邪悪な企みはいつか必ず災いとなって降りかかってくる。
それが邪悪な者達とその追随者の上にだけ降りかかるのならば、「自業自得」、「因果応報」とあざ笑えるが、災いはむしろ、そのような企みがある事すら知らなかった者、企みにねじ伏せられた者によけい降りかかってくるから不条理だ。
それが「福島第一原発事故」である。
日本はアジア・太平洋戦争で、正面からアメリカと戦って、原爆2発を落とされ、とどめをさされて降参した。
そして原爆の被害を世界から隠すために「原子力の平和利用」という形で原子力発電所建設をアメリカから押し付けられた。
「アメリカの犬」としてこの使いを務めたのは、敗戦まで日本の支配層の側にいて、アジアと日本の民衆を未曾有の不幸に陥れた者達だ。
日本の戦国時代を思い起こしてみると、戦いに敗れて自決する城主がいる一方、命だけは助けられ、敵側の意のままに働くようになる武将もいた。
1945年の敗戦後、それまで支配権力の側にいた人達はこうして生き残った。
アメリカには逆らえない、逆らわないのが戦後一貫した与党政府の立場だった。
アメリカの属国になった、属国だった日本。
日米安保条約も、沖縄をはじめとした日本各地の米軍基地も、農産物の開放も、郵政民営化も、菅民主党政権が進めようとしていたTPPもみんなアメリカのためだった。
アメリカは圧倒的な軍事力と謀略で、南米諸国、北アフリカ・アラブ諸国、ベトナム、アフガニスタンを苦しめてきた。
南米諸国はようやくアメリカのくびきから脱出し、ベトナムはおおびただしい血であがない邪悪なアメリカを追放した。だが彼らがアジア人の上に撒き散らした枯葉剤はベトナムの次世代にこの上ない後遺症をもたらしている。
北アフリカ・アラブの民衆は今、アメリカに支えられた独裁者達と戦っている。
そして日本はというと「原発事故」を終息できずボウ然としている。
これを終息するためにどれだけの時間と費用と、そして被災地の人々の人生を奪うことになるのか。
アメリカはもう日本から奪えない。それでも奪おうというのか。
20世紀末には東西冷戦の一方の大国ソ連が崩壊した。今度はアメリカが退場する番だ。
原発事故に対するテレビと新聞の姿勢。
民放が「原発推進」の専門家ばかり番組に呼ぶのは、東電及びその他の電力会社からの多額の広告費を得ているから、というのはわかった。
ならばその経営を視聴者の受信料によって成立させているNHKが「民放」に右ならえで、同じような御用学者にしか意見を聞かない態度は実に腹立たしい。
受信料を払っているみなさまに正確で、公正な情報を伝えることにつとめるべきではないか。
テレビが視聴者への影響力の大きさを考えて、「反原発」や「脱原発」の主張をあえて避けているのに対して、今や全家庭が購読しているとは限らない新聞のほうはやや微妙な立場をとっている。
私が購読しているのは地元の信濃毎日新聞だが、一週間ほど前には、長野県出身の報道写真家、樋口健二氏に取材し、「被爆労働の一端明るみに」というタイトルで、原発の稼働には危険な放射線を浴びることを覚悟しなければならない手作業があり、その末端の現場労働をになうのは、東電の正社員ではなく、下請け・孫請けの社員だったり、もしくはその社員ですらない派遣や契約といった形の労働者であることを伝えている。
樋口氏はすでにもう40年近くそうした原発被爆者150人ほどを取材。白血病で苦しみながら死んでいった若者や、原因不明の倦怠感で仕事を続けられなくなった労働者を見てきたという。
これまでこうした実態が必ずしも表に出てこなかったのは、親類・兄弟が原発関連の仕事についていて、声を上げにくかったことや、被爆で働き手を失った家族が困窮し、電力会社からお金を受け取り沈黙を強いられてきたという背景があるという。
今困難を強いられている福島第一原発の地元の町の人達にも「原発だより」の生活を送ってきた人は多いのだろう。
この記事には取材記者の署名がある。
かと思うと、つい昨日の新聞には、中曾根元総理に、「東日本大震災」の復興に関して、政府のなすべきことは、みたいなご意見を伺う記事が。
これは共同通信の配信なのだろうが、中曾根氏こそ、被爆国日本に「原子力平和利用」という思想を持ち込み、「原子力発電所」の建設に道筋を付けた正力松太郎氏の配下として働いた人物。
正力氏は既に故人なので、今回の原発事故という「国家犯罪」に最も重い責任を負わねばならない人物であるはずなのに。
自らの政治的働きが始まりとなって招いた今日の惨状を見るために「生かされていた」のだと思うのだが、そんな反省は何もないらしく、高みからご意見を述べている。
こうして新聞はバランスを取っているらしい。
テレビでは「日本がんばろう」、「日本一つになろう」とタレントに叫ばせている。
アジア・太平洋戦争敗戦後に「一億総懺悔」といって、開戦と敗戦の責任をあいまいにした状況と似てきた。
東電と国の犯罪を裁かずして、日本は一つにはなれない。
福島原発事故の終息は見えない。
というのに、国会では3月31日参議院で、日本とヨルダンの原子力平和利用協定に対して、賛成230、反対11で可決したという。
これほどの事故を起こし、この間の政府の原子力行政や東電のでたらめぶりが日に日に明るみに出ているというのに、国会議員の危機意識のなさ。つくづく政治家の劣化を感じる。
