古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

大槻 上書2    黒船来航

2017-04-15 21:03:47 | 大槻磐渓

12頁 原画

一 寛政四五年之比魯西亞人ラッリスマン蝦夷地

ニ来内願申立候節此所ハ外国取扱之地ニあらず

願申旨あらば長崎江至へしとて長崎江至ため之

信牌を賜しかハ彼等既願筋叶たる事と存

込其後数年を経而文化元年九月使節

レサノフ国書を奉じ長崎江入津通信通商

を請ふ此時我国之厳禁を以及御断貢

献物も一切御受取無之ニ付使節ハ同二年

三月中無夷義帰帆致候然る所辱君命候を

 

残念ニ存且ハ欧羅巴諸国江面目も無之迚

未到国都途中ニ而自尽致候由其後

又数年を経て文化八年之比同国甲比丹

ゴロウイン蝦夷海測量之為渡来之所彼国

賊オホシトフ乱暴後之事ニ而彼等を怨居候

折柄彼地詰之役人計策を以ゴロウイン等七

八人を召捕松前迄引連参り四年之間牢舎

為致置候所彼此之縁故ニ而漸事実明白ニ成

本国江御差返ニ相成候此両度之御仕向方如何

 

13頁 原画

にも無御餘義訳ニハ候へとも彼国ニ而ハ定而不平

ニ存居可申夫を甘心致何事も手出し不

仕ハ大量とも可申歟然る所萬一米利幹江

交易御許之事も候而ハ彼国より表向使節を

立如何様之難題申来候も不可測其節ハ

如何御返答可有之哉ト誠以痛心仕候

ケ様認置候内果して長崎江渡来之内

彼国之敏速誠ニ可驚事ニ御座候ただし魯西

亞御取扱之義ハ兼而愚考仕置候義も有之

 

右国書御請取ニ相成候上ハ必一策を奉献度

私願ニ御座候

一 強盛ニ相成候英吉利ハ慶長五年

泉州堺江来交易願申上願之如く免許被仰付

御朱印被下置年々肥前平戸ニ而交易致候所

利潤少シとて元和中彼より辞して不来其後

三拾餘年を経て漢文十三年再び渡来

交易願候へとも御許容無之永く渡海御停止ニ

相成候然る所慶長之御朱印今以彼国ニ所持

 

14頁 原画

致居候より兎角交易願之志無已時動す

れハ彼役人共評議ニ申出候由三四年前

阿蘭陀風説書ニも相見へ候是も他之国江交

易之道開候を承り候ハヾ必黙して止申間敷候

一 阿蘭陀ハ慶長十四年交易願叶候より弐百

餘年連綿と通商致第一風説書御用

相勤其外海外夷変之義何ニよらず御注進

申上既十年前ウイルレム第二世阿蘭陀王より

熊々使節船を立御忠告申上候處其節御

 

返翰ハ不被遣閣老より之書翰ニ此度ハ国

書御請取ニ相成候へ共此末ハ堅く御断之趣

被仰遣候由承り候義も御座候然る所此度米

利幹書翰浦賀ニ而御請取ニ相成候義承り候ハゞ

必快くハ存申間敷右三国之引合彼此考

合候へハ米利幹江交易御許之義ハ実ニ容易

ならざる御義と深く恐怖仕候斗ニ御座候

一 此度之成行先之先までも考詰候へば通商

御断も一応二応てハ済申間敷愈双方より募

 

15頁 原画

互に承知不相成果ハ戦争ニも至可申尤其節

ハ此方義気も十分ニ満候而必一戦を遂可

申候へとも彼ニハ神機利鋭之飛道具有之兵卒も

能調練致居候由夫江敵対致候而十分勝利

を得へし共不被存因より近世清国郡県之

大敗之如にハ至申間敷候へとも何を申も二百年来

太平遊惰之士俄に軍事に臨候義最初者

鋭気ニ有之候とも三戦四戦之後ハ人ニ精力も

尽候而遂ニハ和議之一條ニ至候も難斗其節

 

彼よりとし歳幣を被要候事も候ハゞ国勢人心も

如何変化仕候者ニ候哉殆ント愚意之所及ニあらず候

一 抑時に機会と申が御座候此機会ニ乗じ黙然と

事を為時ハ如何なる大事も成就と申事ハ無

御座候愚生竊ニ当今之時勢を察するに我

神武之国遠夷之米利幹ニ被取付候社好越会

なれ此機会を不失萬代不易国家永久之道

を開かずんばあるべからず其永久之道希ハ三

百年来之旧製を一変して新に実地実

 

16頁 原画

用之兵備を整候候事ニ而其目三ツ御座候城郭

之製と船艦之作と銃砲之造と此三ツ之者ニ御座候

伏而願くハ政府諸明公此所ニ於而千古之活眼

を開き其法則を所対然と彼製ニ

改革し給わん事を

我国軍艦之製ハ姑く置城郭之作銃砲

之造ハ皆其昔正しく南蛮に倣ひ而作りたる

所なり然るに年久敷見慣れたる故往古より之

邦製と心得候而兎角外国ニ倣ひ候を恥辱之

 

様ニ存し違候者も間々有之哉ニ候へとも畢竟城塁

等ニ限らず惣而外国之長取て我国之不足

を補ふ事ハ従来之御国体ニ而聊可恠事ニハ

無御座候因而先蘭書之図説ニ依り来船之

蘭人ニ問ひ又蒭蕘ニ詢と申事も候へば彼漂流

人万次郎等実物親見之者ニも御問合追々ハ彼

より築城学者船匠砲工等迄御呼寄ニ相成益

其精術を尽し遂ニハ旧来之面目を一新

して城ハ八稜形船ハ三本檣銃砲ハ軽便自在之

 

17頁 原画

活動軍と相成候ハゞ十数年を不待して

兵備堅固之強盛国ニ成候事質之鬼神不

可疑候若果して愚生之言を信せずんば

西史中都児格魯西亞之條を見て其明拠

的證ある事を知り給ふへし

一 尚又当今之急務を申上候へば内和人心之一事ニ

御座候此度之義ハ乍恐

朝廷を奉初弐百六十諸候より士庶民ニ至迄

和平親睦惣而如一家ニ無之而ハ大艦巨砲

 

之外寇ハ被防不申候依之先達被仰出候西丸

御普請御手伝之義大小諸候一同御免ニ被仰

付候様仕度奉存候尤此夷国船渡来ニ付新

規御固メ被仰附け向ハ既ニ御免ニ相成候由夫江ハ少シ

階級を御付被成早速御免之御沙汰被仰出候ハゞ

天下一統御仁慈之

御大恩を奉戴愈武備を励み兵具等之

用意も夫々行届

御国家之■屛益堅固厳密ニ相成候御義と奉存候

 

18頁 原画

何分為

神国御鎮護之非常之御仁政被相行候義此

接別而専要之御事と乍憚奉存候 以上 

嘉永六年癸丑八月十一日

         仙台微臣 大槻平次 白

 

明治二十七年一月十一日東京濱町ナル山内香渓ヲ訪フ

主人此冊ヲ出シテ日頃者先人ノ古簏中ヨリ得タリ

蓋シ故磐渓先生ガ先人ニ示サレシモマカ是レ君ガ

家ニ存スベキモノ永ク蔵セラレヨト云乃チ驚喜受ケ

テ装綴ス

            不肖文彦記

 

※ 大槻 磐渓(おおつき ばんけい)、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年6月13日)、名は清崇、江戸時代後期から幕末かけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。

仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。

父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭、大槻平泉がいる。

 

 


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