享保四年十月廿二日
小国表銭遣之儀 日田郡之並を請 弐拾六文遣に通用せしめ候処に頃日は彼方も弐拾四文遣に成り候につきその通り 通用仕り度由 宮原町別当書付御郡奉行衆より相達され候につき その通り 取沙汰屹度候ようにと申し遣し候事
享保四年十一月十二日
一 久住銭遣之儀御近領之並を請只今迄壱匁ニ弐拾六文之通用にて候処 近き比御近領も弐拾四文遣ニ相成り候につき其通り通用仕度由 久住尉助書付 御郡奉行衆より相達されにつき久住表の儀は御近領の並を受け申す事に候間 例之通り沙汰仕られ候よう申し出られ候事
上記2文書は藩札の事を言っているので藩札が分からないと、なんの事やら分からなくなります。熊本藩の藩札は原則領内でしか通用しないはずですが、実際には近領の日田、竹田あたりでも通用していたことがこの古文書から分かります。
藩札にも銭との交換レートがあり、上記宮原町別当及び久住尉助(御惣庄屋)の伺いはこれまで1匁26文だったものが今回24文に値下がりしたのでそのように運用したいが、それで良いかというもの、家老の決裁はそれを追認するものです。熊本藩の藩札の名目レートは1匁70文ですから24文とは随分と下落したものですが、これは藩当局の増刷に次ぐ増刷の結果です。また藩札は独特の単位を持っていて「銭〇匁」と表記していました。「匁」というのは銀の単位で銭の単位ではないのに、銭〇匁という呼び方で銀と銭を結びつけたのです。
これは「銭匁勘定」と言って金銀銅3貨制の外にあって、これを遣って決済することを「銭遣い」と称しました。
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