反対票を投じたのは社民党・共産党所属の議員と沖縄選出の無所属議員糸数慶子氏だけである。
2大政党政治に無理矢理導くための民意を反映しない小選挙区制度のもと、勝ち抜くのは財界及び、大企業や公務員の労働組合の連合体に後押しされた、大多数の国民の幸せを考える志を持ち合わせない「権力とお金」だけが好きな「亡国の徒」ばかりだ。
小選挙区制度により政権交代可能な2大政党に収斂させて、政治の停滞を打破するべきだと、旗をふったという点で、私がまず思い浮かぶのは北大教授の山口二郎氏だ。
その山口氏は、政権交代なった、民主党の国民への裏切りぶりに対して、その理論的支柱になった自身の浅はかさと誤りを素直に認め、謝罪すべきなのに、決してそうしようとはしない。
弁解すらせず、八つ当たりしている。
自分の誤りなど認めたら、北大でもそれ以外でも学者として信用されなくなると、牙城を死守する構えだ。
哀れで醜い。
これは原子力の専門家と言われてきた学者群も同様だ。
こんなひどい政治状況に地震と津波と原発事故が一度に襲いかかった。
政治家の顔が全く見えない。
そんな時に人々が減税日本の河村氏や大阪維新の会の橋下氏のような人に希望を託してしまう現象はよくあるパターンだ。
全く機能を果たさない議員達をみれば、「議員定数削減だ」という叫びに共感してしまう。
しかし選挙制度をこのままにして、定数のみ削減すれば、社共や無党派の市民派政治家は、ほぼ淘汰されてしまう。
多様な考え方の議員達が国会で論戦し、あるべき地点を見つけていくのが民主主義の原点だ。
共産党の議員が増えたからといって、直ちに共産党政権ができるわけではない。
共産党の提案は、今現在の日本国民の大多数にとってむしろ有用であり、必要なことでもあると私は思う。
共産党そのものが理想的かどうかではなく、その社会的・政治的提案の中身が自分にとってどうなのか考えてもいいのでは。
福島原発の放射能汚染が依然予断を許さない事態なのに、それでもまだ「原発稼働を」と言う人々がいる。
福島の事故を教訓により安全なシステムをと言うが、原発稼働には、直接放射能が付着した原子炉の配管などを布でふき取ったりする仕事に従事する「沈黙の現場労働者」達が必要なのだ。
その人達は5年、10年と経つ間に白血病やガンを病んで死んでいく。
そして大事故が起きれば、ゴーストエリアを作り、大気や海に流れ出た汚染物質は地球を覆っていく。
原発は日本に54基、アメリカには100基以上、フランスは電力の8割が原子力でまかなわれているというし、お隣韓国にも原発は21基ある。
それに核保有国の核兵器。地球は実に恐ろしいものを抱え込んでしまった。
人類の滅亡はそれほど遠い先のことではないようだ。
つい先程CS朝日ニュースターの金子勝司会の「ニュースにだまされるな」を見終わった。
絶望と希望が交差する番組だった。
原子力資料情報室の伴秀幸氏の解説による「今の福島原発」の状況は、水で原子炉を冷やし続けるも炉心溶融が進行しているのではと疑われる状況。
最悪のシナリオは、核分裂を止めている制御棒も溶融し、下に落ちるという事態。こうなると手の施しようがなくなり、放射性物質は海に大気に拡散し、さらに汚染地域が広がり、水、食物も汚染が進む。
アメリカのスリーマイル島の原発事故の時の記憶はあまり鮮明ではないのだけど、86年の「チェルノブイリ原子炉爆発事故」は衝撃だった。
その時思ったのは、それでもソ連は広いということだった。逃げていく場所はある。
ところが日本にはそれがないのだ。
以前原子力関係の仕事をしていて、現在はエネルギーの観点から環境問題を考えるNPOの代表者である飯田哲也氏は、今原発を止めても充分対応できるとそのシュミレーションを示してくれた。
原発が日本の電力供給の3割を占めているというのは事実ではない。
日本の原発は運転以来40年を迎えようとしている発電所が殆どで、これはいずれ廃炉となる。
だが今新規に運転を始めた原発はない。
石炭、石油、そして天然ガス利用の火力発電に水力発電、太陽光、風力、バイオなど自然エネルギーの割合を増やし、これに節電と、大口需要者への供給分を減らしてもらって、ピーク時需要に限り電気代を上げ、それを電力会社ではなく、政府にその分が入るようにして、それを原発被災費用に回す、こういうことをすれば「夏の需要」は乗り切れるはずだという。
そして高速増殖炉「もんじゅ」を廃止し、六ヶ所村の核燃料サイクルもやめて、そこにつぎ込んでいる国費を災害復興に回せば、「復興増税」などという狂気としか思えない愚策を強行する必要もないという。
飯田氏に権限を与えて、日本のエネルギー政策のリーダーになってもらいたい。
「原発推進」の電力会社、政治家、官庁(通産省等)、原子炉メーカーやゼネコン、お金と権力と名誉が欲しい学者、これらの連中が巣食う通称「原子力村」を飯田氏は京都太秦の「映画村」にたとえた。
「表は立派だが、裏へまわると何もない、ベニヤ板で支えられたセット」というわけだ。
原子力という暴走しだしたら日本だけでなく、地球も破滅させるものに関わる人と組織の腐敗と倫理崩壊は、彼らが言う「テロリストに原発を襲撃される危険」となんら変わらない。
「原発は安全だ、クリーンだ、エネルギー効率がいい」などと推進、宣伝に加担した連中は今沈黙してやり過ごそうといしている。
どうしてこんなことになったか、「原発裁判」が必要だ。