住みこみ*著書:『住みこみ』(2007年/ラトルズ刊) 戸田家の一年を写真とエッセイで綴った本のタイトルです。

人の暮らしは時間と共に変化します。それを調整しつつ自在に手を入れられる、ゆるやかな設計を心がけています。

皐月と父の枝っぷり

2009-05-25 11:04:37 | 
(一本の木でも交配の加減で色の出方が変わる皐月/露地エリア)

飲みっぷり、食いっぷり、男っぷり、担ぎっぷり・・・ 潔い様、堂々としたたたずまいを表す言葉として広く使われる言葉であると思うが、木々にもその枝のあり様を表す言葉として「枝っぷり」がある。

自然の木々であれば、南面北面か、傾斜地か平坦か、乾燥地か湿地か、日照条件などその土地自体の環境、周辺環境によって、その枝の伸びる方向、伸びる速度、枝の出る位置・・・がそれぞれ違い、それによって枝っぷりがおのずと変わる。庭木や盆栽であればその手を入れた人の好みや見立て方、センスで変わるものだ。

私自身、庭いじりをはじめて、早い段階でひとつの難問?につき当たったのがこの「枝っぷり」に関係する剪定(せんてい)作業だった。自分は庭いじりは本職ではないし、それまで剪定バサミなんてまともに持った事さえがなかった。本来であれば、植木屋さんに全てお任せすればよい事であるが、我家のように建物が5つの庭によって成り立っている家では、庭はこの家のデザインの一部、と言うよりはこの家のあり様に深く関係し、とても人任せに出来ないと感じているからだ。

最初の頃は、剪定はただ枝を切ってしまえば良いと思っていたが、最近は 枝を整理する、枝を探す、5年後の姿を思い浮かべながら、残すもの切るものを決める事なんじゃあないかと。もっとも思ったように枝が出てくれなかったり伸びてくれなかったりする事しばし。生き物相手なので仕方ありませんが・・・

父は生前、盆栽を趣味のひとつとしていた。その鉢の数100を超えた。今ではほとんど愛好家に引き取ってもらったりしたが、5.6鉢私が引き取って地植えした。もっと多くの鉢を自分の庭に持ち帰り植えてみようかと思ったが、どうもしっくりこない。盆栽を眺めながら「どうしてこの角度?」「この枝はいらないでしょう?」など゛気になる事の方が先行して徐々にストレスになってくる。父が好きとか嫌いとかの話じゃああませんのでお間違いなく。。
盆栽は枝や幹を銅線で矯正するなど手を入れる事が容易な分、その人の手をかけた痕跡や、リズム感が出やすいものだと思う。
だからこそ、センスや好みの違いがはっきり出るものだと思う。
そこには紛れもなく、思いのつまった、”父の枝っぷり”があった。

皐月(サツキ):ツツジ科の植物で、山奥の岩肌などに自生する。盆栽などで親しまれている。サツキツツジ(皐月躑躅)などとも呼ばれており、他のツツジに比べ一ヶ月程度遅い、旧暦の五月(皐月)の頃に一斉に咲き揃うところからその名が付いたと言われる。

(沼エリア)


ラムスさん

2009-05-23 10:31:39 | 住宅

押したくなるボタン、ひねりたくなるスイッチ

5月22日、以前お宅を設計させていただいたご縁で、お付き合いさせてもらっている吉谷夫妻のお誘いで、府中市美術館で開催されるディーター・ラムスさんの展覧会「純粋なる形象」のオープニングレセプションに行った。

ディーター・ラムスさんは、40年にわたり、ドイツのブラウン社でデザイン・監修をしてきた人で、その手がけた製品は500を超える。デザインの仕事をしている人の中には、少なからず影響を受けてる人は多いのではないでしょうか?

私自身も、プロダクトデザインに特に興味があるという訳でもなかったのですが、文房具店で何気なくアラーム時計や電卓に出合ったとき、「デザインはこうあるべき!」と思い込んでいたことに、今更ながらに思い出した。誰々の作った何々 ではなく、ある意味普通に買って、普通に使っていたものを、「これだ!」と思えてしまえる事ってありそうでないような気がする。。しかも、今でもそう思える。

写真は壁掛けオーディオです。このスイッチの類。シンプルで、美しく、わかりやすいものである。その上かわいくもあり、手や指にフィットする。言葉は適切かどうかは解らないが、一種機能性を超えた「色気」のようなものを感じる。。。
しかも今でこそ珍しくなくなったこのオーディオは1964年発表の製品だ。今から45年前の製品なのにちっとも古さを感じない。

・革新的であると同時に、自然である。
・機能的であると同時に、感情に訴える。
・識別的であると同時に、個性と、世界的に受け入れられることを調和させる。
・恒久的な品質を誇ると同時に、高水準の視覚的アピールを備える。
・明確であると同時に、最適条件の多機能を提供する。
・誠実に、誤った期待を抱かせることなく、みずからの基本価値を肯定する。
・審美的であると同時に、高度な合理性をも表現する。

これら対立するニーズを調和させ、デザイン要素の説得力ある統合を達成できるようにするための価値の統合は不可欠と考えます。

ブラウン社

家電製品の環境に対する取り組みがいろいろ取り沙汰される昨今、緑豊かな府中の森で、家電製品についていろいろ考えさせられた日でした。

「純粋なる形象」2009年5月23日(土)~7月20日(月・祝)/府中市美術館

立浪草

2009-05-19 16:25:44 | 小川エリア
(4/27 小川エリア)
この立浪草は小川エリアの、池のほとりに群生しています。池を造ってから間もなく植えた植物です。この花は皆同じ方向に咲き、波頭が立ち上がったように見えるから、立つ浪(なみ)草だそうです。7mm程の小さな花でよーく見ないと解りませんが、可憐な花です。

名前の付け方も解りやすいのですが、それを水辺のイメージで池のほとりに植えるのも、また解りやすい性格だと我ながら思ってしまいます。
でも、花の形を波にたとえるなんて、昔の人はロマンティックだったんですね。

ただし、とても丈夫ですので、油断してるとひとりでに増え、庭じゅう大洪水になったりしますのでご注意をあれ。

(5/2 小川エリア)

上の写真は4/27頃撮影です。紫の花が在来種といいたいところですが、この草は世界中に200種類ぐらいあるそうで不明。下の写真の白花が5/2撮影です。その花の色から「5月に白波がたつぐらい天気が荒れる日がある」 とでも勝手に見立てましょうか~
我家での花期は約1週間違いです。

立浪草(タツナミソウ):シソ科タツナミソウ(スクテラリア)属・耐寒性多年草(花3~4月・草丈15~30cmくらい)日当たりのよい林縁や草地に生育、日本自生(本州~九州)、朝鮮半島~中国、台湾~東・南アジアに分布



ターシャさん

2009-05-16 22:17:47 | よその庭
(ターシャ展)
1週間に一度、講師として行っている町田デザイン専門学校から、ターシャ・テューダーさんのチケットをいただいたので、先日見に行った。

ターシャさん(故)は私が説明するまでもなく、アメリカで愛されていた絵本画家であり、挿絵画家・園芸家(ガーデナー)・人形作家でもある人ある。数年前、NHKで放映された「ターシャ チューダー四季の庭」は記憶に残っている人は多いんじゃないかと思う。

その展覧会は絵本の原画をはじめ、日常で愛用した衣類や食器、庭の道具類などを中心とした展示で、全体にこじんまりとした展示ではあったが、見ごたえがあるものだった。
展示の中で日常生活で愛用しているお皿があり、よくみるとひびだらけだった。何でも、お気に入りだったその皿は何度も割れてしまい、そのたびに接いでまた使用するというものだった。普通であれば割れたものをわざわざ接いでまで使用しないと思うし、そもそもお気に入りならあまり使用せずに、どこかに飾っておくか、使用を控えるかすると思うがそれをしない。お気に入りのものはそれを使う事がによってその真価を発揮するというのだ。ターシャさん華やかな面が取り上げられがちだと(私は)思うが、モノに対して厳しくもやさしいまなざしを感じるエピソードであった。

