享保四年九月廿五日
一、下益城中山手永長岡図書殿知行所下郷村水少なき所柄にて古田並びに加成田共に水不足仕り候に付 例年御給人方より所の氏神小熊野郷上郷村妙見社え水不足不仕様に立願を結び 願解きの儀は御鬮(くじ)次第に仕り候様にとの儀に付当年は踊りの御鬮下り候間御国内の春駒を雇い願解きの踊り仕度由御惣庄屋中山孫左衛門書付相達され候に付例書相添え御家老中相達され願いの如く仰せ付けられ候事
今では豊野神社と呼ばれていますが、藩政期は「妙見社」と称していたことがこの文書で分かります。また、長岡図書というのは細川家御一門の刑部家のことで小熊野郷は同家の知行所であったことも分かります。この辺りは水不足勝ちであったとあり、なるほど小熊野川一筋ではさもあろうかと思われます。同川は浜戸川の支流で川というより沢というべき細流です。さて、秋祭りの催事を何にするか、それを鬮で決めるところが他に見られぬ面白いところ。この年は踊りに決し「春駒」廻しを雇うことになりましたが、他にどんな選択肢があつたのか「芝居」、「神楽」、「相撲」等思いつきますが本当のところは分かりません。また「春駒回し」というのは正月の門付け芸とも思われ、専門の芸人が合志郡竹迫村に居たことはわかっていますが、芸能の中身は伝わっていません。
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