正保2年(1645)細川家によって創建された。 御祭神:誉田別命 例祭日:春季大祭・4月上旬。ここの祭礼は喧嘩祭と呼ばれる春期大祭が有名。
永青文庫にある古文書から剣八幡社の祭礼の記事を翻刻文にして掲載します。
享保四年八月廿四日
一 鶴崎剣八幡宮祭礼毎歳九月十五日にて候 宮下の氏子共火伏風留之宿願結置候 願解の為大西村に居り候傀儡師雇い去年も芝居興行仕候 当年も去年の通り傀儡師を以て晴天十日 見世物御免下され候様と鶴崎町年寄り共書付 御郡奉行衆より差出し申され候に付御郡方衆御談じ 添書仕らず候に付 右書付相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事
例によって少し解説を試みると、秋の例祭は9月15日に火伏風留を祈願する祭りとして執行れていたようです。その願解の日に大西村から傀儡師を雇い人形浄瑠璃を上演しただけでなく、この文書にはありませんが、大阪から役者を呼んで歌舞伎なども上演していたようです。
さて、ここでは祭り興行に至る主催者側(藩側)の事務手続きの流れについて説明します。発議は「鶴崎町年寄共」の願書です。年寄共というのは別当、庄屋などの職にある役人のこと。この願書を御郡奉行が更に上級の御郡方へ上申、御郡方役人は添書を付けてこれを家老へ伺うという手続きを経て決裁されます。
御郡方役人及び家老は熊本にいますが御郡奉行以下は現地鶴崎にいます。これは現代の役所の機構でいえば本庁と出先の関係になるようです。御郡奉行の職場は現地にありますが彼等はそこに居住しているわけではなく、住居は熊本城下にあり、2人の郡奉行が交替で現地へ出張して業務を処理していたのです。今日から見れば随分ゆっくりとした体制ですが、それでちゃんとやれたのですね。御郡方は4家老の決裁を伺うのですが、家老は夫々の屋敷におり、そこまで決裁を貰いに通っていたわけです。