ターシャ・テューダーさんが見る者を魅了するのは、花を通して感じる一種の華やかさだけではなく、決して平坦とはいえない年月の中で、それでも絶えず手と体を動かし、生活と共に庭やその他があり、それは努力云々というより、生活そのものであり、それらが空気感として伝わってくるからだと思う。だからこそ、発する言葉には力があり、説得力があるのだと思う。

(キンタの庭)
ホームページを見ていただいている人は何の画像か解ると思うが、庭に向かって腰掛けている後ろ姿は、パン屋のコック、キンタさん。新作のパンの構想を練っているらしいが、椅子の傾き具合がその出来なさ具合を表している。グリコのおまけの電子レンジやレジが見える。ターシャ・テューダーさんの庭とは全く無関係なのである。

追伸、「住人十色」(じゅうにんといろ)という番組 http://www.mbs.jp/toiro/ で我家が紹介される次回予告(動画)が見れます。本番組は5月 23日 (土曜日)17:00~17:30毎日放送放映です。関西地方のみ放映で、住人本人(じゅうにんほんにん)も見れません。ってどうゆう事(笑)


密度

2009-05-12 12:34:28 | 住宅
(建築中の住宅にて)
気にかけ、手間をかけた空間は、そのかけた分だけ密度が上がる。

以前、ある二世帯住宅の設計をした時のこと、そのお宅の工事は順調に進んでいた。工事も終盤に差し掛かった頃、ご両親のスペースだけはスケルトン状態のままであった。施主の当初の方針であったのだけれども、さすがに手が入った、他スペースとの対比が鮮明になり、なんだかその空間がぽつんとひと部屋(ひと空間)残され、その密度の差は歴然となった。
それではと、みんなであれやこれやと考え気にかけ始めると、それまで殺風景とさえ見えたその空間が、みるみるうちに生き生きと、そして密度を増してくるのを感じた。壁を作ったり、色を塗ったりという、具体的なアクションをしていないにも関わらず・・・である。

何年か前に上映した宮崎駿の「ハウルの動く城」という映画の中で、カルシファーとかいう火の悪魔がでてきて城を動かしていた。そしてその火の塊が城を離れた瞬間、城は崩壊するーという場面があった。その時私は、その事柄を住宅に置き換えて見ていた。「そうだよ、住宅もこの「火」みたいな何かでなりたっているよなぁ~」などと。。(もっとも、その辺りは宮崎駿が意図したところかもしれないと思うのであるが)

住宅でも良くありますよね。構造的に云々以前の、どうして建っていられるんだろうと思えるような古い家が(でもなぜかとても魅力的なんです)、その家主がいなくなった途端にその家は覇気を失い、時に崩れ始めるという事が。。。勿論、手入れが出来なくなった事、空気の入れ替えが出来なくなり部材の劣化が進行した事など、物理的な理由はいろいろあるとは思うが、それだけではないような気がしてならない。
それがなんだか言葉では説明できないけれど、言葉にすれば「気」や「気持ち」あるいは「思い」みたいなものではないかと。

「気」にかけて、手間隙かけてあげて、「密度」は増す。窓ひとつとっても、大工さん左官屋さんはじめ、職人さんの細かい気配りと、手間隙かけた協力があったからこそ、この家の「窓辺」(前述)になったと思う。
しかし設計や工事関係者ができるのはここまで。そこからそこの住人が住みはじめて、ただの「箱」から「住宅」になると思う。そして、住みながら気にかけて手間隙かけて、より魅力的な住宅になっていくのだと思う。