市場に縛られない仕事や働き方を生み出す可能性の生き物ではないだろうか。
日本の政党でも田中康夫が代表を務める「新党日本」がこの考え方を主張し、共産党、社民党も「ベーシック・インカム」的なものを政策の中に取り入れている。

「ベーシック・インカム」と少し関係があるかもしれないが、今日本の職場を覆っている「派遣」、「下請け」、「外部委託」という仕事の仕方、させ方、これではきっと経済活動は先細りしていくだろうなと感じた場面があった。
私は城下町松代でボランティアガイドをしているが、案内を頼まれて松代城跡に行くと、ちょうど映画かドラマか時代劇の撮影中だった。
スタッフのカードを下げた女性に「何の撮影か」聞いたが、「お手伝いだからわからない」という返事。
自分が関わっている撮影のタイトルも知らない。おそらく下請けのアルバイトか何かの人だったのだろう。
別の男性のスタッフは題名は教えてくれたが『花のあと』という映画だそうだけど、どんな内容かは知らないようだった。
今の映画やドラマ作りの世界はこんなふうに下請け・分業でやっているのだろう。効率・コスト削減の名の下に。
撮影に関わるスタッフ全員がこの作品の中身を知っていれば、そこにいる人に「こういう映画だから、公開されたら見に行ってね」と宣伝することもできるのに。スタッフがこんなバラバラな映画では観客動員が思いやられる。
宣伝は宣伝と思ってるかもしれないがそういうものではない。
他の仕事もこんな感じになっているのでは。一体感を持って仕事するということが減っている。そして成果だけが求められる。疲れていくのも当然だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする